脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 言葉を訳すということ

前々から思っていたこと。で、おもしろいなと思っていたこと。
たぶんみんなも、もしかしたら感じたことがあるであろう、こと。


英会話学校にいたころ、集中的に英語を勉強して、わかったことがあった。
学校では、いろいろな機会において、自分の国のことを紹介することがあった。
日本のことって、日本語って、普段なにげなくしゃべっている言葉って。
私みたいにスマートに英語を使えない人が訳そうとすると、たくさん説明しなきゃいけないことになる。
一つの事象、単語を説明するためには、一つの言葉を置き換えるだけでは済まないのだ。
もしかしたらその概念や事象は、他国にはなじみのないものかもしれないから。

日本語は、目的の言葉とか主語とかが結構あいまいでも文が通じて、「あれ」とか「これ」とか「それ」が多い。しかも、魔改造されたカタカナ言葉とかも横行している。

で、それらを他の国の人に伝えようとすると、日本語を英語に置き換えて伝えることの不可能さを実感する。

私たちが伝えるのは、概念なのだ。

だから、そのものの本質を捉えていないと、伝えることができない。

そのとき初めて、自分が伝えようとしているものの概念、本質に向き合って、考える。

何を伝えるために話そうとしているのか。私が伝えようとしているものは、そもそも『何』なのか。

訳すというのは、本質に向き合う思考のトレーニングであるということに気づいた。

事象、概念、ものごとを客観的に見て、はじめて「どう伝えたら伝わるか」が見えてくる。

そのトレーニングが楽しくて仕方なかった。


食堂で、年上おねーさんな日本人の人と、他の国の人と、ゴハンしながらお話してたとき。(チュウニの私には、大学生のおねーさんは立派なおねーさんに見えた)
他の国の人に、「どんな料理が好き?」って日本人のおねーさんが聞かれて、おねーさんは日本語で「エスニック料理好きなんだけど! エスニック!」って言っていた。
それが通じると思っていたおねーさん、けれどエスニック料理なんて言葉は、たぶん通じない。
だってもともとethnicって、「民族」とかの意味じゃなかったっけ?
それって、じゃあどこの民族の? どの国の人々のどんな料理のことを指すの?
その一方で、同じ日本人として、なんとなくニュアンスはわかる。
なんか東南アジアとか、スパイシー的な香辛料的な、インドとかそんな、あいまいなかんじの雰囲気の。たぶんそういうことを言いたいんだろうなと思った。
だったら、i love spicy foods とか、thai foods とか、そんなんのほうが本質的に通じるんじゃなかろうか。
その場にいた他のみんなは「エスニック?どういうこと?」みたいなかんじで「?」を浮かべて、おねーさんは「えっ?通じない?!」みたいな感じで、はじめてそれが通じなさそうなニュアンスだと気づいたみたいだった。

そう、そして、何かを伝えるときに、たとえばネイティブ同士でしゃべるなら、少ない言葉数でも伝わることは多いかもしれない。
けれど、英語勉強中のピヨピヨさんたちな私たちでは、たくさん言葉がいるのですよね。


ネイティブをしゃべる感覚でしゃべろうとすると、たぶんしゃべれない。
そして、言語が違うということは、歴史が、文化が、性質が、持っているものが、世界が、違うということ。
ハナから言葉を「置き換える」という概念自体が、ナンセンスなのだ。
厳密に考えたら、「訳」なんて、本当はできないのだ。
限りなく近いなにかで置き換えることはできても。

だから、英語を日本語にするのとか、日本語を英語にするのとかって、あまり好きじゃなかった。なんだかとってもナンセンス。
学校で習う、ナントカ格とかいってわざわざさらに自分の国の言葉(しかもやたら難しい言葉)でなんとかしようとしてることなんて、ナンセンスの極致だった。
英語はどこまでいっても英語だし、日本語はどこまでいっても日本語だもの。

本当は、英語は英語でしか説明できないし、日本語は日本語でしか説明できない。

だから、頭のなかで二つの言語を行き来させようとすると、つかれちゃうんだろうな。

だって、どうしたって違うんだもの。

だから多分、訳さないほうがラクなんだよね。


でもそれだけ、確固たる世界が違うということ。
それだけの存在感が存在しているということ。

そのたしかな世界の違いが、とても面白い。
そのぐらいでなくちゃ、つまらないのだ。





2011年09月16日(金)



 後ろ向きに前向き


私は、いろいろなことが当たっていた占いで、来年だか再来年だかに、「本気で頑張らないと乗り越えられない、実力が伴わなければ蹴落される(左遷的な)」出来事が待っているらしい。でもその頃、私の人生観が変わるほどの出来事が起こるとも言われた。


しんどいのはやだ…
蹴落されるのが、なんかこわい事態だったらやだ…
蹴落されてもいい けど、 しんどいのはやだ…
こ  こわい…

と、ひそかに恐れている。


『乗り越えられない現象はその人の前に現れない』という言葉があるけど、個人的な予感としては、乗り越えられない現象がやってくるような気がする。


でもだいじょうぶだ。
乗り越えられない現象を、乗り越えることはできる。
負けバトルというやつである。

だいじょうぶ、私は負けバトルを乗り越えることはできる!!
なんかきっとものすごい挫折とかグッタリとかになるかもしれないけど、それなら越えることができる!!





2011年09月12日(月)



 放っておくということ

(※たぶん暗い気持ちになるので、注意です)


寮の私が住んでいる階に、ハトが迷い込んできていた。
入れるであろうたった一つの入口から入って、非常用階段を飛んでこの4階でさまよっていた。

バサバサバサッという音がすぐ近くでしたり、グルルッグルルッと鳴いたりしていた。
このハトを外に出すには相当骨が折れる。
誰かどうにかしてほしいな、なんて勝手なことを思っていた。

今朝、早朝にゴミを出しにいったときも、そのハトはいた。

頭を縮こませるようにして、じっとしていて、隣を通り過ぎても2,3歩しか動かない。
まだ早朝だから寝てるのかな。などと思っていた。


仕事が終わって帰ってきた。まだハトはそこにいた。
いたけれど、首がグタッと地面についていて変に曲がっている。
近くで足音をさせても、ピクリともしない。

廊下を見ると、点々とそのハトに向かってフンが落ちていた。



――ああ。
ハトはおそらく、絶命していた。


それは、そうか。

水も食料もないようなこの場所で、あのハトは何日いた?
いつから飛ぶ音が、鳴き声が聞こえなくなった?
いつから、地面だけを歩くようになった?

動かなかったんじゃなくて、動けなかった。

とうとうフンまでこんなに、って思ったけど、そうじゃなくて。
死亡したときに筋肉が弛緩して便が排泄されただけだったんだな。


放っておくということは、おそらくこういうことなのだ。

するべきことやした方がいいこと、やらなければならないこと、見逃してはいけないこと、たくさんのものが日々、溢れている。

放っておけば、何かが知っているうちに、知らないうちに、崩れ落ちて、消えていく。

なんとも、後味が悪い。


けれど、すべてを拾い上げるなんて正直、できない。

できないけれど、しないけれど、後味は、わるい。


なんともいえない気分になった。



2011年09月07日(水)



 飛行機にかけるロマン

飛行機は、それはそれはいろいろな国の上を飛んで、
途方もない距離と数え切れない人々、物語、事実現実、その瞬間の歴史たちの上を飛んで、
またその人たちを乗せて、その物語たちを乗せて、ささやかな歴史たちを乗せて、
雨であった雷であった曇りであった晴れであった夜空であった夜明けであった空の、さらに空を飛んでくる。


昔のひとが天国をえがいた空は、マイナス〇〇℃の世界と雲であったが、
天国とみまごうばかりの光の雲海であった。


飛行機は、青い空のキャンバスに白い絵を描くほぼ唯一の身近な人工物であり、虹と同様、多くの人が思わずぼんやり見上げてしまう。


朝も夜も、国をこえて日付変更線をまたいで、
ときに真夜中であっても、仕事であったり旅行であったり、
喜びであったり悲しみであったり、人々はそれに乗らねばならぬ事情があり、
その生きた事情が、生活が、人生が、あたりまえのようにつまったものが、飛行機だ。




わたしは、
わたしが持っているひとりぶんの人生を握りしめて、
夜空にちらちらと輝く無数の人生を乗せた飛行機を眺めるのが、すきだ。



ハローハロー、こちら地上。
上空からの眺めは、いかがですか?



2011年09月06日(火)
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