無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年07月07日(水) 「目には目を」じゃ、なぜダメなのか? そっちの方が疑問。

 七夕だけれども、もちろんあれは「秋」の行事なんで、今日、笹の葉飾っても、織姫も彦星も願い事叶えちゃくれません。毎年同じこと言ってるな、私も。
 残業、8時半まで。こちらは正規の仕事で、トンガリさんの代行ではない。たまたましげも仕事が休みだったので、迎えに来てもらえた。映画に行こうか、と話をしていたのだが、しげもやや疲れ気味らしく、断念。昨日と同じく、「庄屋」に寄ってサラダうどんを食べる。昨日は低カロリーの定食で、今日もサラダと、カロリー抑え目にしているのだが、忙しくて運動ができないので体重は微増中なのである。また少し尿の回数も増えてきているし、ヤバイのだ。何とかもう少し仕事をヒマにしないとなあ。


 DVD『古畑任三郎』2ndシーズン、見残していた8話分を一気に見る。お気に入りのエピソードは第一シーズンより多く、「VS 宇佐美ヨリエ(沢口靖子)」編、「VS 林功夫(木村拓哉)」編、「VS春峯堂のご主人(澤村藤十郎)」編が私のベスト3。最後のやつなどは、犯人が壷を壊した動機が大好きなのである。つか、この3本、動機の奇抜さでみんな気に入ってるのだなあ。逆に「弱さ」を感じるのは「VS 佐々木高代(加藤治子)」編、「VS 若林仁(風間杜夫)」編、「VS 二葉鳳翆(山口智子)」編の3本。どれも「もっとうまい方法があるんじゃないか」と思わせてしまうところがネックかな。
 これくらいのペースでないと、溜まってるDVDをとても消化しきれないのだが、別にプレッシャーから逃れようと遮二無二見ているわけではなくて、ただ見出したら面白くてやめられなくなってしまっただけなのである。かっぱえびせん現象であるな。おかげで気がついたら朝の4時過ぎだった。明日も仕事だってのに、半徹夜である。ストレス解消のために見てるDVDがストレスのもとになっちゃ、ダメだねえ(~_~;)。


 ある事件が起きると、同工の事件が連鎖して置きやすいことはいくらでも例のあることである。人間は「学習する」動物だからねえ。
 長崎県佐世保の事件からひと月ちょっとは経っているけれども、これも明らかに「影響化」にある事件だろう。昨6日、新潟県三条市立井栗小学校で、6年生の男子生徒が、刃渡り22センチの柳刃包丁で、同じ6年生の男子に切りつけた。切りつけられた男子は、右腕と左手の指を切られたが、二週間のけがで命までは取られなかった。包丁は加害者男子が自宅から持ってきていたもので、動機については「悪口を言われたので、腹がたった」「(被害者に)ばかにされていた」と説明しているということである。
 予想通りというか、佐世保事件に「学習」したと見られる犯人男子は、警察の取調べに対して「(被害者に)悪かった」「悪いことをした」と話しているとか。もう完全に「警察あってもゴメンですむ」って時代になってしまいましたね。それどころか、この子、佐世保の女の子よりずっとリコウになってるじゃないですか。相手を確実に殺すことより、その一歩手前で止めたことで、さほど大きな罪に問われる心配はないし、これで受験の心配もいらなくなる。就職先だっておクニが斡旋してくれる。至れり尽せりの立場に身を置くことが出来るようになったんですからねえ。「厳罰主義は犯罪防止に効果はない」と仰ってた人権派のみなさまがた、私にはこういう犯罪が放任主義のしっぺ返しにしか思えないんですけど、どうなんですか。
 今日、井栗小学校では、全校集会が開かれて、校長が事件について「たったひとつの命は、どんな理由があっても奪うことはできない」と生徒たちに語りかけ、自分や友人の胸に手を当てさせて「心臓がドクドクしてることが生きていること。隣の子も生きている」と確かめさせたとか。……命がどうのって、そういう意識で犯行に及んだわけじゃないと思うんだけどねえ。衆人環視の教室で犯行に及んだってこと考えても、今回の事件はやっぱり「デモンストレーション」の意味合いの方が強いんじゃないのかな。まあ、学校なんてとこは「命の大切さ」だけ訴えときゃ、それでこと足れりって発想しか持ってないんだろうけど。
 子供たちは幼いけれども馬鹿ではない。オトナのリクツはわからなくても、自衛隊のイラク派兵で、彼らが「死ぬ」可能性があることなどは承知している。人間の命なんて、何かコトがあれば紙切れ以下の価値もないと判断されてしまうことくらい、とっくに知っているのだ。それで「命の大切さを」なんて言われたって、そんなの偽善にしか聞こえまい。
 「馬鹿にされた」くらいのことでムカツき、キレるようになったのは、子供ばかりでなく、いい大人も既にそうである。「ムカツク」を流行らせた後藤久美子がもう30代だから、切れやすい世代はもう、社会の中枢にまで入り込んでいるのだ。ムカツこうがキレようが、それ自体、「自己の権利」だと勘違いしてきた世代が世の中狂わせてきたのではないのか。理不尽な目に合って、それで腹を立てないのはおかしい、と仰る方もおられようが、腹を立てるなと言いたいのではない。「怒る」ことと、「ムカツク」こと、「キレル」ことは、その質が全く違うのである。
 またぞろ博多を持ち出すか、としげに文句を言われそうだが、もともと博多弁には怒ったことを表す言葉としては、「腹かいた(腹が立った)」しかなかった。常にそれは「過去形」のみで使われ、「現在形」は存在していない。つまり、「怒る」という感情に持続性はなかったのだ。
 「怒る」「腹が立つ」という共通語にしたところで、これは人間的な感情の発露であって、「ムカツク」ような内面に向かって鬱屈するようなものではなかったし、「キレル」は神経の破綻でしかない。もう、そのあたりの識別もつかない連中が、「ムカツク」ことも「キレル」ことも当然といった顔をして闊歩するようになったのだ。なんでそんなやつらを「人間扱い」してやらなきゃならんのか、と思うのだが、ナカミが畜生でも、人の皮をかぶってる以上、この社会では「人権」とやらが発生するようになっているのである。人は人を差別するようにできてんだ、その程度の悪口でキレるな、少しは堪えろ、その軟弱な精神、元から鍛えなおせ、と言ったところで通りゃしない。正直な話、「畜生どもは屠殺してしまえ」くらいは言ってやりたいのだが、そんなことを言えば、既知外扱いされるのはこちらの方なのである。
 でも、だったら、ムカツク、キレル子供たちをどうにかできる有効な方法とやらを、「人権派」の方たちは具体的に提示できるんですかね。できもしねえのにスローガンだけ掲げてる連中が一番のガンなんで、まずはこいつらから「粛清」しないとどうにもならんという気が最近はとみにしてきたんだけれども、これも「危険思想」ですか。

2003年07月07日(月) 今年も涙の雨が降る/アニメ『高橋留美子劇場・Pの悲劇』/『探偵学園Q』11巻(天樹征丸・さとうふみや)
2002年07月07日(日) 叶わぬ願い/DVD『風のように雲のように』/『映画欠席裁判』(町山智浩&柳下毅一郎)ほか
2001年07月07日(土) オタクな××話/『こんな料理に男はまいる。』(大竹まこと)ほか



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