無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2004年06月05日(土) 通りすがりさんはどこをどう読んでるんでしょうか。

 ここ数日で、一気に日記のカウンターが回ってしまい、76000、77000のキリ番もアッという間に過ぎてしまいました(^_^;)。
 掲示板にも書いていたことだけれども、キリ番報告のあった人には、「福岡限定・ハローキティのミニタオル詰め合わせ」(3点セットくらいにしようかと思う)をお送りしようと思っていたのだけれども、これだけ「通りすがりさん」がいっぱいだと、住所を教えてくれそうな人に当たる確率はかなり低くなりそうだ。さすがに同級生殺人事件直後の800人近くのアクセスは記録しなくなったけれども、それでも今日だけでもまだ300人以上の人が覗きに来ているのである。
 けれど、どうやら「見つからない」と騒がれていた加害者のホームページも発見されたようだし(親、消しとけよ)、私のホームページをきっかけにそこを探しあてようというヤカラも減って行くとは思うのである(だから私ゃ事件の関係者でも何でもないんだから、探そうとしたってムダだってば)。
 もう少ししたら、この状況も大人しくなっていくだろうから、そうすればキリ番もゲットしやすくなりましょう。実はキティちゃんの隠れファンで虎視眈々と狙っていらっしゃるお方も、もうしばらくお待ち頂けたらありがたいです。

 「興味がない」とか何とか言いながら、「日記がそこにある」ことがわかれば、覗いてみたくなるのは人情である。
 私も一部、その加害者少女の日記(らしきもの)を見てみた。散見してみただけだが、コジツケようと思えば、事件にコジツケられる文章がないわけではない。しかし、事件を全く知らない人に、「この日記どう思う?」と聞けば、「別に普通じゃん?」と答えるだろう、と思われるくらいに普通の、小学生の文章である。
 事件前日は大久保小学校の運動会だったようだ。加害者少女は「今日運動会だったんだけど、バナナの皮で滑ったら・・・・・(ウソ)移動中にこけました。ギャグ漫画並みにずるっと。」と書いている。殺意を心に秘めながら、こういう普通の文章をサラリと書ける恐ろしさ、というよりも、少女にとっては、「殺人」もまた日常の延長線上にあったのだろう。あるいはせいぜい「運動会」と同列の「ハレ」のものか。まさしく、こういう子供たちはいくらでもいるし、彼女だけが特別ではない(「異常者」だという意味では明らかに「違っている」のだが、こういう子は平凡に遍在しており、決して少なくはないということである)。
 ニュースで報道された日記の一部、「苦汁、絶望、苦しみが私を支配する」という部分だが、これも全文を読むと、「けれど、全てと戦い、闇を葬り光とこの身の有り難さをそのぶん欲したい。」と前向きな言葉があとに続く。しかしその「前向きさ」は、「殺人」という行為と全く矛盾なく少女の心の中に存在している。「光と闇の戦い」という、ありきたりなファンタジーのタームが、現実的な検証もなされずに日記の文章に綴られるあたりは、彼女の人生が未だ「借り物」に過ぎなかったことを思わせる。「借り物」だから、それが大人の眼から見れば言動不一致に見えても、彼女の心の中ではさしたる葛藤も見せずに存在しえていたのであろう。けれど、「借り物の言葉」しか喋れず、数々の自己矛盾にも気がつかない人間は、大人だろうと子供だろうと、今や当たり前になって来ているのだ。
 昨日までの日記にも書いたが、彼女のような存在を「排除」しようとすることは事件の再発を防ぐことにはならないし、そもそも不可能である。あなたの隣にいるいたいけに見える女の子もまた、ひとつ道を違えれば、あの子のようになってしまう……どころか、あなたが「彼女」になってしまう可能性だって、否定はできない。確かに一生、何の事件も起こさずに一生を終える人間もいるし、そういう人間と、犯罪者との間の距離は果てしなく遠いとは言えるのだが、同時に限りなく密接してもいるのである。
 加害者少女はまた、自分には親が死んでいない旨の詩を書いてもいる。もちろんこれは事実に反している。まさか寺山修司に影響を受けたわけでもないだろうが、そのように自らを仮構した少女の心理に、ある種のヒロイズムを見出すことは簡単ではある。しかしそういう分析が事件の本質を解析できるかどうかという点について言えば、私にはさしたる意味があるようには思えない。分析とは基本的にその対象の「特殊性」を浮き彫りにすることであるが、となれば分析が最も困難なのは「平凡」ということであり、彼女の最も明確な「特徴」がまさにそれだからである。


 今日は休日出勤で、半日仕事。
 昼、しげに迎えに来てもらって、昼食は久しぶりの「ジョリー・パスタ」。カルボナーラとたらこスパゲティ、それぞれハーフサイズなので、量的にはたいしたことがない。イタリア系の料理は油をたっぷり使っているので、このあたりの配慮も必要になってくる。
 食事中、今度の公演の話をダラダラとしたのだが、一応、しげは今度の公演を最後に「引退」するつもりでいる。と言っても、芝居をやめる、という意味ではなく、「もう好きなことしかしたくないので、劇団内に『自分同好会』を作る」ということらしい。今までと何がどう変わるんだか私にはよく分らないのだが。
 芝居は一人で作れるものではないのだから、当然しげは、「これはこうしたらいいんじゃないのかな?」と意見をみんなに求める。それに対して、賛同する人もいれば反論する人もいる。何も言わない人だっている。しげだって、自信をもってものを言っているわけではないけれども、言うときは言わないといけないと思う。だから、懸命にないチエを振り絞ってモノを言うのだが、そういう自分から見ると、「意見を言わない人」は、どうして何も言わないのか、その理由が分からない。「意見はないの?」と聞いても「ないです」と答えられてしまっては、それから先、どう会話を続けていけばいいのか。そういうやりとりにはもう疲れてしまったから、これからは話がツーカーで通じる相手だけ誘って、芝居を作りたい、ということだとか。もちろん、劇団として何か芝居を作る相談があって、それに誘われれば参加してもいいと考えてはいるのである。
 自分がうまくことを運べないのは、しげ自身、頭が悪いからだと思っている。それで私にこう聞くのである。
 「アタマがいいってどういうことなのかなあ?」
 頭の悪い私にそれ聞いてどうするかねえ(^_^;)。
 けれども、「会話ができる」という視点でものを考えれば、「頭がいい人」というのは、相手のレベルに合わせて言葉を選べる人である。
 「コトバ」は一般的に考えられているような、「意味を伝達する道具」ではない。「コトバ」によって規定された「意味」は、語り手から放たれた途端に揺らぎ、常に「誤解」される運命にある。だからその意味をより正確に受け取るためには、受け手のキャパシティーが広いことが前提条件となる。でもこのキャパの広い人間がなかなかいないから、会話が成立しない、という現象は実に頻繁に起きてしまうことになる。このあたりのことを分かりやすく説明するのがまた難しい。
 「たとえばさあ、『完全な人間はいない』ってよく言うじゃん。このコトバ自体は間違ってないよね」
 「うん」
 「『医療にミスは許されない』というコトバもある。これも納得するよね」
 「まあね」
 「じゃあ、医療ミスを犯して患者を死なせた医者を『完全な人間はいない』と言って擁護できるかってことなんだよね」
 「それは……」
 「つまりコトバってのは、それが語られる背景となる前提条件があって、それは実は全て全部違う次元にあるものなんだよ。だから違う次元のコトバをつき合わせたって、矛盾が起こるばかりなわけ。だから『アタマがいい人』ってのは、相手がどういう次元でそのコトバを発しているのか、理解できる人ってことになるんだな」
 「じゃあ、何も喋れないっていうのは?」
 「厳しい言い方になるけど、『語るコトバがない』ってことは前提となる条件を共有してない人なんだよ」 
 とっさの質問で、私の言い方もかなり乱暴になってしまったが、要するに相手と会話する気があるのなら、相手がどういう前提に基づいてモノを語っているか、類推する能力が受け手側に必要になってくるということである。極端な話、「以心伝心」が成立するのは、語り手が何も言わずとも、受け手が語り手の(語ってないのだが)ほんの些細な仕草などから、「意味」を類推してしまうからである。
 ネットなどの論争で話が噛み合わなくなるのは、たいていある次元のコトバを、別の次元のコトバで反論しているからである。「ウソつきは泥棒の始まりだぞ」「でもウソも方便って言うじゃないか」このような反論は、それぞれの言葉が成立しているフィールドが異なっているのだから、突き合わせるだけ無意味なのに、そのことに一向に気がつかない人があまりに多過ぎる。
 この「次元の違い」は具体的にいちいち説明し出すと膨大な時間がかかってしまうし、説明して分かってくれるような相手なら、そもそもトンチンカンな誤解はしないものだから、説明してみたところで徒労に終わることが多い。ほんの数年前まではネット環境の広がりが、そういう齟齬を軽減してくれるようになるかと思っていたのだが、全然そうはなっていないのは、そもそも「アタマの悪い」(=心の狭い)人間が多過ぎるからなんだろうね(-_-;)。


 帰宅してひと寝入り、夕べあまり寝ていなかったせいか、夕方過ぎまで寝てしまった。起きてからは読書何冊か、『トンデモ本の世界S&T』、『山田風太郎忍法帖短編全集2 野ざらし忍法帖』、マンガ、青山剛昌原作『名探偵コナン特別編』21巻、石川賢『神州纐纈城』1巻など。
 CSでアニメ『ファイブスター物語』、『ゆめりあ』第1話、映画『地獄』など。
 数時間でこれだけの本が読めるのは、速読に慣れているからである。その分、内容はすぐに頭から抜けていくが(意味ないじゃん)。

2003年06月05日(木) なんかタイトル思いつかん/『キカイダー02』5巻(石ノ森章太郎作・MEIMU)/『ヒカルの碁』22巻(ほったゆみ・小畑健)ほか
2002年06月05日(水) 人間失格かな、やっぱ/『『鉄人28号』大研究』(飯城勇三)/『ちょびっツ』3・4・5巻(CLAMP)
2001年06月05日(火) 一日本しか読んでません/『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』(長谷川町子)ほか



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)