無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年06月13日(日) 回想の『王立宇宙軍』

 ここんとこ、何だか毎日のようにDVD『東京ヴォードビルショー第58回公演 その場しのぎの男たち』を見ている。ただ流しているのではなくて、オーディオコメンタリーで見たり、ダブルキャスト版を見たり(DVDの特典映像で、伊藤博文を伊東四朗さんではなく、山本龍二さんが演じている地方公演バージョンもハイライトシーンが収録されているのである)しているのだが、昨日聞いたオーディオコメンタリーで、佐藤B作さんが、「初演、再演、再々演と行って、再演の時だけ、後藤象二郎役の石井愃一が出演していないが、タイム・ランはほぼ同じ」と言っていたのが気になった。
 で、今朝は以前録画しておいた1994年の再演版をテレビで流し、同時に2003年の最新版をパソコンで流し、同時に見る、ということをやってみたのだ。……いや、ホントにほぼピッタシだったわ (◎_◎;)。再演版はもちろんキャラクターが一人分、少ないわけだけれども、セリフをうまく各キャラクターに配分して、違和感がないように仕立てているのである。その腕前は確かにさすがは三谷幸喜、と感心してしまうのだが、芝居の出来自体は、やはり最新版の方が格段に面白い。伊藤博文と松方正義の間をコウモリのように右顧左眄する後藤象二郎のキャラクターが芝居に深みを与えているばかりではなく、再演版の時はわざとらしさが目立って笑いにつながらなかった各役者の「力み」の演技、これが悉く「上手く」なって、解消されているのである。
 例えば、傷を負ったニコライ皇太子を見舞おうと、青木周三(市川勇)、後藤象二郎(石井愃一)、西郷従道(坂本あきら)の3人がコサックダンスを踊るのを見て、松方正義(佐渡稔)が呆然としながら、「これで戦争が回避できるじゃろうか」と呟いた途端、陸奥宗光(佐藤B作)が「私は戦争の方がいい」と嘆息する間の取り方。タイミングも最新版の方がよくなっているのだが、ただ怒鳴るだけだった再演版に比べて、落胆、憤慨、羞恥、そういった感情がないまぜになって、噛み締めるように呟く最新版の方が、その悲痛さゆえによりいっそうの笑いを誘っているのである。
 芝居はコヤや、当日の観客次第で、いかようにも変わる。やっぱり一度見ただけではなかなか判断が下せるものではない。だから高いとわかっちゃいるけれども、劇場通いがやめられないのである。


 今日は練習に役者さんが二人休むというので、私もちょっと休ませてもらうことにする。先週一週間が冗談じゃなくて目眩がするほど忙しかったので、ひと休憩しないことには身が持たん、と考えたからだ。黒子さん役の人たちは結構集まる、と聞いていたので、お会いしたい気はちょっとあったのだが、そういう事情なのでご勘弁頂きたい。
 その間、本読んだり、日記書いたり、ひと寝入りしたり。メシは朝、昼、晩とも焼きうどん。具はたっぷりのネギと野菜コロッケで安上がり。
 読んだ本、いしかわじゅん『いしかわ式』、マンガ、よしながふみ『愛すべき娘たち』、雑誌のバックナンバーのパラ読みなど。

 練習を終えて、しげが下村嬢を連れてくる。こないだ下村嬢の芝居を見に行って以来だが、相変わらず楽しく遊んでいらっしゃるようだ(^o^)。明日、福岡の方に用事があるとかで、今夜はお泊り。で、ウチに泊まる、なんてことになったら、例えうら若きオトメであろうがあるまいが、当然のごとくDVD責めに会ってしまうのだが、ちょうど私がDVDで角川映画の『人間の証明』を見ていたので(夕べ『2001』を見たので、こちらも見返してみたくなったのである)、あちこち突っ込みながら解説する。
 ……あれもなあ、原作のムダなところ刈り込んで(轢き逃げされた范文雀がらみのエピソードなんて要らん)、重なり過ぎる偶然と因果応報な古色蒼然とした展開を変更して、殺人の動機にもっと説得力を持たせて、深みのない観光案内みたいな絵造りをやめてちゃんと「ドラマ」を成立させるための絵を撮って、松田優作と岡田茉莉子をもちっとマシな役者と取っ換えれば、まだ見られるものになったと思うんだけどなあ。殆ど全部か(^_^;)。
 いや、ワキの役者だけはムダにいい人ばかり使ってるんだよねえ。見終わった後、しげは「地井武男と峰岸徹って、どこに出てたの!?」と言ってたが、あの人たちですらその他大勢の一人だからなあ。確かに金だきゃ掛けてるんである。「音楽だけはいいんだけどねえ」としげがしみじみ言ってたが、そりゃ、公開当時から言われてたことである。
 そのあと、立て続けに『金田一耕助の冒険』『キルビルvol.1』『DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン』などを見せる。普通の神経の持ち主ならば、こんなヘンなものばかり見せられたら、当然閉口するところだろうが、下村嬢もツワモノで、「ここに来なかったら、一生見ることがなかったものばかり見せていただきました」なんて言っている。
 何だかんだで、2時を回ったので就寝。と言っても既に本とビデオで寝るスペースすらなくなりかけている我が家、寝室に下村嬢、居間にしげが寝たら、私は椅子で寝るしかないのであった(^_^;)。奥の書庫、そのうち片付けなきゃなあ。


 お気に入りさんの日記で、ガイナックスのデビュー作『王立宇宙軍 オネアミスの翼』について熱烈な思いを語られている方がいらっしゃった。お若い方のようなので、多分映画公開時は小学生くらいだろうと思われるのだが、そんなころからあの映画の魅力を感じてくれてる人がいるというのは、昔からのガイナファンとしては嬉しい限りである。

 しかし、当時を思い返すだに哀しくなってしまうのだが、記念すべきガイナックス製作第1弾であるあの映画は、興行的にはまるでヒットしなかったのである(厳密に言うとそれなりにヒットはしたのだが、シロウトに毛が生えた程度のスタッフの力不足による哀しさ、投下資本がデカ過ぎて、製作費が回収不能になってしまっていた。そのために、『王立』1作を製作して解散する予定だったガイナックスは、仕方なく会社組織として次作を作り続けて行かざるを得なくなる。シロウト集団である点にこそ誇りを持っていた当時の庵野秀明が、ガイナックス存続に激怒したというのは有名な話)。
 『DAICON FILM』で、素人ながらプロ顔負けの実力を持つと絶賛されていたスタッフ(『風の谷のナウシカ』の「巨神兵」の作画で「庵野秀明」の名は既に知られていたが)による手抜きの一切ない製作過程は、『アニメージュ』誌上に毎号のように掲載、逐一報告されていたし、宮崎駿もまたその出来映えを「バンダイを騙して作っている」と皮肉を交えながらも応援していた(宮崎駿は当時からこういうヒネクレた誉め方しかしないヒトであった)。
 当然、アニメファンの間でも評価は思いきり高く、結果として第5回日本アニメ大賞最優秀作品賞、第10回アニメグランプリ、第19回星雲賞メディア部門受賞など、賞にも恵まれていたのだが、いかんせん、劇場に一般客だけは来なかったのである(-_-;)。

 宮崎駿がいみじくも喝破した通り、『王立宇宙軍(『オネアミスの翼』というタイトルは、劇場公開に際して『王立宇宙軍』のまでは求心力に欠ける、と判断されて付け加えられたもので、現在は原タイトルに戻されている)』は、配給元であるバンダイをうまいことダマくらかして作られた、壮大なデッチアゲ映画である(誉めているので誤解なきよう)。「SF」の意匠を付けてはいるが、それはアナロジーに過ぎない。
 主人公シロツグ・ラーダットを始めとする「宇宙軍」の正体はその名通りのそれではなく、当時のアニメ、特撮ファンであったガイナックスのスタッフたち自身、つまり「オタク」たちであった。何しろ主人公のシロツグたちは「宇宙軍」だというだけでバカにされている。なぜ「宇宙軍」だとバカにされるのか、説得力のある説明は劇中ではなされないが、これを「オタク」と置き換えるとすんなり理解できてしまうのである。
 例えば、冒頭のシロツグのセリフは以下の通りである。


> いいことなのか、悪いことなのか、わからない。でも多くの人間がそうであるように、俺もまた自分の生まれた国で育った。そしてごく普通の中流家庭に生まれつくことができた。だから貴族の不幸も貧乏人の苦労も知らない。別に知りたいとも思わない。
> 子供のころは水軍のパイロットになりたかった。ジェットに乗るには水軍に入るしかないからだ。速く、高く、空を飛ぶことは何よりも素晴らしく、美しい。
> でも、学校を卒業する2ヶ月前に、そんなものにはなれないってことを成績表が教えてくれた。
> だから、宇宙軍に入ったんだ。


 「だから、オタクになったんだ」
 このセリフをそう読み変えたからこそ(というか、それはもうバレバレであった)、「戦争を知らない世代」であるあのころのオタクたちは、同じオタクであるガイナックスの作ったこの映画に、すっかり感情移入してしまった。ノンシャランで無気力、好きなことをやってはいるが、それが世の中の役に立つことなのかどうか、果たして生きがいと言えるものなのかどうか、答えを出せないクセに、いっぱしの性欲だけはあるというダメ人間・シロツグは、まさに「我々」だったのである(多少、誇張表現は入っているので、みんながみんなそうだったとは思わないように)。
 こんなダメなやつを相手にしてくれる女なんて、宗教にハマッてるリイクニ・ノンデライコくらいしかいない(^_^;)。……ああいう雰囲気の、澄んではいるけどちょっとアブナい目の女の子って、あの当時は結構いたのである(今もかも)。私もちょっとだけ勧誘されかけたことあったなあ……「○理」とか「○○○の○」とか(~_~;)。シロツグとリイクニの「ダメ人間」どうしの、ベクトルが違っているためにどうしてもズレてはしまうのだが、どこかシンパシーを感じないではいられない微妙な関係は、オタクたちの陥っていたコミュニケーション不全の状況そのものであった。
 この「オタクである自ら」をアナロジーとして描く、という手法は、後に『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』『新世紀エヴァンゲリオン』と、ガイナックスの製作するアニメーションに悉く継承され、着実に「オタクによるオタクのためのアニメーション」路線を築き上げていくことになる。

 『王立』が製作されたのは1984年のこと。実際、当時の「オタク」のイメージはと言えば、宅八郎がその代表のように言われていたことでもお分かりいただけようが、ただ自分の好きなアニメ、特撮、フィギュアに入れ込んでいるだけで、「あいつらは何の生産性もなく、コミュニケーション能力もない、引きこもり型の気持ち悪いやつだ」、という偏見と憎悪に満ちた最悪のイメージでしか受け取られてはいなかった。
 今でもオタクのそのようなマイナスイメージが完全に払拭できているわけではないが(痛いオタクは実際にいくらでもいる)、少なくとも当時の、変態か犯罪者でも見るような目つきで見られ、毛嫌いされていたような状況はかなり軽減されている。……冗談ではなく、たとえ知人であっても、相手がノーマル(~_~;)な人であったら、「オレって実はオタクなんだ」とカミングアウトすることすら憚られていたのである(この状況は、1988年の宮崎勤事件を経て、1990年代半ばに至るまで続いた。「オタク」のイメージが必ずしもマイナスなものばかりではない、と世間的に認知されるようになったのは、もとガイナックス社長である岡田斗司夫さんの展開した「オタクエリート論」と、そしてガイナックス製作の『新世紀エヴァンゲリオン』の1995年から翌々年にかけての大ヒット現象によるところが大きい)。
 実際、当時のオタクたちに「何かが作れる」とは、誰も考えていなかった。いや、もちろん各大学のサークル、同人活動を通じて、マンガ同人誌や自主製作映画、アニメーションを作っていた連中はたくさんいたのだが、世間的な認知は今ほど高くはなかったのである。ガイナックスの前身である「DAICON FILM」のスタッフたちも、SF大会のオープニングアニメーションや『快傑のーてんき』『愛國戦隊大日本』『帰ってきたウルトラマン』などの自主映画を製作していたが、ファンジンの外にいる一般人たちにとっては、「あいつら何をバカなことやってるんだ」という目でしか見られてはいなかった。
 オタクたちには等しく、そういった世間の偏見と迫害に堪えてきたルサンチマンの歴史がある。しかし同時に、「その程度の“軽い”心の傷」しかオタクたちにはない、ということが、一つ前の全共闘世代、更に前の戦中派、といった人々に対しての劣等感のようなものまでオタクたちの心の中に形成させていた。庵野秀明の「ぼくたちにはアニメや特撮しかない」という発言の裏にある空虚感、喪失感は、自分たちが何か人間としてケツラクしているのではないかという強迫観念が生み出しているものである。オタクは、その劣等感ゆえに、偏見の目で見られているにも関わらず、それをきっぱりと撥ね返すことができない。『王立』には、そういったオタクたちの「空気」が蔓延していた。
 だから、そこで負けたくはなかった。
 「宇宙になんて上がれるはずがない」=「たかがオタクに何かが作れるはずがない」
 宇宙船打ち上げのたびに失敗に失敗を重ね、諦めかけた同僚たちにシロツグは叫ぶ。

> ここでやめたら俺たちゃなんだ……ただのバカじゃないか。ここまで造ったものを全部捨てちまうつもりかよ。今日の今日までやってきたことだぞ。くだらないなんて悲しいこと言うなよ、立派だよ! みんな歴史の教科書に載るぐらい立派だよ!
> 俺はまだやるぞ。死んでも上がってみせる!


 アニメや特撮を消費するだけではない、「創造者」としての「オタク」の姿がここにはある。
 これで泣けないオタクはオタクではない(T.T)。
 もちろん、映画として見た場合、打ち上げまでに出た犠牲者の扱いが軽い、戦争アニメとして見た場合、人間の「死」の重さがリアルに表現されていない、という欠点はある。しかしそれこそがこの映画が「戦争」を扱った「SFアニメ」ではない証拠なので、戦争やってるおエライさんたちはオタクを理解しない「オトナたち」の謂いであるし、途中でリタイアしていった人々は、よくある「オタクどうしの内輪モメ」で消えていった人々なのである。それらをオブラートに包むように「死」という記号に転換させてしまったのは、仲間うちの人間関係のドロドロをそこまでリアルに描くことが、さすがに当時のオタクたちには心の傷が深すぎて、できることではなかったからだろう。その点を突っ込めば、『王立』は「まだまだ甘い」「所詮はオタクの癒されたい系アニメ」と批判されても仕方がないところはある。
 それでも当時のファンの読者投稿などを読めば、『王立』から「オタクからオタクへの強いエール」を感じていた者がどれだけいたかが見て取れる。私もまたその中の一人だった。自分たちの好きなもの、やってることは、決してムダなのではない。決して取るにたらないことではない。後指を差されようが、決して恥じる必要はない。勇気を出して、前を向いていいのだ。……そういう「エール」である。「オタクが楽しめる娯楽としてのアニメ」なら、それまでにも数多く存在した。しかし、「オタクを応援してくれるアニメ」、そんなものは、これまでにただの一本だってなかったのだ。『王立』がまさにその「最初の一本」だったのである。ガイナックスがどうして『王立宇宙軍』というタイトルに拘り、『オネアミスの翼』というタイトルを捨て去ったか。それはまさに「宇宙軍」=「オタク」であるからにほかならない。
 ガイナックスは現在までに、良かれ悪しかれ、「オタクの代表」としてのアニメを作り続けて来た。だからある意味「オタク否定」とも取れる『エヴァ』については、「裏切られた」と感じたオタクたちから、感情的過ぎる反発、非難、罵倒もあった。しかし、今でもガイナックスは、「オタク」の看板を降ろしているわけではないと思うのである。かつて、庵野秀明は『トップをねらえ!』について、「オカエリナサイBOX」のライナーノートで、はっきり「オタクのためのアニメ」と明言した。だとすれば、新作『トップをねらえ2!』もまたそうであるに違いない。
 「その人」が本当の「友人」ならば、彼は自分とともに笑い、ともに怒り、ともに泣き、時には落ちこんでいる自分を叱咤し、時には苦言を呈して忠告したりもしてくれるものだ。もちろん、「その人」自身がヤサグレてしまって、こちらが怒る場合だってある。ガイナックスのアニメは、どの作品もまさにそういう「インタラクティブなアニメ」であり続けた。
 だからまあ、この10年以上、未だに「製作継続中」である『蒼きウル』も、いつか必ず作られるものと期待し続けているし、『トップ2』だって、「どんな出来になろうが付き合おう」と思いこめるのである。『フリクリ』や『アベノ橋』あたりからガイナックスアニメに付き合い始めた若いファンの人にはちょっとわかりにくい心理かもしれないが、「思い」には必ず「歴史」が伴っているものなのである。
 『王立』のラストシーン、宇宙で一人漂うシロツグの脳裏に浮かんだのだろうか、エンディングのタイトルバックとして、それまでの「この国の歴史」の1ページ、また1ページが、紐解かれるように流れる。それは全てこの作品のために創造された架空の歴史、現実世界から見ればただのファンタジーであるのだが、そのファンタジーにこれだけの労力をかけたという証明でもあるのである。それは既に現実をも凌駕しえる、強いエネルギーを孕んでいた。よく、アニメのエポックメーキングは「ヤマト」「ガンダム」「エヴァ」であるとは言われる。しかし、『エヴァ』の先駆的作品として、この『王立』が存在していること、『王立』が存在していなければ『エヴァ』だってありえなかったこと、それは紛れもない事実なのである。

2003年06月13日(金) ある正義の死/『日本庭園の秘密』(エラリィ・クイーン)
2002年06月13日(木) 暗い木曜日/『名探偵コナン』37巻(青山剛昌)ほか
2001年06月13日(水) とんでもございません(←これも誤用)/『少女鮫』6〜9巻(和田慎二)ほか



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