こんなに好きでもいいですか? すみれ 【MAIL】【HOME】
- 2002年06月17日(月) 今までの事<ファザーコンプレックス2>
10歳で家を出ようと決めた私はその後、何度も家出を試みました。
でも、小さな町です。
早々、遠くにも行けず、何時も仲の良かった友達の家に居る所や、
遠くに行こうと思っても3時間に1本来るか来ないかのバス停で発見され、
家に連れ戻されて養父からも、そして、母からも怒られ殴られました。
「人様に迷惑の掛かる事はやめろ。」
「そんなに家を出たいなら一人前に働けるようになってからにしろ。」
養父の言ってる事は当たり前の事でした。
そんなにオコズカイも貰っていなかった私が遠くへ行ける筈も無く、
私は一端、家出を諦めて15歳の春まで計画を練り直す事にしました。
15歳の時、私の計画は実行されました。
「この町とは別の高校に行きたい。」そう言うと、
「何でそんなに私から離れていってしまうの?」と母は泣いていました。
養父はアッサリと「可愛い子には旅をさせろと言うじゃないか。」と言って
母を慰めていました。
母も最後には諦めたのか、私の好きなようにさせてくれると言いました。
養父は一度、駄目と言ったら絶対、聞いてはくれない人だったので、
私の計画が養父の反対に合わないで良かったと胸を撫で下ろしました。
小学校に入学してから中学を卒業するまでの9年間、
私はゲームセンターも映画館も無い町で、
養父の言うことは絶対服従の家と、虐められて何が正しいのかさえ解らない
学校生活を送りました。
高校の入試試験に合格した時、これで私の本当の居場所に戻れる、
そう思いました。
そうです、私はあの子供の頃に住んでいた教会のある町に戻る事に
成功したのです。
養父が「寮に住みなさい。」と言いましたが、
私は事前に御祖父ちゃんに連絡をして、あの私の育った家で御祖父ちゃんと
御祖母ちゃんと3人で暮らす事を勝手に決めてしまっていました。
高校に行くと私は水を得た魚のようになりました。
御祖母ちゃんは毎朝、子供の頃と同じように髪の毛を束ねてくれました。
幼馴染との再会を果たし、バンドを組み、夜遊びを覚え、
男の子と付き合いました。
誰も私を虐めなかったし、私の寂しかった小・中学時代を知る人は、
その町には誰も居ませんでした。
高校に入り、素行が悪くなった私は2度程、停学になりました。
一度目は万引きでした。
友達の万引きの手伝いをして私のバックに沢山の洋服が入っているのを
お店の人に見つかったのです。
直ぐに養父が来て、私を殴りました。私は1週間、
御祖父ちゃんの家から元の家に連れ戻されました。
「恥知らず」
理由も聞かず養父は私に言いました。
停学が解けて御祖父ちゃんの家に戻ると、御祖父ちゃんは
「どうして、万引きなんてしたんだ?お前はそんな事をする子じゃなかっただろ?」
と優しく聞いてくれました。
理由を話すと
「友達の事を話してはいけないよ。罪はお前一人が被ればいい。
ユダのようにキリストを裏切ってはいけないよ。」と言いました。
私はクリスチャンでしたが聖書は完読も熟読もした事がありません。
高校に入り益々、日曜の礼拝には出ませんでした。
ユダという人がキリストを裏切った事は知っていましたが、
その理由は今でも知りません。
御祖父ちゃんは私の信仰が薄い事をとても、悲しんでいました。
それでも、私に信仰の強制はしませんでした。
2度目の停学は学校で煙草を吸っているのが見つかった事でした。
又、養父が迎えに来ましたが、御祖父ちゃんは私を実家には帰らせませんでした。
養父には「貴方も煙草を吸っているでしょう?この子に叱る権利は無いですよ。」
と言い養父を帰らせた後、家中の灰皿を片付けて。
「一緒に煙草をやめよう。」と言いました。
一週間が経った時「やっぱり、やめられなかったね。」と二人で笑いました。
私は病気入院の為、1年間を無駄にした後、高校を卒業して、
進学の為に今、住んでいる街に出ました。
最後に荷物を片付ける時、御祖父ちゃんは私に聖書と自分の
ロザリオを渡してくれました。
そして・・・・・、
「お前の心の中の神様がずっと、お前を守っているからね、
素直に生きなさい。
自分に正直になりなさい。
辛くなったら何時でも帰って来ていいから。
祖父ちゃんは何時でもここに居るから。」
と言い送り出してくれました。
私は進学をして一人で生活をし、恋をたくさんして笑い、
何時の間にか学校を卒業をして、就職をしました。
一人で居るのが寂しくて同棲を繰り返し、
そして21も歳が離れた人と一緒に居て、
「堕胎」という悲しい出来事が待ち受けていました。
母は「父親が側に居なかったから、こんな年上の人を好きになったの?」と
私に聞きました。
その時まで、私の頭の中には『父』という存在がスッポリと抜け落ちていました。
私が子供を産めず、自律神経が可笑しくなって、色々、考えた事は・・・・。
何故、私がここに居るのかという事でした。
私は自分の手で、自分の子供の存在否定をしてしまいました。
男の子だった我が子・・・・。
今、ここにその子が居たら、幸せだっだろうか?
それとも、不幸せだっただろうか?
そう考えたら、私を捨てた実父にどうしても逢いたくなりました。
暫く死んだように暮した後、母に一言、
「お父さんに逢いたい」と電話をしました。
母はすぐに実父に連絡してくれ、私は実家に近い町で彼に逢う事が出来ました。
22年振りの再会でした。
彼は私によく似ていました。
無口な彼は余り話さず、
私も「どうして、私を捨てたの?」とも聞けず、
ただ私に3万円を渡すと「お母さんを大切にして下さい。」と言って
又、普段の生活の中へ戻って行きました。
「弱い人だから・・・・・。」父の事をそう言う母を見ると、
もう昔の母の面影は無く、沢山のシワが顔にありました。
帰りに御祖父ちゃんの家に寄って顔を見て行こうという事になり、
何時もの通り教会へ行ってみると、
御祖父ちゃんは今まで見たことも無い顔で怒っていました。
父と逢った事も詰られました。母も黙って話を聞いていました。
でも、それよりも私が堕胎した事がショックだったらしく、
「命を粗末にして、いい大人が何をしているんだ。」と
私が御祖父ちゃんの家を後にするまで笑顔を見せてはくれませんでした。
それから1年半が経ち丁度、私が不倫相手との別れを迎えようとしていた時でした。
母から突然電話が掛かってきました。
「ペースメーカーを入れるのに胸を開いたらね、
癌細胞がもう肺や甲状腺に広がっていたよ・・・。」
「末期だって・・・・」母はもう、涙声でした。
「絶対、死なない・・・・絶対、死なせない・・・・」
それから直ぐに私は御祖父ちゃんに逢いに行きました。
その頃はまだ、自分で立って歩いていましたが、
何時もは凛としている人なのに、「疲れた」と言って、
横になっている事が多かったようでした。
私は自分の街に戻ると、しらみつぶしに本屋を廻り、癌が治った人の本を
買い漁りました。
そして、不倫相手と別れた後に自立して生活しようと思って貯めていた貯金を
全部、使ってプロポリスという薬を買いました。
御祖父ちゃんに頼まれていた「長い河」という狐狸庵先生のハードカバーの本と
プロポリスを送ると、
母から「寝返りも打てなかったのに、体がポカポカして少し自由に体を
動かせるようになったって言ってたよ。すみれに有難うって言ってた。」
と聞き少し安心していました。
御祖父ちゃんが「有難う。」と言ってくれた事を聞いたのは春でした。
それから、暫くして私の御祖父ちゃんは秋に亡くなりました。
それでも、3ヶ月と言われていた命が半年持ちこたえました。
私はすぐに教会へ戻りました。
帰省する汽車の中で、まだ教会の片隅で蝋燭台のススを拭いている
御祖父ちゃんが居るような気がしました。
でも、御祖父ちゃんは小さくなって眠っていました。
私は長い手紙を書きました。
「私も何時か逝きます。
その時に地獄に落ちなければ、
どうぞ私の手を引っ張って下さい。
御互い、こちらに生まれおちた時はどうか、又、
私の御祖父ちゃんで居て下さい。
又、何処かで逢いましょう。
私は貴方の孫として生れてこれて幸せでした。」
そんな事を書いたと思います。
御祖父ちゃんが毎日、書いていた日記を読むと、
癌の痛みの為にペンが持てなくなった日が解りました。
読みたいと言い、送ってあげた本も3分の1の所でしおりが挟まったままでした。
日記に私が御祖父ちゃんに逢った最後の日の事が書かれてありました。
「すみれも・・・何時の間にか大人になった。
自分の事は自分で責任を持てるように立派な人になって欲しい。」
「何時の間にか自分も歳を取ったな・・・・」
そう書いてあるのを読むと涙が溢れてきました。
お通夜の前夜に私は右側のドライアイスを除けて、
御祖父ちゃんと一緒に眠りました。
従兄弟の子が「そこで寝るの?」と言いましたが、
誰も私の事を咎める人は居ませんでした。
御祖父ちゃんの体はドライアイスを除けても、とても冷たかったです。
もう、私を暖めてくれていた足も氷の様でした。
寂しくなって又、泣きました。
お通夜の日に御祖父ちゃんは見た事も無い白い祈祷服を着て、
大きなロザリオを首から下げて棺に納められました。
棺に釘を打ちつける前に私は読み掛だった本と長い手紙を御祖父ちゃんの横に
置いて、そっとおでこにキスをして、さようならを言いました。
それが、ずっと父親の代わりに、世の中の矛盾や深い悲しみから私を守り、
盾になってくれた人との最後のお別れでした。
<今日の出来事>
一週間ぶりに彼に逢いました。
割と早い時間でしたが、「何処に行く〜?」「何処に行こうか?」と仕切りに何かを
訴える彼。
でも、何だか仕事の事が胸に引っ掛かって、そんな気分じゃない・・・・。
彼は私に「僕はこう思う。」と言う事はあっても、強制や押し付けを絶対しない。
私の気持を察して彼が食事前だった事もあり、
ファミレスに行って仕事の話をしてくれる事になりました。
私は仕事の資料を持って・・・。
彼が「一緒に食べよう」と言ってピザを食べました。
仕事の話。彼は一生懸命、細かい事や自分がやって来た事を話してくれた。
そう言えば、my追加してくれた日記作家さんもこう言ってたっけ・・・・。
「実践じゃないと解らない事もあるよ。」
彼にも言われたけれど・・・・・私情が挟むのか素直に受け取れなかった。
その、日記作家さんのdiaryを全部、読んだ。
とても、心が爽やかになるような日記だった。(有難うスクエアさん。)
その御蔭か穏やかな気持で彼の話に耳を傾けられた。
納得・・・とは行かなかったものの、やっぱり、自分で勉強しなくっちゃと
再確認しました。
人に物を伝えるのが上手く行かなくて、今まで腹がたったら投げ出して来た事が
多かったけれど、
キチンと考えるチャンスが巡って来たんだと思うようにします。
人はテレパシーを使えない、「言葉」を使わないと解り合えない、
だから尚更、思い悩んで選んで、
そして言葉を使わなくてはいけないんだと思いました。
これから、私がどれだけ頑張れるかで、私の今後が変わるんだと何か初心に
戻った気分でした。
帰りにやっぱり寄ってしまいました、ラブホ・・・・。(;^_^ A フキフキ
御風呂に入って色々、話をしました。
ラブホに行ってもリラックスして彼と話をするバスタイムが一番、楽しかったりして・・・・。
今日は御風呂に入る前、
一人で鏡を見ながらシャワーキャップで遊んでいたら、
彼が何をしているのかと思い、脱衣所のドアを急に開けました。
「何、してるの?」と聞かれてビックリして振り返った私の姿は、
全裸にシャワーキャップを鼻の下まで被った御馬鹿な姿。(笑)
「宇宙人みたいだよ。」と彼も、一人遊びをしている私の事を笑っていました。
「僕も一人で、そういう事をする時があるよ。」と言う彼。
普段の彼の姿からは想像出来ないので、今日はシャワーキャップを
被らせて見ました。
御互にシャワーキャップは全然、似合わなかったです。
御風呂で何時ものように話をして居て、時間を見たら、もう休憩が終る時間。
でも、金額表示が変わっていなかったので
「5分間は料金変わらないんじゃない?」と彼に言うと、
「そんな事、あるのかな〜?」と言う彼。帰る用意をしているとイキナリ表示が
跳ね上がりました。
「あぁ〜」とガックリの2人。「やっぱり、5分間は猶予があるんだね〜」と
又、一つ勉強になりました。
家の近くまで送ってもらうと「後、10分だけ話をしよう〜」と言って車を近くに止めて・・
又、ギュッとしてしまいました。
覚え始めたばかりの子供でも無いのに・・・・・・。
どうして、こんなに求め合うのだろうと不可思議でたまらないです。