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■ 手放すということ
面白いことがあった。
父はキャンピングカーを持っていたのだが、 娘たちの学費がかさんでキャンピングカーを維持するのが難しくなってきた。 それに、娘たちの年齢があがってきたりするにつれて、キャンプや旅行にいくことも少なくなってきていた。 だから手放すことに決めたのだが、 買ってもらっても、車屋で買い手が見つからなくてどこぞかにぽつんと置かれる様を想像するのがつらくて、 なかなか売るということに踏み出せずに居た。 捨てるような「売る」という行為に踏み出すには、愛着が湧きすぎていた。
そんなときふいに、大学時代の後輩から連絡があった。 もともと義理堅く信用のおける奴だと普段から評価している人間だった。 色々話しているうちに、ふと、あの車をこいつに譲ったらどうだろうかと思い出した。 ちょうど仕事でそういうのが必要みたいだし、どこかに捨てられるような運命をたどるくらいなら、 欲しい人にゆずって大事に扱ってもらったほうがどれだけ救われることか。 そう思い、父は車をその人に譲ることにした。 案の定相手は、とても喜んだ。
それからすぐ後のことだった。父にスリランカ赴任の話が舞い込んできたのは。
任期は最低でも二年。もしかしたら三年に延びるかもしれないし、五年に延びるかもしれない。 日本に帰ってこれるのは、二年に一回と決まっている。 向こうに持っていったものを再びこちらに持って帰ってくることは困難だ。 今回は、向こうに持っていったものはすべて向こうで片をつけて(処分したり譲ったり)帰ってくるといった。 要するに、荷物はすべて片道キップ。うちには乗用車も一台あるが、それを持っていって、向こうに置いてくるらしい。要するに売るのだろう。 キャンピングカーなどこうなったら持っていても無用の長物である。 だがこのキャンピングカーも、この時点で既に貰い手がついていた。
持っていたものをひとつ手放した瞬間、次のものが舞い込んできたのだ。
人が持てる「何ものかの」容量ってのは、人によって異なるかもしれないが、それぞれワクが決まっているんじゃなかろうかとときに思う。 いや、というか、何か新しいものに飛び込むためには、持つためには、捨てなきゃいけないしがらみっていうものがあるのかもしれない。 人は何かを頑なに守り続けていたり、持ち続けている限りは見えてこない「何か」が実はあるのかもしれない。
私たちは大きさこそ違えど、一つのダンボールを両手に持っているのだ。 その中身がいっぱいになっている状態では、次の新しいものを入れようとしたって入らない。 仕方なしか進んでか、何かをそこから出してスペースをあけて、次のものを入れるのだ。 もしかしたら、中身の整理をしてスペースがあいたそのときに、新しいものを見つけることだってあるかもしれない。
「あら、ようやっとそれを手放す気になりましたか」と、遥か高みからの微笑みがきこえるような気がする。
2005年11月01日(火)
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