人の死をおしのけて生きるという事は
つぶれて消えそうなほどの生命の責任を負って生きるという事なんじゃないか
ターミナル 死
私は通過駅だと思う
でも私たちの魂は輪廻の長いラセンを描きながら、
一体どこへ向かうんだろう?
最終的 もしくは その前くらいに
緩和ケアのところに来れるといい
でもそれまで私は この人たちの前に立っちゃいけない
死というのは 死ぬ瞬間だけが死ではないのかもしれない
生まれる瞬間だけが生ではない 生と同じように
自分がターミナルになったら
しばらく一人でずっと居たい
嘆くことは一人で
嘆ききって 泣けるものなら、
声が枯れるまで 思考が爛れるまで
考え抜きたい 私の思考を形にさせて
そのあとに家族とずっと過ごしたい
死後の世界について話したい
お世話になった人に感謝と
お別れの手紙を送りたい
認定看護師 専門看護師
でも 登りつめたら
そこから逃れられなくなるでしょう…
本当に死ぬことになったら
もし苦痛がなかったとして
次に気が付くのは 体から出てるときか
死ぬ ってどんなだろ 死んだ瞬間に全てを失って
誰にも認知されなくなって 一体どこに向かうのか?
「人は生き方を自由に選択できると同時に、死に方も自由に選択でき、その選択は尊重されることが望ましい。」
って、成人終末期の教科書に書いてあったけど、これって何かヘンな言葉。
生死にはそれぞれ、
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生のポイント/生きてる部分(生き方)/
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死にそうな部分(死に方)/死のポイント
っていう部分ってのが存在すると思う。
生まれたあと、どう生きるのかは自由にできると思う。
でも、生まれる瞬間っていうのは自由に選択できるのかい?
死ぬまでの期間をどう生きるか・死ぬまでの死に方みたいなものも自由にできると思う。
けど、死ぬ瞬間っていうのは本当に、本来の命を考えると自由に選択できるものなのかい?
生きてる部分が自由だから、死ぬポイントすら自由という考え方は、本当は何かちょっとおかしいんじゃないのか。
教科書やプリントの落書きより、つらつらと無神経に垂れ流す
どうかあまり人の目に触れませんように
2005年07月27日(水)