無責任賛歌
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2003年10月02日(木) |
追加日記1/『サブカルチャー反戦論』(大塚英志) |
昨日の日記に書き忘れてたことだけど、先月メールを送って来てくれた外国のお友達の数、なんと67人。先々月の三倍に増えている。 うーん、何が原因だかは分からんけれど、それだけこの日記の注目度が高くなってるってことなんですかね。スパムメール送りつけられるようなレベルでの人気ですが(^_^;)。でも内容は相変わらず圧倒的に「あなたの○○○○○を○○○○○○○○せんか?」というものばかりなんだな。どうしてはるか海の向こうの人が、見も知らぬ私のナニの心配までしてくれるのか。世の中、親切な人がいっぱい増えてることである。
日本人の見知らぬお友達からも、もちろんメールは来てるけれども、昨日来たのはこんなの。
> ケイコです。ひさしぶりー憶えてる? 最近携帯変えたの。綺麗な写メ撮れたんで送ります。見てみてね。
「写メ」ってなんだ? と迷ったが、これ、「syashin しゃしん」と打とうとして、「syashime しゃしめ」って打ち間違えたのだろうか? ちょっとムリがある気はするが(あとで「写メール」の省略形だと気がついた。ちょっと語感が悪過ぎやしないかなあ。それに「写メを撮る」なんて言い方もヘンだぞ)。 「ケイコ」という名の知り合い自体はこれまでの人生を振り返ってみると(振り返るほどのものではないが)何10人といはする。小学校の担任の先生は三人いたけど、そのうち二人がケイコだった(^o^)。思い返せば「ケイコ」という名前の人間には結構縁があって、私の人生の節目節目になぜか「ケイコ」が現れることが多いのだが、これがたいていロクなことをしてくれないのである(-_-;)。私にゃ「ケイコの呪い」でもかかってるのか。 一番私に縁の深かった「ケイコ」さんはもう鬼籍に入られている。もしそこで写真を撮ってくれてるんだったら、ぜひ見せてほしいとは思うのだが。 今んとこ、馴れ馴れしく「ケイコです」と名前で呼び掛けてくる知り合いに心当たりは全くないので、メールは即刻削除。だいたい私は仲間内で「○○ちゃん」と名前で呼びあってる人に対しても、頑なに名字で呼んでしまう融通の利かないところがあるので、それを知ってりゃ、絶対名字でしかメールは送ってこないはずなのである(おかげで知り合い同士が結婚して名字が同じになってしまうことくらい困ることはない)。 これに引っかかる人間ってのも広い世の中に結構な率でいるんだろうなあ。
NHKBS−2で『イーストウッドの肖像』。 もう誰もが知ってる有名な事実だが、クリント・イーストウッドの出世作『荒野の用心棒(“Per un pugno di dollari”=「ひと握りの金のために」) 』は黒澤明監督の『用心棒』の盗作である(後に東宝に権利金を支払って和解した)。このドキュメンタリー、いかに『荒野〜』が『用心棒』をバクッたかを、二作品の映像を交互に見せることで説明している。なんかこうハッキリと示しちゃうというのもちょっとイヤガラセに見えなくもないな。 この盗作騒ぎを『用心棒』自体がダシェル・ハメットの『血の収穫』の影響を受けてるじゃないか、とトンチンカンな擁護をする向きがあるが、「インスパイアされた」というのと「盗作した」のとは違うのである。『用心棒』は『血の収穫』の換骨奪胎(しかし、黒澤明がハメットを読んでいたかどうかは疑わしい。少なくとも敵対する二者の間で第三者が利すると言うなら、原典は『漁夫の利』にまで遡れよう)であるが、『荒野の用心棒』は明らかに『用心棒』の盗作なんだから、ヘタな擁護はかえって『荒野』の価値を貶めてしまうというものである。だいたい、セルジオ・レオーネ監督もクリント・イーストウッドも、既に盗作を認めてるんだから、四の五の言わなくていいじゃないか。
夜、しげが急に「博多ラーメンが食べたい」と言うので、ちょっと遠方ではあるが千代のラーメン屋まで出かける。 7、8年ほど前にはこのラーメン屋にも足繁く通ってたものだったが、しばらくぶりに来てみると外見は同じであったが、中はすっかり改装されて、従業員の人も全く変わっていた。チケットを先に買うシステムになってたのも大きい。 ラーメンの味自体は昔ほどコッテリしてなくて、ややあっさりぎみの醤油とんこつ。もう一昔前のように、表面に脂の膜が浮いてるようなとんこつラーメンを見かけることは少なくなった。味が向上してきたことはいいことなのだが、こうなると、あの臭くてギトギトしてた昔のとんこつラーメンもちょっと懐かしくなっちゃうから不思議なものである。気分が悪いときに食ったりしたら、マジで吐いてたりしてたんだが。
帰宅して、しげと一緒にDVD『名探偵ポワロ』を見る。 第9巻の『二重の罪』と『安いマンションの事件』の2本。しげからはいつも「一緒にDVD見てても、あんたすぐ寝るからキライ。オレは死体と一緒に映画見る趣味ないよ!」と怒られてるので、がんばって見る。 どちらもミステリとしては定番過ぎるトリックでたいしたことはない。最初の10分でトリックを見破れる程度のものである。けれどこの2本、ポワロのキャラクターの面白さが特に目だって見られるもので、そうした興味で楽しんで見ることができる。 『二重の罪“DOUBLE SIN”』、つまらぬ事件が続いて引退を決意するポワロ、ウィンダーミアまでヘイスティングスを誘って休暇に出かける。しかし、バス旅行の途中で知りあったメアリという女性が取り引きのために持っていた細密画が盗難に合う。ヘイスティングスはメアリに犯人を逮捕すると約束するが、意気消沈しているポワロは事件に興味を示そうとしない……。 ヘイスティングスが自ら事件解決に奔走して失敗を繰り返すあたり、これで一気にヘイスティングスファンが増えたんじゃないかと思えるほどの大活躍ぶりである。デビッド・スーシェのポワロのそっくりさは充分に喧伝されてるけど、ヒュー・フレイザーのヘイスティングスもいかにもなワトソンぶりだと思う。「ようし、わかったぞ!」とポワロを置いてきぼりにして走り出すところなど、テレビの前の視聴者がみんなきっと「おいおいお前きっと勘違いしてるよ」と突っ込んでることだろう。 ピーター・ユスティノフ主演版の『エッジウェア卿殺人事件』のヘイスティングス(ジョナサン・セシル)も味はあったが、ちょっとウッディ・アレンぽくってうらなりすぎである。フレイザーのヘイスは原作より人間味も増して、これ以上の適役はないという雰囲気だ。 ゲンナリしていたポワロが、ジャップ警部の講演会をコッソリ覗いて、てっきり自分の悪口を言いまくっていると思いこんでいたのに、ベタボメされて急に元気を取り戻すのもかわいらしい。いやホントに無邪気な男たちである。 『安いマンションの事件“THE ADVENTURE OF THE CHEAP FLAT”』、オープニングでボワロたちがアメリカ製のギャング映画を見るシーンがあるが、これが何の映画か分らない。主演俳優はジェームズ・キャグニーらしいのだが、キャグニー映画を全部見ているわけじゃないので、どれだかよくわからない。 どっちにしろ、ポワロはギャング映画が大嫌いという設定を説明するためのダシに使われてるので、映画を貸し出した会社もあまりいい気はしなかったんじゃなかろうか(^o^)。
掲示板のスレッドに、話の流れで李白の詩を訳してみたのだが、そのまま流しちゃうのももったいないのでここに記録しておく。正確さはあまり気にしないように。
> 悲歌行 李白
悲来乎 悲来乎 (悲しやな、悲しやな) 主人有酒且莫斟 聴我一曲悲来吟 (ご主人、酒はまだ酌いで下さるな、まずは我が『悲来吟』の一曲を聴かんことを) 悲来不吟還不笑 天下無人知我心 (悲しみに歌わずまた笑うこともなければ、天下に我が心を知る者もない) 君有数斗酒 我有三尺琴 (さあ、君に数斗の酒を酌ごう、私には三尺の琴があるから) 琴鳴酒楽両相得 一杯不啻千鈞金 (我が琴に聞き惚れて酒を楽しめば、ほんの一杯の酒が千鈞の金にも勝るだろう) 悲来乎 悲来乎 (悲しやな、悲しやな) 天雖長 地雖久 (天も永遠か、地も久遠か) 金玉満堂応不守,富貴百年能幾何 (されど金銀宝玉を満たす家は必衰し、百年の富貴を誇る盛者はいくばくもない) 死生一度人皆有 孤猿坐啼墳上月 (死生は誰にも一度きり、ほら、猿が墓の上で月に向かって鳴いている) 且須一尽杯中酒 悲来乎 (さあ、ともかくこの杯を呑み干してくれ、悲しやな) 悲来乎,鳳皇不至河無図 (悲しやな、聖王出現の瑞兆たる鳳凰が現われることも、黄河の竜馬の背に現れた河図が見えることもない) 微子去之箕子奴 漢帝不憶李将軍 楚王放却屈大夫 (微子は去り箕子は奴隷となり、漢の武帝は李広を忘れ、楚の襄王は屈原を放擲した) 悲来乎 悲来乎 (悲しやな、悲しやな) 秦家李斯早追悔 虚名撥向身之外 (秦の李斯は後悔するに敏であったが、その虚名は既に身を滅ぼしていた) 範子何曾愛五湖 功成名遂身自退 (范蠡はなぜ五湖を愛したか、功成り名を遂げ自ら身を引くことができた) 剣是一夫用 書能知姓名 (剣なんて敵一人を斬ることしかできないし、書なんて姓名を書くことができれば充分だ) 恵施不肯干萬乗 卜式未必窮一経 (恵施は魏の恵王に万乗の国を譲られたが断り、卜式は中郎にまで昇りつめたが経の一つも極めてはいなかった) 還須黒頭取方伯 莫謾白首為儒生 (黒髪の艶やかなうちに諸侯の旗頭になりたいが、たいていは白髪頭の儒学者で終わるものよ)
大塚英志『サブカルチャー反戦論』(角川文庫・540円)。 『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義』『少女たちの「かわいい」天皇 サブカルチャー天皇論』に続く、サブカルチャーシリーズ第3弾。 全部読んでるということはやっぱり私は大塚さんのファンなのかな。大塚さん嫌いの大月隆寛はハッキリ好きではないんだけど、だからと言って大塚さんの意見に全面的に賛成というわけでもない。正直な話、大塚さんが振り挙げてるのは「蟷螂の斧」だという気はする。大塚さんの分析は鋭いけれども、政治はおろか世論一つ動かすには至るまい、という悲しい事実も感じないではいられないからである。 2年前の9.11に始まる「戦争」は、まあ見事なくらいに全世界にテロと紛争の種をばら撒いてくれた。もちろんそれをやってくれちゃったのはブッシュさんであるわけだけれども、アメリカさんに守ってもらってる以上は戦争反対なんて言えないじゃないのよ、と「現実」主義を唱えてたみなさんは、今の「現実」をどうお考えかな。 大塚さんが喝破したごとく、やや規模が大きいとは言え、アメリカ一国を狙ったただの「テロ」が「戦争」に拡大解釈されていった背景には、アメリカの政治理念がその建国以来、「映画」のような「物語」に依拠してきたという事実がある。つまり、あまりにも単純な「勧善懲悪」的「西部劇」の世界である。 インディアンの虐殺も、広島・長崎の原爆投下も、アメリカにとっては「正義の戦争」だったんである。イラク戦争を肯定することはアメリカさんの「戦争の早期終結のために原爆投下は正当化される」という意見も受け入れるのが筋なんだけど、そこまで考えてモノ言ってる人、そう多くないね。 けど、いくら小林よしのりさんみたく「作法としての反米」を標榜したところで、アメリカべったりの政治を日本が放棄できるわけもない。大塚さんはもっと率直に「この国は憲法前文や『九条』の理念を文字通りに受けとめ、愚直に生きる途がやはり本当はあったはずだ」と述べるが、それを「愚直」と自ら語ってしまうあたりに、現実としてこの国にそれを実行することは到底不可能であったことを露呈してしまっている。 だからやっぱり大塚さんの主張はムダ骨で愚かでしかないんだが、小利口ぶって「現実主義」を口にする連中よりはよっぽど心地よい。「現実を語るほど、人は現実を認識できなくなる」というのは誰の言葉だったか。人間、あまり利口になるのも考えものである。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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