無責任賛歌
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2004年06月12日(土) |
夫婦の写真をお見せできないのが残念です。 |
休日出勤でしかも残業。でも今日はあまりトンガリさんと関わることはなかったので、少しはラクであった。向こうから寄ってきて、昨日提出した書類にやっぱり文句は付けてきたが、それはこちらのミスではなく、トンガリさんが渡してくれた元資料自体にミスがあったので、こちらに文句を言ってくる筋合いのものではないのである。 今日は、用事があって、しげがちらっと職場に来たのだが、何人かしげの顔を見た同僚が、後で同じように口をそろえて「お嬢さんですか?」「お嬢さんですか?」「お嬢さんですか?」と聞いて来る。「いえ、妻です」「いえ、妻です」「いえ、妻です」とまた、私も同じように答えるのだが、そしたらまたみんな慌てて「お顔がソックリなんで、てっきりお嬢さんかと」「お顔がソックリなんで、てっきりお嬢さんかと」「お顔がソックリなんで、てっきりお嬢さんかと」と言い訳するのだ(^_^;)。 しげと私が似た者夫婦(性格ではなく顔立ちが)であることは知人はつとに有名なのだが、初対面の人間に一様に感心されてしまうというのは、やっぱり前世の因縁とかそんなのがあるのだろうか。
帰宅して、晩飯は瓦そば。私はネギをたっぷり使うので、あまり油臭くはならない。 CSチャンネルNECOで『人間の証明2001』を見る。 テレビ東京製作の『女と愛とミステリー』第1回放送、主演の棟居弘一良刑事を渡辺謙が演じたやつで、これは本放送時には見損なっていた。 渡辺謙の相手役が、原作のケン・シュフタン刑事から、高島礼子演じる下田美里刑事に変更されているのが最大の違いだが、進駐軍の米兵が沖縄の駐留兵に変更されてたんで、なんだ、今度の連ドラがそうなるんじゃないかと勝手に想像してたが、既に使われてた手だったのかと拍子抜けした。となると今度のやつは、いったいどういう形でジョニー・ヘイワードをハーフに仕立てるんだろうか。同じ手を使うか、時代設定を原作通りにするか、くらいしか思いつかないんだが。
そのあと、DVD『その場しのぎの男たち』を、今度はオーディオコメンタリー付きで見る。お喋りは佐藤B作、佐渡稔、あめくみちこの3人。伊東四朗さんに関する話に一番耳を傾ける。佐藤B作が、伊藤さんと組むまで、「お笑いの人じゃないか」と内心馬鹿にしていた、と正直に告白していたが、ちょっと驚いてしまった。役者をお笑いの人と演劇の人とに分ける感覚が私にはないからだが、一般的には「お笑いは格下」って感覚があるのかなあ。
読んだ本、長谷川法生『こりゃたまがった!』、マンガ、ゴツボ×リュウジ『ササメケ』1巻、秋月りす『OL進化論』21巻、『さべあのま全集6 ライトブルーペイジ』。
レイ・チャールズが10日、肝臓病による合併症のため死去。享年73。 ただの錯覚に過ぎないのだが、『ブルース・ブラザース』に出演していた俳優やミュージシャンたち、全く死にそうに見えない。みんな、死んでも生きていそうな、そんなムードがあの映画にはあった。でも実際には、ジョン・ベルーシはもちろん、キャブ・キャロウェイも、ジョン・キャンディも、この世の人ではない。 私は特にR&B、ソウル・ミュージックのファンというわけではないので、『ブルース・ブラザーズ』でのレイ・チャールズしか知らないが、あののけぞったように歌う独特のフリを、『サタデー・ナイト・ライブ』でジョン・ベルーシがマネしているのを見て、「なんて面白いおっちゃんやろう」と、すっかりファンになってしまった(そっちでかい)。 今もしげは、車のBGMに『ブルース・ブラザース』と『ブルース・ブラザース2000』のサントラをミックスして流している。レイ・チャールズの『シェイク・ユア・テイルフェザー』を私はほぼ毎日聞いているのだ。それはもう母親のお休みの子守唄なみに「日常」になっている。センチメンタルな意味合いでなく、だからレイ・チャールズは今も私にとっては生き続けているのである。
SF作家のレイ・ブラッドベリが、スウェーデンの「ダーゲンス・ニュヘテル」紙のインタビューに答えて、映画監督マイケル・ムーアの新作『華氏911』について、「私の『華氏451度』の題名を断りなくまねている」と言って憤慨しているとか。 インタビュー記事なんて煽情的に大袈裟に書かれるのが普通だし、ホントのところはブラッドベリがどの程度怒ってるのかは分らないけれども、もし本気だとしたら、ブラッドベリもケツの穴の小さいことである。 もちろんマイケル・ムーアがブラッドベリの『華氏451度』を知らなかったはずはないし、そのタイトルに“掛けて”、映画のタイトルとしたことは間違いないだろうが、こんなのは、盗作とかパクリとかいう類のものでは全くない。本歌取りほどにもならないただのモジリで、これを問題にしていたら、世の中の小説、映画、モロモロの芸術作品のタイトルの大半は「パクリ」ってことになってしまう。「華氏」という言葉は普通名詞でブラッドベリのオリジナルでも何でもないし、数字に至っては言わずもがなだ。だいたいそれを言い出したら、ブラッドベリ自身の『火星年代記』は先行する数多の『〜年代記』のパクリってことになってしまうではないか。 この手のモジリの宝庫はもちろんAV業界で、小説、映画、マンガ、アニメ、ありとあらゆる作品がただひたすら「エロ」のキーワードのもとに変換されてしまっている。そちら方面に私はあまり詳しくないので、とっさに思い出せるタイトルは、『ちびまる子ちゃん』が、『ちちまる子ちゃん』って、なってたのがあったなあ、くらいのものなのだが、確かに作家の立場からすれば、あまり気持ちのいいものではなかろう、とは思う。けれどだからといって、さくらももこがこれを知ったからと言って、「困ったな」くらいは感じるかもしれないが、憤慨するとはとても思えない。 インタビューでブラッドベリは、「『華氏911』の内容は自分の政治的な見解とはまったく相いれない」、と語ったそうで、タイトルそのものよりも、映画やマイケル・ムーア本人への不快感からの発言のようだ。案外、インタビューした記者のほうも“政治的に”マイケル・ムーアに対して反感を持っており、誘導してブラッドベリに言わせた、という可能性もあるように思う。できればそうあってほしいと願いたくなるのは、好きだった作家さんの「衰え」を認めたくはないからだ。しかしブラッドベリももう御年83歳で、ボケが進んでる可能性だって否定できない。だとしたらそちらの方がよっぽど悲しい。 私が理想とする一番のボケ方は水木しげる御大(もう半分は妖怪でいらっしゃるそうな)なのだが、誰でもが年を取ってああなれるとは限らない。自らの運命を受け容れる覚悟くらいはしておきたいのだが、私なんかきっとボケたら、今以上にトンチンカンなことばかりやらかしてしまうのだろうなあ。どこぞでノタレ死んでいたら、線香の1本でも手向けてやってください。
それにしてもアチラではタイトルに関するトラブルが多いことと言ったらない。いつぞやの日記にも書いたことだが、ティム・アレン、ジェミー・リー・カーティス、ダン・エイクロイド出演のコメディー、『スキッピング・クリスマス』が、そのタイトルがベン・アフレック主演の『Surviving Christmas』と似ているという理由で、『Christmas with the Kranks(クランク一家とクリスマス)』という味も素っ気もないものに変更させられてしまっている。『スキッピング』の場合、ジョン・グリシャムの原作が同タイトルで既にちゃんとあったというのにこの始末である。日本公開の際にはぜひ、原タイトルのままで公開していただきたいものなのだが。 それに引き換え、ある意味「パクリ天国」な日本の出版、映画、音楽業界は、逆にタガがゆるみすぎてるような(野島伸司の『人間失格』はさすがに太宰治の遺族からクレームがついて、『人間・失格』と間にクロマルが付いたが、この程度で済んじゃうのである)。『トップをねらえ!』とか、製作当時からタイトルだけはみんなトホホだなあ、と思っていたものなのだが、今度はそれのまた『2』が作られるってんだから、恥も外聞もないのである。もちろん、タイトルだけでなく、「おねえさま」とか「鉄ゲタ」とか「宇宙怪獣」とか「ユング・フロイト」とか、そういうダサさ、センスの無さすら「武器」にする「開き直り」が、オタクたちの支持を得た理由の一つなのだが。考えてみりゃ、「ガンダム」とか「ニュータイプ」なんてネーミングだって、初めて聞いたときはSFファンはこぞって「やめてくれよ」と思ったものである。ダサかろうがなんだろうが、いっぺん「認知」させちまえば、生んだもん勝ちなのだな、この世界。 ……で、その『トップをねらえ2』の公式ホームページが開設されたのだが、またまたガイナックス、「やらかしてくれている」。なんたってねえ、主人公たち超能力者たちの総称がねえ、「トップレス」だもんな(^o^)。でも、主人公たちのコスチュームはどっちかっつーと流行り(?)のメイド風なのであった。
http://www.top2.jp/
2003年06月12日(木) 正義に勝たれても/『少年名探偵 虹北恭助の新冒険』(はやみねかおる) 2002年06月12日(水) 悲しい日/『B型平次捕物控』(いしいひさいち)/舞台『笑の大学』ほか 2001年06月12日(火) マンガの画力って?/『新しい歴史教科書 市販本』(西尾幹二ほか)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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