脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 

「信頼関係」を履き違えている人間と信頼関係をつくる気にはなれない

2007年07月28日(土)



 

「オラニャン」:
普段は強気な態度で「オラオラ」と空威張りしているのに、彼女の前では「ニャンニャン」と甘える男性のこと。


こんなんがこのまま年取ったりしたら始末が悪いったらありゃしねぇ。

2007年07月25日(水)



 隣の芝は

実は私は、中学生の頃から哲学科に憧れていた。
哲学が何かなんてろくに判ってないのに、ものごとについて考えるのが好きだ。現象について。誰が何だとか、そんな個人の事情なんかどうでもいいのだ。大事なのはそこに発生して存在する現象の意味とかたちだ。

けれど哲学科を出たって具体的な将来食っていけるビジョンが無いってんで、こんな「手に職」みたいな道に来た。
けれどこちらの方にも魅力を感じたから来たわけで、
人間や人間の身体の中の仕組み、
そしてそれを恐ろしいほどに侵食する疾患やウイルス、そこに生まれる不可思議な現象にどうしようもなく惹かれていたのだった。
そういえば小学生の頃、夢中で毒キノコの図鑑や放射能の本(奇形児)や公害の本(奇病)を読み漁っていた。人体への致死的な影響を目の当たりにするたびに、どうしようもなく興奮した。残酷な好奇心である。


しかしフラリと哲学科の紹介ページなんぞを見ていると、これまた魅力的なのだ。
身近な現象から「行為とは」「他者とは」「存在とは」とか考えることを突き詰めたり学んだりする場が哲学科であるなら、と思ったらゾクゾクして仕方ない。なんて楽しそう。なんて心地よさそう。



そうなのだ、結局はただの興味と好奇心だ。
使い物にならなければ、好奇心など野次馬根性で終わる。
自分の好きなことを好きなぶんだけ、学ぶなんていうのは娯楽なのだ。
好きなところを旅するのと似ている。
本当に好きなことを好きなように仕事に出来ている人間が、いったいどれほどいることだろう。
それを突き詰める事ができるのは、苦しみを伴う努力が置き換えられるだけの情熱と才能を持っているからだ。



隣の芝は青い?
私は芝を勘違いしている。
芝(仕事)ではなくアレらは花(娯楽)である。
芝を見ているつもりが、花ばかり見て「いいなぁ」とか言っているたわけ者なのだ。


世界一周できるぐらいお金がたまったら、哲学科に通おうか。
いやむしろ、本当に国外逃亡でもしようか。

いずれにせよ、娯楽を楽しむ余裕を持てるようになってからの話だ。



2007年07月24日(火)



 身体のリズム

仕事するようになってから、朝食を食べる余裕が本気で無くなった。
以前の私じゃ考えられない事だが、朝食べずに家を出ている。


「朝食は食べたほうがいい」的な特集(今更だが)を健康番組でやっていて、
「あーわかってるよ、本当は朝ごはん食べてぇよ」と思う。
「朝ごはん食べずに昼や夜たくさん食べるのは、太るのに良い方法ですね」とか言われてて、
「いやだぁー」とちょっと泣きそうになる。
だって食べられるときに食べないと、たべるじかん無いんだも…、おなかへるんだも…、


けど、「朝ごはん」って何だろうと考える。
夜や真夜中にも働くときがあって、午前2時とか4時とかにご飯食べざるを得ない状況で、寝る時間もすごくバラバラな状態の生活の中で、いったい何を私の身体での「朝」と呼んでいいのかわからない。
寝て起きて、活動する前が朝なんだろうか?
じゃあ、3時間ずつぐらい、ぶちぶち千切れるような時間でところどころにしか寝てない場合はどうすればいいんだろう。リズムって何だろう?


わからない。
たぶん私の体のリズムは、4/4拍子→3/2拍子→5/4拍子→6/8拍子
みたいな感じで、一桁単位小節ごとぐらいに変則的なリズムになっている気がする。
個人的には5/4とか6/8が好きです



2007年07月20日(金)



 原発

例の地震の影響の



後からわかってくるトラブルに関してだけれど、
やっぱりかと思った。

人はアクシデントをアクシデントに見せないようにちょっとずつオブラートをかけて、「問題なしです」みたいに見せようとする傾向がある気がする。自己防衛反応みたいな。
まだアクシデントの10も、7も、6も見えてないうちから「10大丈夫です」と報告してしまうというか(いわゆる後に「想定外だった」といわれるような)。

チェルノブイリの原発のときだって、実はありえないほどに異常すぎる放射性物質を検出していたのに、トラブルがあったと報告も受けていたのに、実際には原子炉は壊滅状態だった(夜間で原子炉の全貌は判らなかった)のに、所長から上に報告された言葉は
「原子炉は無事です」
だった。



「生物濃縮」という言葉がある。
公害であるメチル水銀だとか、そういうのにわずかに汚染された小さなプランクトンを、小さな魚が食べる。
その小さな魚を、大きな魚が食べる。
その大きな魚を、動物が食べる、人間が食べる、
その頃にはもう、それまでの生物の中で取り返しのつかなくなるほど毒の濃度が濃縮されているというやつだ。
人がアクシデントを隠そうとしてちょっとずつ隠して上に報告されていく嘘は、
その生物濃縮に似ている。
気付いたときには致命的濃度となっている。





ところでなくなっている方々は、今のところどの方も自力で逃げる事が困難そうな災害弱者ばかりだというのを見て、
ああ、
と思った。

自分の地方で、台風が来たときに自主避難している世帯数が地域ごとに示されていた。
都市部等は少ないが、ひとつだけ目立って自主避難数の多い地域があった。
離島だ。
もともと世帯数が少ないはずなのに、他の地域に比べて目だって自主避難が多いということは、
その地域のほぼ皆がまとまって自己防衛対策を講じているということだ。

たしかあの地域は保健師の人が頑張っているところだった。
地域住民の災害時にかかわるネットワークをちゃんと日ごろから作っているのかもしれない。
地域の力は、災害時にもろに露になる。
それでも9人というのは、少ない方なのではと思う。

こんなとき病院は、保健所は。

考えさせられる。


2007年07月17日(火)



 

「幸せの扉が1つ閉じるとき別の扉が開くが、誰もそれに気づかない」
ヘレン・ケラー



終わらせたってきっとまた始まるばかりだ

別の扉にはどうやったら気付けるだろうか

何も見えない暗闇の中では、きっと立ち止まるのも不安に満ちている




2007年07月01日(日)
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