脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 究極の架空



たまに夢想する。
ファンタジーに出てくるような世界や、御伽噺にあるような世界。できごと。
小さい頃はよく(いやまぁ今でも?/笑)そういう架空の世界の事を考えては、
自分がその世界の住人だったらとフヨフヨ想いを馳せていた。
だが架空と呼ばれているようなそれらは、私たちが生み出したもので。
もともとある世界をベースに、実は事実に即してつくられているものも多い。
そこに、ちょっとした夢を加えるのだ。人のつくりだした、人の中にある夢を。

既にそこで、人の中に存在しているものを具現化しているのだ。
それは一体何を意味するのか??

本当に此の世に存在しないものというのは、
おそらく人の意識にすら存在しないのではないだろうか。
いや、人の意識にすら存在しなくても、在るものだってあるかもしれない。
私たちが意識するという時点で、そこにその概念は少なくとも存在する。

その、「存在する」ということの意味の大きさ。

その時点で既に、完璧な架空なんてありえないんじゃなかろうか。
半架空だ。

私が云いたいのは、人の考え出すものや人が意識できるようなもの全ては、
この世界に存在しうるものなんじゃないだろうか、ということだ。
別に今じゃなくたっていい。ものすごい古代でもいい。紀元前でもいい。
何百年後、何世紀後とかでもいい。この銀河系の中ですら、なくたっていい。

私たちは、本当は何か知ってたんじゃないだろうか。
私たちは、私たちが作り出したものの中で「知っている」と思っている事は勿論知っている。
それが、実在するものだと認識している。
だが、私たちが作り出したもの以外については?
作り出した概念の中でも、「知っていると思っていない」事については?
もしかしたら、無意識だけども知っているかもしれないのだ、私たちは。
私たちが知らないと思ってるだけで。
だって、これらと比べるのはおかしいかもしれないけど、
目だって見える範囲の光線による情報しか見えないし、
耳だって聞こえる範囲のヘルツによる情報しか聞こえないし、
感覚だって皮膚にある感覚点を外されたりしたら判らない。
私たちの身体には、ある種の制限がかかっているのだ。
どうしてこんな制限がかかっているのか考えるものまた面白いけれどとにかく、
私たちが「知っている」と思っている世界が全てではないという事だ。
それはおそらく、意識の概念的な部分においても同じなんじゃなかろうか。
だからさ、もっと夢持ったっていいんじゃないかな、っていう…(笑)
…ちょっと、強引かな?(笑)



2005年07月30日(土)



 



たとえ誰が悪くなくても

誰かが傷つく事もある



2005年07月29日(金)



 (成人看護終末期のテスト勉強中)

人の死をおしのけて生きるという事は
つぶれて消えそうなほどの生命の責任を負って生きるという事なんじゃないか


ターミナル 死
私は通過駅だと思う
でも私たちの魂は輪廻の長いラセンを描きながら、
一体どこへ向かうんだろう?


最終的 もしくは その前くらいに
緩和ケアのところに来れるといい
でもそれまで私は この人たちの前に立っちゃいけない


死というのは 死ぬ瞬間だけが死ではないのかもしれない
生まれる瞬間だけが生ではない 生と同じように


自分がターミナルになったら
しばらく一人でずっと居たい
嘆くことは一人で
嘆ききって 泣けるものなら、
声が枯れるまで 思考が爛れるまで
考え抜きたい 私の思考を形にさせて
そのあとに家族とずっと過ごしたい
死後の世界について話したい
お世話になった人に感謝と
お別れの手紙を送りたい


認定看護師 専門看護師
でも 登りつめたら 
そこから逃れられなくなるでしょう…


本当に死ぬことになったら
もし苦痛がなかったとして 
次に気が付くのは 体から出てるときか
死ぬ ってどんなだろ 死んだ瞬間に全てを失って
誰にも認知されなくなって 一体どこに向かうのか?



「人は生き方を自由に選択できると同時に、死に方も自由に選択でき、その選択は尊重されることが望ましい。」
って、成人終末期の教科書に書いてあったけど、これって何かヘンな言葉。
生死にはそれぞれ、
・―――――――――――――――
↑       ↑          
生のポイント/生きてる部分(生き方)/
――――――――――――――・
↑                    ↑  
死にそうな部分(死に方)/死のポイント

っていう部分ってのが存在すると思う。
生まれたあと、どう生きるのかは自由にできると思う。
でも、生まれる瞬間っていうのは自由に選択できるのかい?
死ぬまでの期間をどう生きるか・死ぬまでの死に方みたいなものも自由にできると思う。
けど、死ぬ瞬間っていうのは本当に、本来の命を考えると自由に選択できるものなのかい?
生きてる部分が自由だから、死ぬポイントすら自由という考え方は、本当は何かちょっとおかしいんじゃないのか。





教科書やプリントの落書きより、つらつらと無神経に垂れ流す
どうかあまり人の目に触れませんように



2005年07月27日(水)



 

何かしら其処には必死さが存在しているのだから
それを笑うのはおかしいんじゃないかい


人がほんとうに大事にしているものを
笑うなんて出来ないでしょう


どんなに下らなく思えても
理解できなくても
好きなものは好きだし
何かを支えにしないと居られない気持ちというのもあるんだよ


理解できないのは仕方ないよ 理解しろとも云わないよ
けれど 馬鹿にされる覚えもないよ





…何が、あったわけでもないけれど



2005年07月25日(月)



 「同じ毎日」?

「同じことを毎日繰り返す」って何だ?

やってることは一見同じように見えても、
細かいトコは実は違うし、心も常に変動しているし状況についてもまた然りだ。
それでもまだ同じだっていうんだろうか。何がしたいっていうんだろうか。
現状に満足してないのは悪いことではない、それが動力源にもなるんだろうから。
ただちゃんと目の前に在るものをちゃんと見ないでいると、
「違うもの」が前にあったってわからないんじゃないのか?



「毎日同じ」なのは、周りなのか自分なのか?

2005年07月24日(日)



 人の気持ちの推察の限界

人の気持ちを推し量るとき、
基準になるものは自分の持っている気持ちの感じ方しかなかったりする。
だから、難しいのだが
人の感じ方すら千差万別で、そこにはおそらく普遍的なものは見つけにくくて
だから
「自分がこう思うから相手はきっとこうだろう」
とかいえない難しさが存在する

「人にされていやだと思うことは人にはしないようにしましょう」
って、誰が言い出したんだろう。
「人にされて嬉しいことは人にもするようにしましょう」
なんて言葉はあったっけ。
それって一体、どこまでさ。
そりゃ、例えば「家の前に生ゴミが置かれて」たりするのは私もいやだしほとんどの人はいやだろう
それじゃ、気持ちに深く入り込むような微妙なラインではどうなるんだろう。
例は、挙げにくいけれど。
ある人にとってはちょっと嫌だなと思うことでも、ある人にとっては嬉しいことだったりすることもある。
「嬉しいこと」についても難しいな。
自分なら嬉しくても、相手も必ずしもそうとは限らない。
何を頼りに考えればいいんだろう。
自分が知っている「その人」であったって、自分が知っているのは自分が知っている範囲でしか存在しない。
自分が知っているその人が、その人の全てであるなんて到底あるはずがない。
頼りない情報。それに入る自分のその人への主観が、頼りなさに拍車をかける。
更に気持ちを推察するときは、自分と照らして考えたりする。
一体、何について察しようとしているんだろうか?そこに一体何の存在が在るんだろうか。
私は、人は、ほんとうに「その人」のことを考えているんだろうか。
自分の気持ちを考えて、それを基準にしてみて、それならそこに存在しているのは「その人」ではなく結局「自分」なんじゃないだろうか。
たとえば自分の心だって、自分で確信しているわけではない。更に変動するものだ。
そんなものが、どうして他の人に推察できようか。



じゃあどうすればいいんだろう。
ちゃんと判るわけじゃないんだから、判らないまま生きていけばいいのかな。
そもそも、判ってくれというほうが甘えた論理なのかもしれない。
人が人のことを判ることができなくて当たり前で、
それでも判ろうとするいじましい気持ちがそこに存在するせめてもの救いなのかもしれない。そこに恩着せがましさが存在するのはいただけないけれど。
「判ったような気持ち」ってのはある意味押し付けになって迷惑かもしれないし危険だけど、
たとえ判らなくても、相手のことを想うことはいくらでもできる。
だいじだから、だいじにしたいから、その人たちの事を考えるんだよね。
そしてその気持ちが本当であればあるほど、それを無下にされることほど淋しいことはない。
ああ無意識とは本当に、効果が強いぶん諸刃の剣だ。
無意識というのは良くも悪くも率直で素直なものだから、
そのぶん相手に届きやすい。
それが相手にとってよいことならいいけれど、
よくないことであればこれほど始末の悪いものもないね。

2005年07月23日(土)



 こんな手放しな留学ってあるかオイ

観光で行くんじゃない、学科間のプロジェクトだぁ?
何、学校の取り組みとか言ってるクセに生徒は飛行機のチケットとか自分で手配すんのかよ。ああ、打ち合わせとかも勝手に学生とあちらの学部長さんとかとやってくださいってね、まあそれはわかりますけどよ。
宿のお金とか、旅費とか、一括してどっかに振り込むもんだと思ってたよ。
じゃなくって、全部自分でやるわけね。ああ、そっすか、へー。へーー。
何そのセルフさかげん。セルフはうどんとガソリンスタンドだけで十分だっつの!

あんたら先生は学校の費用でね、ハイハイいってらっせぇ。

お父さんいなかったらロクにチケット探せなかったし。
留学にかかる費用15万って、その15万の根拠は何だよ、今更だけどよ。
正規のカナダへの航空チケットだったら、余裕で往復15万越すっつの!!!

しかも行く予定の日が土曜日なんだけど、金曜日だったら土日より五千円も安くなるんだよね。でも金曜日は集中講義が入ってる。休ませろよそれくらい。
そう言ったら何て返されるだろうか。
「その五千円と、学生の本分とどっちを取るの」的なことを聞かれるんだろうか。
あのな、金を出すのは必ずしも生徒じゃないんだよ。家庭の経済事情っつーもんがあるんだよ。そんなとこにまで結果的に口出しするんかい。
だったらそっちが安い航空チケット見つけてこいっつの!!!

駄目だ、軽くキレる…



2005年07月15日(金)



 ミュージックバトン

な、なんか友人(緋翠しゃん)からミュージックバトンがまわってきた…
ついこないだ存在を知ったばかりだよ私ゃ(汗)

*Total volume of music files on my computer
(コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

今は減ったよ、PC初期化したから…(涙)
っていうかこれ自分のパソで更新してないのでよくわかりませ

* Song playing right now (今聞いている曲)

最近聞いてるのは友人に借りた「より子」のCD、Cocoon
でも大抵自分編集MDをシャッフルで聴いてるんで、いろいろだぁ

* The last CD I bought (最後に買ったCD)

ハハ、sound horizonの「Elysion〜楽園への前奏曲〜」
でもって、注文してるのが一個。
志方あきこさんのNavigatoria。です。
うん、わかってるよマイナーさんだよ でも好きなんだもん

* Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me(よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

特別な思い入れのある五曲、でいきます
えらい真剣に答えてる自分がかえって滑稽だ…(笑)

adiemus 聖人

⇒ケルティックで民族音楽的・アフリカの部族みたいなサウンドも有しているadiemusの音楽はどれも大好きで、どれか一曲を選ぶのは正直不可能なのだけど、あえてこの、ユリアンパイプスみたいな音が全面に出てる曲を選んだ。間奏部分?のその音が、懐かしさを持った蔦のように伸びていく様がたまらなく好き。だめだいい比喩が浮かばない。

aselin debison moonlight shadow

⇒この曲もアイルランド出身の人…Mike Oldfieldだったっけ、が作ったそういう曲で、初めて間奏のフィドルの音を聴いたとき、これだ、と思って泣いた覚えがある。流れるような軽やかさを持っているのに、どこにあんなに心を揺さぶる力を持っているんだろう。

J.S.Bach 主よ、人の望みの喜びよ

⇒私がバッハの曲を好きになるきっかけになった曲で、中学のときの友人が(緋翠しゃん、君も知ってる人だヨ〜!)カセットのあまった部分に入れてくれたおかげで知る事ができた。あの頃はしょっちゅうこの曲を聴いていた。頭や心の隅々まで入り込んでいくバッハの旋律は、たまらなく心地良い。

enya caribbean blue

⇒なんか私、人にいい曲教えてもらってばっかだなぁって思うのだけど(笑)、これも中学の頃転校するときに友人がenyaのカセットをくれて、その曲達があんまりにも美しすぎて一瞬で落ちた。くれた人、本当にありがとう。彼女のその後は分からないけど、この人の曲は私の中で一生残ると思います。
あと一言。癒し系だとか眠れるとかいわれると、哀しくなります。
そんな変化のない退屈な音楽なんかじゃない!!!
…ハイ失礼しました、あくまで私の主観なんで…

麗美 天国の花

⇒小さい頃から車の中でお父さんがよくかけてた曲で、昔からずっと好きだった曲。ふわふわしたお菓子みたいなメロディーラインにやわらかな英語の歌詞、それに甘い声がすごく好きで、日本人が歌ってるとは昔は到底信じられなかった。

* Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)

タルさん
キキさん


もういいじゃん、二人でも(笑)

2005年07月13日(水)
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