無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年02月15日(土) 今日はケンカしなかったね/映画『スコルピオンの恋まじない』/DVD『新八犬伝 辻村ジュサブローの世界』

 二、三ヶ月前からしげは今日のこの日を楽しみにしていた。
 なんて書きだしで始めちゃうと、まるで結婚式みたいだが(^o^)。
 東京の方の公開からは数ヶ月遅れではあるが、ダン・エイクロイド客演の(主演はウディ・アレン)『スコルピオンの恋まじない』の福岡公開初日なのである。
 何度か書いているが、しげはダン・エイクロイド主演の『ブルース・ブラザース2000』に都合20回以上、劇場に通ったほどの(しまいにゃ劇場支配人の外国人に顔を覚えられたらしい)ダン・フリークである。
 まあ、いい役者だとは思うがなんでそこまで入れこむか、という野暮は言うまい。誰しも、そういう憧れの人を持っているものだ。こないだも、『帰って来たウルトラマン』を見ながら、しげに「ダンが出てるよ」と言ったら「え? どこどこ!?」と目を輝かせたので、「団次郎」と言ったら、ちょっと惨殺されそうになりました。しげに冗談は通じないのである。
 こんなしげだから、ダンの初日と来れば、朝イチでしかも一番乗りでないと気がすまない。
 ところが、そのしげが寝過ごしてしまった。
 第1回の上映は、11時からなのだが、しげが目を覚ましたのは10時過ぎ。劇場は天神の外れにあるので、とても今から急いで出かけても間に合わない。私はもっと早くに起きていたのだが、ネットを見ていたりしていたら、時間の経つのをつい忘れていた。
 しげが泣き出しゃしないかと、ちょっとハラハラしながら様子を窺う。目が覚めるなり、挨拶もせずそのままトイレに向かうしげ(挨拶しないのはいつもだが)。俯いてショボンとはしているが、泣いてはいないようだ。
 トイレから出てきたところで、さりげなく「何時に出かける?」と聞く。
 ……返事がない(^_^;)。
 「2時の回に間に合うのでいいかな?」
 「……もう、見てる人がいるよね」
 「……うん」
 「どんな人がいるかな」
 「……さあ……」
 私になんと答えろと言うのだ(T∇T)。
 でもまあ、何とか心を落ちつけてくれてはいるようだ。考えてみれば、東京の方では既に公開済みなんだし、今回はそれほど「一番乗り」には拘らなくてもいいはずなのである。

 外は雨である。
 比恵から地下鉄に乗って、合間の時間をベスト電機のlimbに寄ったり福家書店に寄ったりして潰す。
 天神をうろつくときは地下街を利用することが多いので、殆ど傘を持ち歩く必要はない。今日もいつものデンでここまでは全部地下を通って移動していたのだが、外に出た時点で、ついうっかり傘を忘れていたことに気づいた。
 劇場のKBCシネマに行くまでには、ちょっと距離がある。時計を見ると、上映時間の30分前。徒歩で10分の距離だから、どこかそのへんの店に入って傘を買う時間は充分あるのだが、そんなことを言い出そうものなら、ただでさえ時間に遅れることを異常に気にするしげのココロが落ちつくはずはない。
 覚悟を決めて、雨の中、早足で劇場に向かう。雨といっても土砂降りではなく、小雨だったのが幸いした。濡れはしたが、ずぶ濡れで風邪を引くというほどではない。

 KBCシネマは、5、6年前までは本当にKBC(九州朝日放送。テレビ朝日系である)の建物内にあったミニシアターである。
 一階が品のいい喫茶店になっていて、そこでサンドイッチとコーヒーで一服してから映画を見る、というちょっとだけエスタブリッシュな(^o^)気分になる、というのが楽しみだったのだが、KBCの改装で劇場が潰されてしまった。
 映画館自体は存続して、真向かいの空地にプレハブみたいな建物を立てて、今はそこがKBCシネマになっているのである。座席はそう悪くはないが、ロビーがともかく狭く、あまり、エスタブリッシュとかゴージャス、という感じはしなくなっている。天神というよりは長浜に近く、地下鉄やバス停からも歩いて遠いので、あまり行き易くはないのだが、『スコルピオン』のように、ここでしかやらない、という映画も多いので、それなりに繁盛はしているようだ。
 ついた時にはちょうど1回目の上映が終わる少し前であったが、2、30人のお客さんがゾロゾロと出て来ていた。オジサンも中にはいるが、オトナのカップルや、大学生風の女性たち、概ね女性率が高い。でも、ダン・エイクロイド“一人”が目当てで来ている客はしげくらいのものであろう(^_^;)。

 映画『スコルピオンの恋まじない』。
 原タイトルは“The Curse of The Jade Scorpion”。
 “Curse”は普通、「呪い」って訳すんだけれども、「ジェイド・スコルピオンの呪い」じゃ、どうしたってホラー映画にしか見えないから、この邦題は正解。
 キャッチコピーの「しあわせの処方箋、教えます」ってのはハズシてるけど。
 
 1940年のニューヨーク。C.W.ブリッグス(ウディ・アレン)は、一流保険会社ノースコースト社に勤務している自称・腕利き保険調査員。まあ、決して二流ではない、という程度には事実で、社長のマグルーダー(ダン・エイクロイド)の信任も厚い。ピカソの盗まれた名画を見付け出したりと、最近は特に絶好調である。
 ところが、最近入社してきた同僚のベティ=アン・フィッツジェラルド(ヘレン・ハント)は直観に頼るブリッグスとは考え方が正反対の合理主義者。おかげで彼とは顔を見るたびに皮肉を言い合う犬猿の仲だった。
 ところがある日、二人は同僚のジョージ(ウォーレス・ショーン)の誕生パーティで、インチキ魔術師ヴォルタン(デヴィッド・オグデン・スティアーズ。米版『千と千尋』の釜爺!)のマコトシヤカな「ジェイド・スコルピオン(サソリのペンダントである)の呪い」によって催眠術をかけられて、「コンスタンチノープル」「マダガスカル」という呪文を耳にするたびに、恋に落ちてしまう関係になってしまった。
 ところがそれはヴォルタンの巧妙な罠。その日をから謎の宝石泥棒が世間を騒がせ始め、ブリッグスは犯人を捕まえようと奔走するのだが……。

 もちろん、実行犯はブリッグス。
 何しろホントに泥棒やってるんだから、指紋だの何だの次から次へと犯人の証拠が出てくるんだが、それをなんとか言い訳しようとどんどんデタラメなことを喋り出すアレンの芸が面白い。この言い訳芸、『何かいいことないか子猫チャン』や『OO7/カジノ・ロワイヤル』のころからのアレンの持ち芸なのだけれど、年を取ってもこの話芸だけは衰えない。ジョン・ベルーシ、チェヴィ・チェイス、ダン・エイクロイドたちも、これまでにこぞってこの「言い訳芸」を披露してくれているが、やはりウディ・アレンのそれが一頭地を抜いている。
 体技タイプのコメディアンが旬を過ぎると映画が作れなくなって行くのに比して、そろそろ70歳になろうというアレンが新作を連発できるのは、彼が基本的にスタンダップ・コメディアンだからだろう。
 「話芸」と言っても、もちろん面白い「間」を作るためには動きのキレは必要なわけで、催眠状態から正気に戻る切り替えの間などは絶妙で、この分だとまだまだ面白い新作を取ってくれそうな気配である。

 現実には、こんなに簡単に催眠術にはかからないものだろうが、それは映画のウソとして許容できる範囲。催眠術にかかっても、本人がイヤなことは絶対にしない、という事実は世間一般の常識になっていると思うが、ブリッグスにはどうやら泥棒願望もあるらしいので、その点はクリアーしている。
 パンフレットには心理学者の門前進氏が解説をつけており、それによると催眠状態に入っても、完全に記憶が欠落するわけではなく、「今、自分は催眠状態にあるんだ」という心は残っているそうである。どっちかと言えば、ブリッグスもベティも完全に自分の催眠中の行為を忘れちゃっているのが事実と反するのだが、そこに突っ込むと映画自体が成り立たないから、これもしょうがなかろう。
 じゃあ、催眠術で犯罪を犯させることは不可能かというとそんなことはなく、やはり門前さんの指摘によれば、現実に催眠誘導(「催眠をかける」という言い方はしないそうだ)を利用した事件はかなりあるんだとか。つまり、実際には「催眠誘導されてるとわかってるけどやっちゃった、やった以上は逃げるしかない」っ感じになるものなのかな。

 まあ、基本的には面白かったし、年を取っても決して説教臭い映画を作らないアレンの姿勢には共感を持つが、さすがに1935年生まれ、67歳のアレンに「中年の恋」を演じさせるのにはムリがある。後ろ頭のハゲはちょっとキツイよなあ。なんでもアレンは最初は監督に専念、主演するつもりはなくって、ブリッグス役はトム・ハンクスにオファーしたそうだ。けれど、まあ、あの人も忙しいことだし、それにオスカーを二回も取って、今更コメディを演じたくないという気持ちもあったのかもしれない。あっさり断られたそうだ。
 ダン・エイクロイドは、製作記者会見でこの映画に出ることになった理由について「今、この業界でアレンと組みたくない人間がいると思うかい?」と発言しているが、これって、ハンクスに対する皮肉かも知れない。ハンクスは『ドラグネット』でエイクロイドと組んだときはあまり気のない演技をしているから、もしかしたらこの二人、仲が悪いのかも。うまい役者だとは思うけれども、コメディアン時代のトム・ハンクスが好きな私としては、『ロード・トゥ・パーディション』のハンクスを見ていても、片岡鶴太郎がシリアス演技をしているような違和感を感じてしまうのである。いや、ハンクスは鶴太郎みたいにヘタじゃないけどさ。
 でも、ムリはあっても、ハンクスの主演である『スコルピオン』より、アレンの『スコルピオン』のほうが絶対に面白いだろう、と思う。お相手のヘレン・ハントはちょっと前ならフェイ・ダナウェイかメリル・ストリープあたりが演じたんじゃないかと思われるようなバリバリで押せ押せタイプのキャリアウーマン大女で、対抗するのがハンクスだと、普通に対等なヤリアイになってしまうのである。チビでメガネでハゲネズミのアレンが頑張るからこそ、画面上の面白さが出る。だから、「これを40代の頃のアレンで見たかったなあ」というのが正直な感想なので、見ている最中、私はできるだけアレンのハゲに心の中でカツラをかぶせて見ていた(^o^)。これからビデオ等でこの映画を御覧になろうとされる方にもそうすることをオススメする。

 ワキの役者も、みな好演。
 エイクロイドは『アンツ』に引き続いてのアレンとの共演。実はベティは社長のマグルーダーの愛人であるという設定。つまり、アレンとエイクロイドは今回はライバル関係にあるのだけれど、エイクロイドのこういう役柄は、観客から好かれても憎まれてもいけない微妙な演技が要求される。妻と別れてベティと一緒になろうと本気で思ってるけれども、離婚調停がなかなかうまくいかず、実は妻と別れたくないんだとベティに誤解されたら困るなあ、と眉を顰めている、善人と悪人の中間の役どころなのだ。これをエイクロイドは臭くなりすぎずにサラリと演じている。ラストでベティに振られて、「妻との協議を再開してくれ!」と慌てふためくあたりもうまい。
 ヘレン・ハントはちょっと大柄過ぎて、私の好みではないのだが、アレンと並ぶと「蚤の夫婦」的イメージが画面に横溢して、それだけで楽しくなる。
 ブリッグズにモーションをかけるローラ役のシャーリズ・セロン、なんでブリッグズはベティじゃなくて、こっちを選ばないんだと言いたくなるくらいの美女ぶり。
 ブリッグズが催眠から冷めるきっかけを作る親友、ジョージ役のウォーレン・ショーンは、『おかしな二人』でのハーブ・エデルマンかジョン・フィードラーあたりが演じた役回り。ホントにチョイ役なんだけれども、この人がいなきゃ、話が成立しないって役どころなのね。こういう役を設定できるかどうかで、その脚本家の実力が計れる。もちろん、アレンは一流である。

 まあ、ストーリーもオチもどこかで見たような、という印象はあるのだが、それは本作が「古きよきアメリカ」の都会派コメディだから。「ホントのニューヨークはこうじゃなかった」という批判は、こういう映画に関しては野暮というものだろう。

 思ったよりエイクロイドの出演シーンが多かったので、しげは大満足。映画自体も普通にいい出来だったし。アレンの老けぶりはやはりちょっとキツかったらしく、私が「あのハゲがなあ」と言うと、「ハゲよりアゴのシワが」と、ヒドイことを言う。演技よりもハゲだのシワだのを云々されるんだからアレンもかわいそうである。

 劇場で折りたたみ傘を200円で売っていたので、これを買う。しげはこういうときに絶対に傘を買おうとしない。どういう心理なのかよくはわからないのだが、傘を差すなんて重いし面倒臭いし、よっぽどの大雨でない限り、濡れた方がまだマシだ、という感覚のようだ。必然的に相合傘になるんだけど、そうすると照れて「アンタ一人で差してりゃいいよ、二人で入ってたら鞄やパンフが濡れるよ」なんて言うんである。女房一人を雨に濡らせて、カバンのほうが大事、だなんて「厩火事」みたいなマネが出来るかい。それに一人で傘差してたって、体でかいからカバンははみ出て濡れちゃうんだよ。
 幸いパンフは正方形で文庫よりちょっと大きいくらい、カバンの奥にしまえたので濡れずにすんだ。


 食事をどこでするかで相談、雨もあがってきたので、少し歩いて、リバレインの柳川屋で久しぶりに「櫃まぶし」を食べようということでまとまる。
 天神から中洲を通っていると、しげがレストランの前で立ち止まる。マクドナルドがロッテリアにいつの間にか変わっているのを見て、驚く。
 「うーん、ロッテもいいなあ」なんてことを言うので、「うなぎはやめたの?」と聞いたら、「あっ! うなぎ食べに行くんやった!」と叫ぶ。
 今、どこに向かって歩いてると思ってたんだ(-_-;)。

 柳川屋で特上の櫃まぶしを二人分。いつもはしげはうな重の方が好きなのだが、私があんまり「櫃まぶしは美味い」というものだから、今日は「あんたと同じもんでいいよ」。私の分も分けてやったから、しげは充分満足だろう。
 店を出る時に、しげ、カバンを持っていないことに気がつく。
 「持ってきてたの? じゃあ、映画館に忘れた?」
 「うん……」
 「じゃあ、今から取りにいくか」
 「いいと? また歩かないかんよ? 帰るの遅れるよ?」
 「別にいいけど? 休日だし。何がイカンの?」
 「アンタのことやけ、『遅くなるけん、先に帰る』とか言うかと思った……」
 「……あのな、そうやってオレを『自分モード』で勝手に極悪人に仕立てるの、やめてくれる?」
 ありがたいことにカバンは映画館で預かってもらってました。


 帰宅して、DVD『新八犬伝 辻村ジュサブローの世界』を見る。
 もうこの作品は超々々大好きだし、しげにもぜひ見てもらいたいと思っていたのだが、残念ながら、今、残っているのは、2年間の放送分のうち、わずかに第一回、第二十回(第一部最終回)、第四百六十四回(完結編)の三回分のみである。これでこの作品の面白さを伝えようってのはまあ土台ムリな話なのだが(なんたって、二十回のラストで丶大法師は八犬士を探す旅に出るのだが、次の回では八犬士はみんな揃ってて、法師は切腹して果てるのである)、なんとか間のストーリーなどを説明しながら見てもらう。でも反応は「私のうまれた年って、こんなのやってたんだあ」程度のもの。
 いや、その程度のものじゃなかったんだ、『新八犬伝』の面白さは。『八犬伝』の小説化、映像化、漫画化は数多いが、数々の脚色が施されているにも関わらず、この『新八犬伝』が最も原作の精神に忠実であり、かつ最高傑作であることを私は主張して憚らない。
 確かに、原作は勧善懲悪、因果応報の物語であるにも関わらず、脚本の故・石山透氏は、原作ではあえなく死んでいった悪人たち、網乾左母二郎や舟虫を最後まで死なせなかった。教条主義的正確の強い馬琴が『新八犬伝』を見れば、恐らく激怒したことだろう。
 しかし、石山氏は明確に「今、子供たちに何を教えるか」というイメージを持っていた。それは氏が、トコトン「言葉」に拘っている点に現われている。今、わずかに残る『新八犬伝』を見ても、とても小学生には理解不能ではないかと思える言葉が出てくるのに驚く。
 例えば、元・金腕大助こと丶大法師は、最終回で僧侶の身から元の武士に戻る。俗世の人間が僧になることは「出家」と言うが、その逆は何と言うか? 「還俗」というのである。私がこの言葉を知ったのは、まさにこの番組であったし、それ以外にも数限りない言葉をこの番組から学んだ。
 石山氏は脚本を書くのに、決して原作の「難しい言葉」を「優しい言葉」に言い換えなどしなかった。その代わりに、説明を入れまくったのである。「還俗」という言葉も、最終回で初めて出たのではなく、その前の回から坂本九ちゃんの懇切丁寧な説明があり、それがまた次の回で繰り返されたという経緯がある。
 つまり『新八犬伝』は「復習つき」学習人形劇だったのだ。
 何度も繰り返される言葉は確かに見ていてクドさを感じるものだ。しかし、それを補って余りあるのが坂本九の明朗で軽快なテンポの「語り」であった。難しい言葉でも、九ちゃんの話術でかたられるとすんなりアタマに入っていったのだ。
 会話していても分るのだが、この『新八犬伝』を真剣に見ていた世代と、それ以下の世代とでは、その語彙力において天と地ほどの違いがある。後に原作の馬琴の『南総里見八犬伝』を読んで、その文が古文であるにも関わらずスラスラ読めることに驚いた。既に、原典を読むための素養が、小学五年生のころの私のアタマにインプットされていたのである。
 だから私は教育に関して、「子供には難しいんじゃないか」という発想は持たない。NHKはもう一度『新八犬伝』をリメイクすべきだ。ただ九ちゃんの代わりをする語り手がいないことが一番のネックなんだが……。
 DVDには『真田十勇士』第一回、第四百四十三回も収録。
 出演者の名前を見ると、その豪華さに驚く。名古屋章、松山省二、岸田森、三谷昇、河内桃子、中村恵子、、里見京子……。語りはアナウンサーの酒井広から熊倉一雄に途中から代わっている。このことも記憶にあるけれど、前番組の『新八犬伝』の九ちゃんの楽しい語りがいきなりアナウンサーの説明口調に代わったんだから、当時は随分腹が立ったものだった。そのあたりのことが原因で変更になったのじゃないかな。
 懐かしくてすっかり見入ってしまったけれど、惜しむらくは『新八犬伝』の主題歌『仁義礼智忠信孝悌』(坂本九)と、『真田十勇士の歌』(村田英雄)が収録されていない。アレは音源が残ってるはずなんだがなあ。(2003.3.16)

2002年02月15日(金) ニンニクの家/映画『がんばれ!ジャイアン!!』/『キノの旅V』(時雨沢恵一)ほか
2001年02月15日(木) 携帯綺譚/『雨柳堂夢咄』5巻(波津彬子)ほか



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