無責任賛歌
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2004年06月04日(金) |
やっぱり出たよ、トンチンカンさん。 |
なんだかまた、長崎佐世保同級生殺人事件(こんな言い方がだいたい定着しつつあるようである)の追っかけ日記みたいになりつつあるな。 昨日の日記を読み返してみて、寝る前でウツラウツラしながら書いたせいもあるのだろうが、かなり激烈な書き方をしているのに、自分でも驚く。加害者女子を「鬼」とまで書いているのである。いや、そう書いたことは覚えているのだが、自分の意識の中では、このとき、「あまり激しい書き方はしないで、穏当な表現にとどめとこうかな」と考えて、「鬼」という言葉を選んでいるのである。なんでや(~_~;)。半分アタマが寝ているので、抑制が効かなくなっていたのだろう。 けれど、これはつい、加害者の少女にも“同情してしまいそうになる”自分を戒めようとした意識の反動かとも思われる。実際、十代前半のころの自分を思い出してみれば、この加害者女子ではないが、「こいつ、殺してやりたい」と思っていた相手は、そりゃあ両手じゃ足りないくらいいたものだ。肉体的な特徴をからかわれた、些細な失敗をバカにされた、先生に誉められたのを嫉妬されてイヤガラセをされた、ともかくちょっとでも欠点を見つけたら、そこを責め立てないではいられないのがコドモの残虐性である。生まれつき眼が悪くて、小学校に上がったころには既に牛乳瓶の底のようなウズマキ眼鏡をかけていた私などは、イジメっ子の格好のエジキであった。集団で取り囲まれてボコにされたことも何度かあるし、事故で頭蓋骨を骨折した直後は、アタマを標的に狙われて、殺されかけたこともある。コドモというものは「相手が死ぬことなどは何とも思っていないのだ」ということを実感させられたものである。 そういう仕打ちを受けていれば、「殺される前に殺そう」という意識は自然に生まれる。当時は学校にナイフを持ってくることに対する規制だってなかったから、一歩間違えば、ダークサイドに取りこまれて、誰かを刺すくらいのことはしていたかもしれない。私がそうならなかったのは、親の教育の厳しさのおかげだろう。ともかく、息子に向かって「アンタが何かをすれば、アンタを殺して、自分も死ぬ」と本気で公言していた親である。いじめっ子がいくら腐れた外道であろうが、親を巻き添えにして命を捨てる気にはどうしてもなれなかった。つか、いじめっ子よりも親の方が怖かった(^_^;)。おかげで随分打たれ強くはなりました。 加害者の女子の親が、私の親よりも甘かったのだろう、とは言わない。私が事件を起こさなかったのは、多分に「運」も関連していると思うからである。殺人犯となった彼女と、ならなかった私との距離は、さほど離れてはいない。だから、「悪口を言われた」ことで切れてしまった、という動機について、つい同情してしまいそうにもなるのだが、同時に、「それで切れずに、堪えてきた子供たちだって、世間には腐るほどいるだろう」とも思うのである。ネットの掲示板などを見ても、加害者が年端も行かぬ少女であるにも関わらず、殆ど同情論が見られないのは、「誰だってガマンをしているのに」という思いもあるからだろう。キレる10代を手厚く保護するような、社会的な甘やかしが蔓延している状況に誰もが不満を抱いている中にあっては、殺害の動機となった「悪口」とやらがどんなにひどいものであったとしても、いったん殺人者にまでなってしまった人間に対して同情しようという動きはそうそう現れはすまい。 人間の心の中から「闇」を取り除くことはできない。輝く太陽の下にも必ず悪はあり、降る星のごとく深い慈愛の中にも、ドス黒い憎悪は表裏一体で存在している。あなたは、自分が理性的に「正しい」と判断して行動した行為の中に、本当に一片の悪意も篭ってはいなかった、と断言できるだろうか? また、あなたが誰かに対して向けた非難や腹立ち、たとえそれに相当の根拠があったとしても、そこに歪んだ感情が全く混じってはいなかった、と言えるだろうか? もし言える、と言うのなら、そのこと自体が、あなたが「闇」にとらわれている証拠なのである。だから、本質的なことを言ってしまえば、誰も、人の「悪」を裁くことなどはできない。 それでも我々は、自らの悪を裁かないわけにはいかない。私が現実的には不可能だとしても、加害者の少女を処断したほうがいい、と考えるのは、彼女を異常者として排斥するためではなく、誰の心にもある「闇」を処断し、自らを律する道を選ばなければならないと考えるからである。単なる「排斥」が目的ならば、それは結局自分の「闇」を甘やかし、餌をやり、ムダに太らせていくことにしかならない。たとえ更生の道が犯人女子に残されていたとしても、彼女は批判はされてしかるべきである。しかしその批判は、自らもまた、処断されるべきものを抱えて生きているという自覚を持った上でのものでなければ、批判としての意味を持ちえないだろう。
テレビでも、ようやく加害者、被害者双方のホームページの映像が紹介されるようになった。それが全部ではないにしても、御手洗怜美ちゃんの「なんでアバターがなくなったりしてんの」「どうせアノ人がやってるんだろ」(加害者女子が被害者のホームページを「荒らし」ていたのである)とかいう記述、この程度で怒るのはやっぱヘンだわ、としか言えない内容である。もっとも報道はアテにならないから、これ以前に相当ヒドイやりとりがあったのかもしれない。 加害者女子は、HPの日記に「うぜークラス つーか私のいるクラスうざってー」「エロいこと考えて弁当に鼻血たらしたり」「愚民」とか書いていたり、事件の十日ほど前の5月下旬にも、教室内で夢中になって本を読んでいたとき、横を通った男子にのぞき込まれて、いきなりカッターナイフを握った手を振り上げたりもしていたそうだ。この加害者女子、やっぱりかなりテンパってた精神状態にあったんじゃないか。今は普通に見えていても、一応、精神鑑定はしたほうがよかろうと思うけれどもねえ。
こういった事件が起きると、事件そのものだけでなく、それが巻き起こした波紋のほうが滑稽で、馬鹿馬鹿しい展開を見せることがあるのは常ではあるが、井上喜一防災担当相の閣議後の記者会見の発言がまた、ぶっ飛んでいて、今さらながら、「大臣なんて、誰でもなれるんだなあ」と思わせることしきりである。 「従来の考え方をある意味で覆す。これまで男がむちゃやってなにかしでかすことはあったかもしれないが、女がやったというのは初めてではないか。最近は男女の差がなくなってきた。元気な女性が多くなってきた、総じてどの社会も」 どこからどう突っ込んだらいいか、わかんないくらいだねえ(~_~;)。 「従来の考え方」って、具体的にどういうことを言いたいの? 「女がやったというのは初めて」「男女の差がなくなった」ということから想像すると、「女は男の下で従順だったから、好き勝手できなかった」ということなのかな? だとしたら、アナクロにしても百年くらい古い「従来」だなあって気がするが。それとも「女の犯罪はこれまでになかった」と言いたいのか? もちろん、女性の犯罪なんて腐るほどあるんで、どう解釈したらいいんだか、全然わからないのよ。 で、極めつけが犯罪を「元気」って言うかよ、ということなんだけれども、コトバが不自由なのは、もう現代ニッポンにおいては老若男女を問わずであるから、これも大臣が「元気」である証拠だってことで、ま、いいんじゃないですか?
もう一つの「お笑い」は、またしてもテレビ放送等の「自粛」騒動である。 NHKは、『中学生日記〜私たちの名前はどの辞書にも載ってない』の5日の再放送を自粛。男子生徒がカッターナイフで自分の腕を傷つけようとする場面が出てくるためだって。 フジテレビは、4日午後9時からの2時間ドラマ『結婚相談員 末永卯月の推理案内状<5>』の放送を、「刃物を犯行に使用する場面があるため」という理由で中止。 TBSは、関東地区での5日午後3時30分からの2時間ドラマ『ざこ検事・潮貞志の事件簿』の再放送を別番組に差し替え。 ……刃物使ったサスペンスものを全部差し替えていくんじゃ、放送する作品、すぐに底をついちゃうんじゃないか?(^_^;) 放送局のみなさん、事件を楽しんでるよねえ。
週末だけど、今日も残業。いつものように、トンガリさんの苦情を「ハイハイ」と受け流していたら、トバッチリが秘書に来た。 気がついたら、自分の秘書でもないのに、トンガリさんに命令されて雑用をこなしているのである。しかもその雑用は、以前トンガリさんが「私の管轄外ですから」と言って、頼まれても拒否していた仕事なのだ。「自分の仕事でもないこと」を、なんで関係ない人間にやらせるかね。これだから、結局私がタテになって仕事をしなければならなくなるのである。……受け流しもできないか(~_~;)。 結局、帰宅は9時過ぎになる。それでも鹿島茂の『セーラー服とエッフェル塔』や尾田栄一郎のマンガ『ワンピース』の新刊を読んだり、昨日録画しといた先代巌治郎の『水戸黄門漫遊記』や、DVD『その場しのぎの男たち』などを見たりしているのである。 こんなふうに毎日映画を見たり、本読んだりはしてるのだが、相変わらず全然コンテンツにアップできない。やっぱ、こんなふうにタイトルだけでも日記に書いてくことにしようかなあ。感想書いてほしいものがあれば、それを優先的にアップすればいいのだし。
お気に入りの日記サイトを回っていたら、そのうちの一つに、例のアニメ『ゴースト囲碁王』(韓国版『ヒカ碁』ね)の映像が紹介されていた。佐為の服がチマチョゴリに変えられるんじゃないか、と以前日記に書いていたが、それどころか単に消去されて白いモヤの中に佐為のクビだけが浮かんでいるという、気色悪い映像になっている。 これ一つ取ってみても、韓国側の考える「文化交流」とやらがかなり手前勝手なもんだということがわかる。あくまで韓国は「教えを垂れる」側で、日本から学ぶものなんてないと考えているのだね。『ヒカ碁』を買ったのだって、韓国のアニメファンの要望に抗しきれなくて仕方なくってとこなんだろうな。自国でアニメを量産する態勢が整ってれば、本当はそんな「屈辱的」なことはしたくなかったのである。 もう日本の若い世代は、戦争のことだって知りゃしないし、知ったところで「自分の生まれる前のことじゃん、いつまでしつこくこだわってんの、バカ?」としか思わないのである。いい悪いではなく、「そういう人間」相手に、高圧的に説教したって、嫌われるだけだ。オタクが、自分のシュミを非オタクにも押しつけたがるようなものだな(^o^)。本当に「文化交流」をしたいのなら、「自分がそもそも上」って態度、変えなきゃ無理だと思うんだけど。
2003年06月04日(水) 無知の巣窟/『美女で野獣』2巻(イダタツヒコ) 2002年06月04日(火) 日常ってつまんない?/『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』1巻(安彦良和)/『ヒカルの碁』17巻(ほったゆみ・小畑健)ほか 2001年06月04日(月) Nobles oblige/『韃靼タイフーン』1・2巻(安彦良和)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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