脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 対話

真の対話とは相手に命を懸けるぐらいの気持ちと共に為される。
それは単なるお喋りや日常会話などではなく、相手と自分の魂全てが触れ合い、生きた知恵が飛び交い、多大な充足感が伴われるものなのである。
それを通して自分は自己形成を、相手は自己変革を起こしつつ、自分たちですら気付かなかった遥か高みにある答えに対し問いを無限に重ねながらどうにかこうにか近づいてゆくのである。
この幸せを得るには相手も自分もある程度同じくらいまで成熟しているのが望ましく、生きた知恵を身に付けるために「書いて覚える」行為をひたすら重ねるより「問うて精神を生きた状態にしている」行為をする方がはるかに望ましい。
誰が相手にしてくれなくても、だ。
いつかそれを相手にしてくれる人と出会えたとしたら、それは幸運だ。
互いに生きた知恵を交わし合い、互いを大切にすることだ。
何故なら自分と真に対話をするような人間は、見つけるのが非常に困難であるからである。


こんな対話が、いつか出来たらいい。
互いに高みまで、辿りつけたらいい。
辿り着けなくてもそこまでの無限の質問が重ねられたら。

2002年08月29日(木)



 五億年前は一日21時間

宇宙論で新たなブレーン説を打ち出した先駆者、スティーブン・ホーキング博士は
未来からの観光旅行者がいまだかつて存在しないのが、タイムマシンが不可能な証拠であると云っているけれど。
云うかなあ。「私は未来からキマシタ」、って。
過去に何らかの影響を及ぼすようなことは、極力避けそうな気がするんだが。
もし来れてたら。
でも。でも。
突飛で勘違いもいいところな憶測かもしれないけれど。
ちょっとひっかかることがある。
ある説と計算結果によると、五億年前一日は21時間だったらしいのだ。
今は24時間だ。
私達の体内時計は25時間だ。
この中に時間のつながりがあるとか考えるのは、変だろうか。
過去は21時間で、
今は24時間で、
残るナゾの25時間。


私達は未来型の生き物なんだろうか?

2002年08月27日(火)



 心は儚い?

『形あるものは全て消えていく。
だから、形さえもたない人の心は儚いものである』
という記述を見つけて。

ああ、たしかに人の心って儚いかも

思う自分がいる。

この世が一定不変であることはなくて、
そこには常に流れがあって、
うつろい変わりゆくものの中に私達の心がある。
流れの中の小石はころころと流されていく。
どこか新しいところに出れるかもしれない先を、ほんとは目指して。

うつろいゆく人の心を止めることは出来なくて
それは豊かな河の流れを止めようとして柳の枝をさすようなもので。
だからといってそれで加速させることもできず
ああ。


でも人の心って儚いだけだろうか。
そんな『心』に絶対の拠り所を置いたり
またそんな『心』で包んであげたり
なにかをその『心』でただひたすらに求めたり
『心』って
結構しっかりしてるものなんじゃないだろうか。
ただ頼りないだけじゃなくって
いや、ただ頼りないだけじゃないって
思いたい自分がいる。

そもそも、形が無いっていうんだったら
消えようがないじゃないか。
形をもたないからこそ。



2002年08月22日(木)



 漢字

人の夢と書いて
『儚(はかな)い』。
豊かな色と書いて
『艶(あで)やか』。
人が交わると書いて
『佼(うつく)しい』。
弱い女性と書いて
『(出なかった(爆)/たおやか・しなやか)』。
姦しい、は女が三人。
金の口、で釦(ボタン)だし
童の心で『憧れる』。
心が去る、で『怯えてる』。
古い女は姑だし
妓(あそびめ)だけど女が支えてる。
人を思って『偲(しの)ぶ』って書くし
娘のことはやっぱ可愛いから『良い女』っていう。

表面さらっとなでただけでも
やっぱりこんなに面白い。
数は多いけど
文字に装飾しづらいけど
アルファベットじゃ無理だよね。

2002年08月21日(水)



 焦燥

ああ 早足で
駆ける 駆ける
ころびそうな私の心臓

どんどん見えるその先は
下に 下に
吸い込まれそうなコワイ危うさ

無いとわかってて伸ばした手の先
空振りをして
こけそうになる

いっそ穴にでも落ちればいい
小石はこんなに転がってるのに
いっそ崖から落ちればいい
でも地面から足が離れない

あわてふためく愚かな姿

足掻きもしないから余計
――みっともな。


2002年08月20日(火)



 まんげきゃう

まあるい月夜のあかるい夜は
くるくる
くるくる
万華鏡

今日のおべべは
紅地に微かに
金、ちりばめて
漆黒の窓の向こう
やたら、やたらと青い蝶
しどけなき姿
帯 乱れ
袂から真白い腕 覗かせ
月の光に透かしみて
くるくる
くるくる
回しましょう

あのひと待って
回しましょう
くるくる
くるくる
万華鏡


2002年08月10日(土)



 帰省v

ふう。
やっと帰ってこれたv
海の写真いっぱいで、ついでにサカナとかの写真もあったりして、
んでもって石見神楽笛なんかも買っちゃってたりして、
ちょっと幸せ気分な崖っぷち人生17歳の夏。

念願の横笛v
でも音程がオカシイv
でもウレシイv


2002年08月09日(金)



 ぬるま湯

ぬるま湯に浸かっていたら
熱いんだか冷たいんだかわからなくなる。
っていうかわからない。
熱くも冷たくもない。
「温度」をもつものに浸かっておきながら
「温度」を感じなくなるのだ。

熱くも冷たくもなかったら
早く出たい、とも思わないだろう。
いつまででもそこに浸かって
渇望することも知らず
苦しみも痛みも知らず
大きな喜びも知らない。
いつまでもそこに浸かりつづける。
ふやけて、
腐ってしまうまで。

なぜぬるま湯か、って。
それは自分がそう温度調整したからだ。
もしくは望んでいなかったのだが、ぬるかった。
ぬるかったのならお湯を入れるなり早々に上がるなりすればいいのに
何もせず
その状況をただ甘受して
ぬるま湯に浸かりつづけている。
いつか上がらなければいけない

身体をあたためなければ

思うのに
動かない。

そして急くことを失った身体は
腐ってゆくのだ。

みるみる。

みるみる。

2002年08月03日(土)



 大学受験生らしいよ。これでも自分。

一週間ほど。
旅行に行って参ります。
宿をとるわけでもない
キャンピングカーの旅行。
道端にクルマとめてPキャンとかザラです。
クルマだから移動にも大変時間がかかり、且つ私は激しく酔いやすいので。
勉強なんかできませんね。
クルマとまってて。
勉強しようと思っても。
たいそうな机などあるはずもなく。
テレビもこの前取り外したので御家族の皆様御就寝なさるお時間もお早くて。
九時とか。
八時とか。
メシ食ったあとすぐとか。
みんな寝てるのに、私一人勉強するために電気つけてやっても、バッテリの残量や
寝てる人間の前で堂々と電気つけるってのがなんだかどうしても気になっていけないことやってるような気がしてくる。
クルマん中だし。電気つけてると暑いし。
そうなるとクーラーを動かす発電機のガソリン残量だって気になりだす。
開き直れない中途半端人間です。

そんな環境の中、どこまで無駄な抵抗を試みられるか。
私という人間の真価が問われる旅になることでせう。
同じ一週間を過ごすなら代ゼミの塾に行きたかった・・・もしくは東進ハイスクール・・・・・。
私の夏は終わった。
ついでにいうと人生とかそこらへんも危ないっぽい。

つか、こんなこと書いてる暇あったらそれこそ勉強しろや自分、て感じか。


「どこの国公立大にもとってもらえない・・・」
書くと本当になりそうだ。
「絶対どこぞかの国公立大にとってもらえるよ・・」
書いても本当になりそうにない。

2002年08月02日(金)



 思春期の不安定さってのは。

ふと思う。
安定してる自分てどんなだろうか、と。

「思春期は不安定」
きまりきったように口に出されるセリフ。
関係ないが私は「きまりきった」とかいうのが密かに大嫌いである。
こんなこと考えてるから「機を衒った」とか捉えられてしまうのだろうかと思ってある意味歯痒い思いをするのだが、それはどうでもいいとして。
「思春期は不安定」
じゃあ大人は安定なのだろうか。
安定なのが大人なのだろうか。
思春期を過ぎれば安定になるのだろうか。
安定な自分。
どんなだろう。
今の自分は安定じゃないんだろうか?
安定・不安定、ってどんな状態のことを云うんだろう?
情緒とか心理状態が不安定だと、具体的にどんな感じになってるんだろう?
案外当人には判らないような気がする。
「私不安定なの・・」って云える人間は、安定であった自分を知ってるから云えるのだと思う。
不安定だったら悪いんだろうか?いや悪いなんて誰も云ってない。
これは悪いとかいいとかの問題じゃなくて。
ええと。
不安定だったらどうなっちゃってるんだ?
感情の起伏が激しくなるってことなんだろうか。
よく昔は「箸が落ちただけでも笑う」とか云ったそうだが、やっぱりそういうことなんだろうか。
じゃあ安定ってのは。
感情の起伏が激しくなくなることなんだろうか。
不安定。辞書で調べてみた。(by三省堂・新明解国語辞典第三版)
「物事の安定し(落ち着か)ない様子」
じゃあ安定ってのは。
落ち着く、ってことなんだろうか。
辞書で調べてみた。
「いつも決まった状態をあらわし、激変する虞のないこと云々」
じゃあ、嬉しい事にはものすごく嬉しい!って思えないし
哀しいことにはものすごく哀しい・・・!って思えないってのが安定ってことなんだろうか。
それともちょっとの事じゃ哀しいとか嬉しいとかいう気持ちにはならないって事なんだろうか。
もう慣れてるから?
もう結構どうでもいいから?
エネルギーないから?
それとも、大人になると嬉しいことや哀しいことを感じてる余裕もなくなるんだろうか。
余裕がないのって、大人なんだろうか。
大人になると嬉しいことも哀しいことも少なくなるんだろうか。
細かいことにいちいち思い悩まずに、自分のつくりあげてきたものだけで生きていくんだろうか。
ちょっと立ち止まることもできない、
それが大人?
ずいぶん息苦しそうな社会だね。
安定してる人達は、それがつまらないとかつまらなくないとかいって動じることもないんだろうね。
そう考える事自体つまらないことだと切り捨てて。

立ち止まる事の大事さ。
思い悩んでみることの大事さ。
楽しいことを楽しいと、
哀しいことを哀しいと、
思えることの大事さ。
この「思春期」の時期に、そういうものや、感受性を育ててあげられなかったら、
あとはいつ育ててあげられるんだろう。

感情の起伏がだんだんとなくなっていく自分を想像すると、少しうすら寒くなる。
何も感じることができなくなるようなことには、なりませんように。

2002年08月01日(木)
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