脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 働かなければという理由と我が家の教育方針

子供は親の背を見て育つ。
では、もしその子がおんぶされていたままだとしたら――?
どんなに立派な背中でも、それを子供に追うことはできなくなる。

おんぶできている内はまだいいけれど、
もし親が疲れてへたりこんだら。
そして、それでも子供は進んでいかなきゃいけなかったとしたら。
子供は自分の足で立って歩けるのだろうか。
せっかく立派な背中だったのに。

せっかく立派な背中でも。
「老い」は誰にでも訪れる。
でもそれでも「生きて」いかなくちゃいけない人間もいる。




共倒れ、したくなかったら。

2002年11月19日(火)



 幸せなんて一瞬で終わる

「幸せなんて一瞬で終わる」
そんな言葉をみつけた。

まるで、幸せはあっという間に過ぎるからそんな一瞬のものは何の救いにもならないわ、とでも言うように。
一瞬で終わる幸せを、それ故に諦めたような見方をする。

けれど。
「一瞬」だから「幸せ」に成り得るのだと。
私は思う。

気持ちというのは、海の波に喩えられる。
一定の状態で静止なんてできない。
もしする時があるとしたら、
それは嵐の前兆だけだろう。
それでも少しは波がある。
何かによっていっぺんに波が高くなって
津波のように、本当になったら。
次の瞬間にはもうその津波は地面にたたきつけられている。
常に変動している状態というのが、
人の心というものなのではないだろうか。
負の動きであれ正の動きであれ
気持ちの昂ぶりには変わりない。

普通に考えてみる。
「幸せ」が続くとどうなるだろう。
気持ちの昂ぶりはある高さまで上がって一定になる。
これが幸せが「続く」という状態だ。
それは一種の麻痺状態と云えるだろう。

そして刺激を与えつづけられると
その物体はやがて
壊れてしまうだろう。

「単調なものや退屈さで人は死ねる」というような言葉は
結局こういうことなんじゃなかろうか。

幸せだとかそういう気持ちの昂ぶりは全て
本当はいつも一瞬で終わっているのだ。
ただ理性がそれを意識と記憶にどれだけ強く留めようとするか、
それだけの話なのだ。

幸せばかりが、一瞬ではない。

そう、一瞬なのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
むしろそうあらねばならぬべきなのだ。

一瞬だからと非難するなら
一度「一瞬ではなくなるとどうなるか」
ということを考えてみればいい。







―――絶対に、精神が崩壊する。



――揚げ足ばっかりとって、
自分、
性格ワルっ・・。


2002年11月09日(土)



 私が私であること。

私が私であることが。最後に残る大切なこと。

当たり前の事だったけど、そういえば。
あの世に逝く時に持っていけるものって、
「私」しかいなかった。
死ぬときに
胸を張って死んでいけるような「私」でありたい。
死ぬときくらいは
「最高に立派だったよ」と自分に誇らしく云ってやりたい。
自分の生を自分で生きて、
自分の舞台を自分で演じきって、
自分の手で幕をひきたい。
それぐらい、生ききりたい。

生きて、
生ききって、
そして死ぬときは
「私」として死にたい。
私らしい死に方がしたい。
どんな死に方が「私らしい」かなんて今は判らない。
でもきっと死ぬときが近づくにつれて、
私らしい「死に様」が判るような気がしてくる。


2002年11月08日(金)



 死のパラドックス

組み込まれた死のプログラム
不老長寿を願うひとびと
個人の長さ
種の長さ
個人の永遠
種の永遠
満たされない永遠のパラドックス


最高の刹那主義は
最長の永遠志向で

でも刹那は本当に刹那だから
死ぬときの一瞬が厭だなんて云わないで
死ぬときは一瞬だから
たとえ人は長く感じても
感覚の鈍った身体ならきっと
くるしくない
くるしくない筈


私達は死に向かってスピードダウンし、
永遠の生に向かってひたすらに進み続ける。

2002年11月03日(日)
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