脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 劣等感

私には、「相手に(意識的にも無意識的にも)軽く見下されている」と思いながら人と接するクセがついてしまっている。
しかもそれで普通だと思っている。
なんで私は常に劣等感を抱いているんだろうか。
別に皆が皆、私の事を見下しているわけでもないだろうに、どうしてそう感じるのか。

劣等感を持ってる人はあまり好きではない。
必要以上にへりくだったり、別に誰が気にかけてるわけでもないのにやたら気にしてグダグダ言ってるのが正直馬鹿らしいとさえ思う時がある。
いや、馬鹿は好きだから言葉が悪かった。
正直、くだらないとさえ思う時がある、だ。
それなのに口にする割には、本質や色んなものが伴ってなかったりする。

本当に劣等感を抱いていたら、口にすら出すのは辛いんだよ。


だからといって、劣等感が存在せず自分に自信しかないような人とは接していて疲れそうだが。


話を戻すか。


私には、私以外の人たちが見た目上はけっこう、みんな綺麗に見える。
内面が現れてるような綺麗な人、可愛い人、
内面はどうだか判らないけれど綺麗に見える人、
色々いると思うけど結局みんな、いい見た目をしている。
見ていて抵抗がない。


だが自分は?



自分は、と考えること自体本当は嫌だ。
たとえて言うと、図工で作ったようなダンボール製の腕時計を(もちろん動かない)、
デパートで売ってる万単位のきらびやかな銀時計みたいなのと一緒に並べるくらいありえない。
なんていうか、私は枠内に入っちゃいけないような気がする。

私は相手の顔をそっと鑑賞するのは好きだけど、
相手の顔がこちらを見るのはちょっと辛い。



指が綺麗だと小さな頃からよくほめられていた。
中学の途中まで、それは私の、唯一持ってる外見上のよいところだと思っていた。
だけど途中から、自分にはそれがアンバランスのような気がした。
むしろ滑稽とさえ思えた。なんで指だけこんななのに。
その頃から、あんまりマニキュアとか塗らなくなった。
爪を綺麗な形に切ることも、伸ばすことも、やめた。


でもこんな事でへこむ自分てまるで馬鹿らしいというか、くだらないというか。
人間の美しさなんて、そこに存在するだけである種の美しさがあるはずなのに、
時代によって流れて変わるような価値観に振り回されて、ああ、やっぱり馬鹿みたいだ。
ここらあたりまでくると、もう面倒くさくなって「ああ、もうこれ考えるのやめやめ!」とかなるのだが、
今日はもうちょっと、ねばる。

だいたいちゃんとお母さんに愛されて育ったという自覚があるのに、どうして劣等感なんか抱くんだろう。
あ。
でも色々と小さい頃から、見た目で自分を好きになれることが無かったなぁ。

生まれた頃私の髪の毛が少なかったそうだったから、
お母さんは私が将来脱毛症になることを心配してせっせと髪を切った。
しかも彼女はショートカットが好きなものだから、
小学生初期のころの私なんて「おぼっちゃまくん」みたいだった。
女の子の服を着るとまるでオカマみたいだったことをよく覚えている。
それなのに家にはフリルのついたブラウスとか、そんな乙女チックな服しかない。
いや、小さい頃の私が、そういう服が好きだったせいもある。
そしてまず、そんな自分が大ッッ嫌いだった。
自分の好きなものが果てしなく似合わない自分が大っ嫌いだった。

そうだ、昔から「女の子らしい、女性らしい人やもの」が大好きだったのに、
自分には果てしなく似合わなかったんだ。
私はガキのくせ(主に小〜中学生の頃)に人並に、見た目の上で女の子らしくありたかったんだ。
けど、
髪も伸ばさせてもらえなかったし、
爪も充分に伸ばせなかったし、
たいてい好きなタイプの服は似合わなかったし、
大きくなるにつれてそばかすも出始めたから、
それで鏡を見るのも、親に顔を合わせるのも苦痛になったんだ。
(顔を合わせるたびに顔を覗き込まれるようにして、
心配したり助言してくれてるのはわかるんだけど、
嫌だった)
だからそういうのが治まってきたとはいえ、
未だに顔を見られるのは苦痛だ。
いっそ透明人間になれたらいいのにと、何度思ったことだろう。

(もし私が男の子に生まれていたら、
もっと苦しんでいなかったのかも とも思うし、
いやいや、
もしかしたらかっこよさげな男の子らしく在りたいのにかっこよくなれなくて悩んでるかもしれないなぁとも思うよ)

中学の後半ごろになると、転校先の周りの人たちが気遣いに長けた人たちであったのか、
よく「可愛い」とか「女の子らしい」とかいう評価をもらうようになった。
そういわれると今度は妙に心の中で抵抗が生まれてしまって、
素直に言葉を受け取れなくなってしまっていた。
「ここで思いあがっちゃいけない」なんて、自分に言い聞かせていた。
反動が大きかったということは、それだけ私に影響を与えていたという事だと思う。
だってそんな風に言われたことはほとんど無かったから、
そして何より自分にたいしてそんなこと思うことが無かったから、
たとえ相手が大した意味を持たせずに言ったときでも
必要以上に謙遜する気持ちが生まれていた。


高校のころになると、前から何となくそうであったけれども、
勉強のこととかで色々頼ってくる人が出てきた。
何かを聞かれたりするのは普通だけども、
塾の課題とかを代わりにやったり、
授業中に他の子の課題をやったりしたことがあったのは、
今考えると馬鹿としかいいようのないよわっちさだなぁと思った。
私は「断る理由がない」からしていたのだが、
端から見ていた友達が私がそういうことしたりされたりするのにすごく腹を立てて、
怒っていたのを見ていると、
ああ、私は軽んじられているのかなぁ
とちょっと実感してしまった。
別に私がどう思われて何をやろうと、
私自身が変わるわけじゃないからいいやと思っていたのだが、
私自身がどう思っていようと、端から見れば
「頼みやすそうだから(弱そうだから)頼んじゃえ」って思われて利用されてたように映ってたのかなあ、
と思った。
そういえば、そういう頼みごとの時だけ話をするようなクラスメイトもいたなぁということを思い出した。

私は、私の存在があるものとしてちゃんと認められているのかしら。


そんなこんなで、何だか自分の価値そのものが軽んじられてるのは当たり前、
みたいなものが金魚のフンのように私にくっついてきてしまっていたらしい。
でもこれって劣等感っていうか、何か違うような。
看護診断チックに言うと、「自己概念の低下」とかにでもなるんだろうか。
でも本当のところ、自分の価値なんて自分にだって判らないし、
価値観だって人それぞれだからどう思われようと仕方ないんだよね。

周りの人は変わっていっていずれは何処かへ消えていくけど、
自分だけは最期まで自分についてくるものね。
だったらやっぱり大切にすべきは、自分の、自分への対話や考え方なんじゃないかなあ
私は、私自身を絶対的なものとして見たときにはそう辛くないので、
もう少しこのまま、ちょっとだけ周りを見ながら自分と相談してみよう
と、
結局は三歩進んで四歩くらい下がったところにしか話が落ち着きませんでした。


もしこんなとこまで読んでくれた人がいたら、どうもありがとうです。
だらだらした文でごめんね、逆ギレは受け付けるだけのキャパシティがありません。

2004年10月21日(木)



 

 誰かの存在が高められるということは、
同時に誰かの存在をひくめてしまっていることになりはしないだろうか。
そして低められていると思っている者がいるという事すらも、
気付かれない場合が多い。
 ただ低められていると思った者のみが気付く事だ。
 誰かをほめるときは、
もしかしたら注意が必要なのかもしれない。
いや、
誰かをほめると同時に目の前の大事な人のいいところもほめればいいんだ。



 単純なぼけた人間ばかりがこの世の中にいればもう少し平和になるかもしれないのにと思うけれど、
この世はそれだけで存在しているわけではないのだから、
そういうことなのだろう。

 ところで私も、このまま単純なぼけた人間のままでいさせてくれはしまいだろうか。


2004年10月17日(日)
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