脳内世界

私が捉えた真実、感じた真実などを綴った処です。
時に似非自然科学風味に、時にソフト哲学風味に。
その時その瞬間、私の中で、それは真実でした。


※下の方の○年○月っていうのをクリックすると、ひと月ぶんはまとめ読みする事ができます



 自然の流れ、星の流れ

人間は、自然の流れに逆らっているのだと思っていた。
地球の流れがそのまま自然の流れだと思って、
そんな地球の歩みをとめて地球を汚しまくっている人間は、
そしてそれがヤメラレナイ人間は、
そのまま自然の流れをも穢して、流れに逆らっている危険因子のような、癌細胞のようなものだとばかり思っていた。
人間は、あるがままの自然、地球、それらの流れに対して、
異質な存在、不自然な存在だとばかり思っていたのだ。
ナニカガオカシイ。にんげんハナニカガオカシイ。
人間の流れは自然に逆らった不自然な流れであると思っていた。

でも、以前どこかで読んだ文章の中に、
この、地球を滅しているような人間の行為すらも大きな自然の流れの内にあるのだ、というような記述を見つけた。
環境破壊につながるような私達の行為全て、それらすらも自然の流れであると。
地球の歩みであると。
逆らっているのではなく、それすらも流れなのだと、云っていたのだ。
地球は確かに滅亡に向かっている。
でもそれは、人間がいたから、ではないのだ。
もともと生があれば死があるのは必然の事だった。
この地球だって、星の中心の材料が尽きて核融合反応(だったっけ)が終われば星としては寿命だろうし、その前に太陽の肥大化によって熱にやられてしまうかもしれないのだ。軌道が少しずつ変化して遠ざかっていってたって。
そういう事があるまでは、どんなに地上がぼろぼろになろうと星は星として生きている。
ただ私達が生きられなくなるだけだ。
地球を滅ぼすなんて、そんな仰々しいこと人間ができるわけがない。
地球は地球として、その星の一生を終えていく事だろう。
それに人間などが関与できよう筈もない。
そんな力あろう筈もない。
天災に翻弄されるのはいつも人間だが、自然が人間に翻弄される事はない。
枯れて朽ちて沈んで、だが真にいなくなるわけではない。
ただ静かに押し黙っていくだけだ。
その人間はいつかいなくなるのだから。


私はこの星の将来を見届けられたらと願ってやまない。
もし輪廻転生が成り立っているのなら、
来世で今の自分のこの願いを忘れていてもいい、ただこの星のゆく道を目の当たりにできたらと思う。
そのためなら、「何度でも生まれ変わってやる」なんて気になってしまう。
自分がこうやってまた生まれてきたのも、見届ける過程をどこまでも生きたかったからなんじゃとか、これを見たかった、知りたかったからなんじゃ、とか思ってしまうときがある。これって仰々しすぎ?
人間のゆく道を見ていくのも面白い。
詳しくいうと本当は、人間がこの星とどうやって関わっていって、最終的にどうなっていくのかを見たいのだ。
この星が終わるときはどんなだろう。
静かに燃え尽きるのだろうか、壮絶に散るのだろうか。
そのあと宇宙に音もなく浮かぶ様はどんなだろう。
地球から毎年3センチずつ離れていってる月は、どうなってしまうのだろう。
地球自体の引力がなくなったら、もうそこれこそ離れたい放題で、どこぞへと行ってしまうのだろう。
そのとき太陽系はどんなになっているだろう。
終わって行く過程も、終わるときも、終わった後も、そして再び生まれるときも、
どれも見ていたい。
でも無理なんだろうなあ。


でもせめてギリギリまで見れるように、何度でも生まれ変われたらいい。

2002年07月24日(水)



 「どうして?」

ちっちゃいころはよく、母に「ねぇ、あれってどういういみ?」とか
「どうして○○は○○なの?」とか「あれなに」「あれってどういういみ」「どうしてどうして」とかばっかり訊いていた気がする。
車で普通に道を走っているときでも、瞬間的に通り過ぎる看板に書いてある漢字を指差して「あれなんて書いてあるの?」(母:「えっ?!(汗)」とかいいながら指差す先を必死に目で追ってなんとか答える)とか「ねえおかあさん、どうして○○は○○なの?」でもってそれに母が答えると「じゃあどうして○○なの?」とかいってそういう質問が続いていった最後に「ねえどうして私って「どうして」っていうの??あれ??」とかいって自分でもわけわからん事を口走っていた気がする。というかしてた。
それにしても「どうして私って「どうして」ってきくの?」なんて、なんだか今考えると「どうして」という質問の究極形のような気がして少し目をみはってしまうのだが。
あと「○○ってどういういみ?」っていう質問を矢継ぎ早にしすぎて「『どういう意味』ってどういう意味???」とかいうワケワカラン事も口走っていたような気がする。そしてそのあとさすがに今の質問はどっか答えられないっぽいヘンな質問だったってことに気付いて「あれ?」とか思ってジブンで思ってみるのだ、足りない頭で「『どういう意味』ってどういう意味だろう・・・」って。

言葉にとらわれすぎて何考えてるのかわかんなくなっちゃったのか、
たいして何も考えずに言葉を発したのか・・・どっちもありそうでなんともいえん・・。

でもちっちゃいこってああやって、急速に学習していくんだろうな・・。
もし子供をもつようなことがあったら、
自分の子供が生まれたときどうやって物事を学習していくかじっくり観察できるといい・・・。きっと面白いぞ。

2002年07月23日(火)



 こういうことって ある。

そこをひょいと軽く飛び越えられちゃうような人でないと
そこに落ち着く事はできないような気がする。
成功してる人ってのは 案外
分相応のところよりワンランク下に自分の身を置いてるもんだ。
ギリギリのところにいると
そこでジブンを保つので精一杯で
何かをしようにもなかなかムズかしい。
能力以上のところにいると
反っていい刺激になったりする
ヘンな意識をジブンに植え付けなければ。

それぞれのひとの 立ってる場所
自分がこれから 立とうとしてる場所
どんな場所に立つことになるにすれ
「うわーーーーーーっ」って悲鳴だけあげながらいつまでも落ちていく人間にならないように生きていたいなあとか
落ちてばっかりでどっかに手をひっかけることもできないでいる自分はヤバイなぁとか
焦燥感と態度の伴わない自分の先の危険さが怖かったり。


このままでいったら
情けなくて泣きそうなワンランク下の場所に立つことになりそうで
いや
そういうとこにしか立てなさそうで

怖い。


2002年07月22日(月)



 毒吐き。

そりゃ カラフルな鳥の中にたった一匹いたら
その他大勢だったカラスだって目立つわな
そのカラスがどんなにつまらん奴でもな

2002年07月17日(水)



 六月のはなし。

ダニが死ぬときに出す警報フェロモンは
レモンの香りだそうで

レモン汁をダニに吹きかけると蜘蛛の子を散らすが如くダニが逃げて行くそうで

こんな梅雨時には効果的だから御家庭でも試すそうで

”ホントにダニが減って驚きです。レモンの汁だから香りも爽やかでいいですしね”


果たしてそれはレモンかダニか


*************
散ったダニは、何処に行くんだろう??

2002年07月16日(火)



 自己分析

そう。多分に私は常に浮ついた気持ちでいるのだ。
だから勉強に極めて集中できない。
何に浮ついているのか。何やらいろいろ「浮つく」要素が私の周りにはあふれているみたいで(というか私が勝手にわくわくしてるだけなのだろうが)非常によろしくない。
何物にも関心を示さず勉強のみに傾倒できたらそれはそれで心地いいだろうに。
ちらちらと目が色んなものにいってしまうのがいかんのだ。
(今日やってた事だってピアノいじってみたりリコーダー吹いてみたり(小学校とかの教科書・ふるい歌・民族音楽メドレー〜リコーダーに合う曲を探してみよう〜)歌唄ってみたり(※近所迷惑です)(※てか高3です)NEWTON読んでたり「わぉ!」とかいって空の写真撮ってたりネットしてたりThePrinceOfEgypt見てたりワハハ本舗の「展覧会の絵」にウケてたり・・・とまぁ思い当たる行動をざっとあげてみても判るように果てしなく救いようのない人間である)
どれもたいしたことないかもしれないが(私にとっては)面白そうなものがありすぎて困る。今もこれから曲聴きながら絵描きたいなとか思ってるし。

でもこういう気持ちから一歩下がって冷静に勉強するのもやっぱり必要で。
「うわつく」事から生じるムダは増え過ぎたらかなり目もあてられない結果が待ってるから、うん。せめてテスト一日前くらいは冷静になって勉強しろよ自分、って。そういう話。


・・・・・・・・・もうテスト終わった(つか返ってきてる)けどね・・(駄目じゃん!)

2002年07月12日(金)



 世界を救う・・・って・・?

「世界を救うのは」「世界を救うのは」云うけど。
「救われた世界」って何だろう。
キレイで快適なところしか残ってないような世界は、果たして本当に救われているのか?
「皆がしあわせに暮らせるような世界」なんて、そんな世界有り得ない。
「幸せ」は普遍的な状態ではないし人それぞれ違うと思うから。

非情さを目の当たりにするから、
辛いことがあるから、
哀しいことがああるから、
幸せを感じる事ができるんだろうし
人を幸せにしてあげようって思うことができるんだろうし
人を愛せるのだと思う。
「辛いことや哀しいことがなかったらいい」なんて思わない。
だからって人が無慈悲に殺されてくのがいいって云ってるんじゃないよ。

2002年07月10日(水)



 ちょっと気付いたコト。

ヒトってのは停止するのに随分前から減速しとかなきゃいけないんだなぁ。

免疫の司令塔(今「死冷凍」とか出た・・・私のパソ、何気に個性強い・・?)であるT細胞を育てる胸腺は10代くらいから衰え始めるし
基礎代謝の勢いは20代に入ったら下降の一途を辿るらしいし。

「そんな早くから衰えはじめなくてもいいんじゃあ・・」って思うくらい早くから、ブレーキをかけるための減速をしてる。

これは、止まるのがそれだけ大変、オオゴトだ、って事なんだろうか?

随分と前から減速しなきゃいけないんだなあ。

反対にいえばずっと活性化して代謝とかがめちゃめちゃ活発な状態てのは長く続くべきものじゃないってことなのかな?
死ぬ直前までずっと活発!みたいなワケにはいかないんだな。
プスン、とエンジンが切れるように見えて実は死への準備をしていたわけなのだね。全く人が悪いんだから。

年を重ねるにつれて、だんだん無理ができなくなってくる・・・「もうこんな年なんだ・・」とか思ってるその時なんかよりずっと前から実は内部は静かに衰えていたわけだね・・。
でもそういうものなんだろうね。それが生きてるものとして自然なのかもしれないね。
だから安心して衰えていいわけだ!
実際衰えつつあったってその中で充分生きてるわけだし。



あ。今日七夕だったんだ。
星空見上げても目悪いからわかんないしな・・・。


2002年07月07日(日)



 駄目駄目人間

あれ?もしかして来週からテストですか?てかもう明後日??
・・・・自分のような人間が落ちこぼれていくんでしょうね。今から目論んでいる事も勉強じゃないし。しょうもないことだし。
後で歯痒い想いをするのは目に見えているくせに・・
手を伸ばせば届くような努力をせずに怠惰に、培ったものを浪費している自分・・。
自分みたいにできない子ちゃんの場合、努力は些細でもいいから自負につながるからやっぱり、やった方がいいすよね・・。
自分のことせめて「駄目駄目人間」とか言わないような大人にならないといけませんね・・。

2002年07月06日(土)



 生命体と宇宙は同じ――?

つくづく思うのだが。
宇宙―――宇宙を構成する物質ひとつひとつ(暗黒物質であれ惑星であれ地球であれわたしたちであれ)
生命体―――生命体を構成する細胞ひとつひとつ(筋細胞であれ肝細胞であれメラニン色素であれ神経細胞であれ赤血球であれ)
これらはそれぞれ対応してるように思えてならないのだ。
電子顕微鏡でないと確認できないような小さな細胞ひとつひとつには、それらが形作ってるはずの大きなものの存在なんて知る由もない。
その細胞はその細胞を生きていて、その周りにあるものが全てなのだ。
たとえば――なんでもいいが――とある筋細胞は自分が「ヒト」という生命体の中にあるのだという事を、認知したうえで生きているのだろうか?
知らないところでは知っていることになるのかもしれない。無意識下の知だ。
だが、意識的に認知しているとは考え難い。
範囲を超えたような途方もなく大きなものの存在は、その中にいる小さなものにははっきり言って知ることができない。
それは、果てしなく広大な宇宙を知ろうとする私達そのものの姿だ。
宇宙からしたら塵ほどにもならない、しかし紛れも無く宇宙を構成してる一員である我々が宇宙を捉えようとするのは、ちっぽけな筋細胞がその身体全てが何であるかを知ろうとする位途方も無い事なのである。
筋細胞はそれが何によって歩いているか知らないかもしれない。
筋細胞はそれが何を考えているか知らないかもしれない。
筋細胞は老廃物がどうして排出され、どこからどこへ出されるのかも知らないかもしれない。
筋細胞はそれがどうやってエネルギーを取り込んでいるのか知らないかもしれない。
知る由もない。
ただただ、途方もない。
私達が、自分たちの今いる宇宙を理解しようとするのは、多分にそういうことだ。
何故クエーサーが存在しているのか?この宇宙はただ途方もないだけなのか?
ブラックホールは光をも閉じ込めてしまうとあるが、そのエネルギーは何処へいくのか?エネルギーを蒸発させて自身の肥大化が防がれているといっているが、どうなのだろう?銀河系はほかにも沢山あるはずだ。
私達は宇宙がどこから来たかを知っているか?
それがどこへ向かっているかを知っているか?
宇宙の中での私達の真の姿は見えているのか?
そもそも宇宙の真の存在を掴めているか?
私達は誰一人として、未だこの銀河系からすらも実際出ていないのだ。
仮説を立てることしか出来ず、
判った気になる事しか出来ない私達に、
真に宇宙というのが判る日は来るのだろうか?
それは果てしなく途方が無い。

だが。
先程も言ったように、生命体と宇宙は似ている、という考えがある。
生命は宇宙である。それくらい奥が深いと思う。
私達ひとりひとりの身体には、それぞれ宇宙の神秘性や普遍性全てが内包されているようにも思うのだ。
私達の身体は宇宙である。
そしてまた逆に、宇宙は生命体なのだ。
なんと言ったらよいか表現に悩むのだが、
そうすると宇宙という広大さはひとつの原点に凝縮されているのではないかと思うのだ。
存在という言葉がある。
存して在る、という言葉だ。
生命も宇宙も共に存在しているものだ。
存在という点において、二者は共通しているのだ。
原点の重さというか、濃さというか、意味合いというか。そういうものにおいては、ふたつとも同じなのではないか?
途方もなく広大なようでいてその実、宇宙という存在は意味合いにおいて、ひとつの点というような、そんな原点的存在で捉えられるのではないだろうか。
生命体と宇宙が同じであると考えた時、
生命体が膨大な数の細胞が集まって完成されたひとつのまとまった個体である、という考えを宇宙にもあてはめられるのではと考えられるのだ。
宇宙はただ広大なだけではない。
惑星や銀河がただそこらへんに浮いてるだけの無限世界ではなく、ひとつの目的とまとまりをもった、紛れもない「何か」であるという真理が見えてくるのだ。
そういう考えが脳裏をよぎった時、広大な何かの面がレンズだか顕微鏡だかで瞬時にしてズームアップされ、何かの点にピントがばちっと合ったかのようなはっとしたものに襲われたのだが・・・。



2002年07月03日(水)
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