こんなに好きでもいいですか? すみれ 【MAIL】【HOME】
- 2002年06月16日(日) 今までの事<ファザーコンプレックス1>
私は物心がついた時にはもう、「父親」と呼べる人が側に居ませんでした。
子供の頃、父親の事を覚えている記憶といったら、たった1日、
それも薄っすらとした面影しか残っていません。
その日、保育園から戻ると普段、家には居ない父が私の目の前に居て、
嬉しくて嬉しくて、習ってきたばかりのラジオ体操を父の前で披露していました。
笑顔で私の事を見ていてくれて居る父の事が本当に嬉しくて、
「ホラッ凄いでしょ?パパが居ない間、私、こんな事も出来るようになったんだよ〜」
と真剣に大きく手を振り上げながら体操をしていました。
その時・・・・私の手はすぐ隣にあった灯油式ストーブにピタッと張り付いてしまいました。
えっ?と思った瞬間「ぎゃゃゃゃゃゃゃー」と私は泣き叫んでいました。
母も父もビックリして台所で水を流し、私の手を冷やしてくれましたが、
皮膚が剥がれて真っ赤になった手を見て父は、
泣きじゃくる私を、背中におぶって夜だというのに
近くの病院まで走って連れて行ってくれました。
「焼けどの跡は残りますが、指が癒着したりする事は無いでしょう。」と
医師に言われ、私達は自宅に戻ってきました。
私も病院から帰ってくる頃にはもう、泣き止んでいたと思います。
沢山、泣いたせいか眠くなった私は母と父の間でウツラウツラとしていました。
「昭憲さん、せっかく帰ってきたのに、こんな事になっちゃってごめんなさい。」
母の声が聞こえてきました。
「女の子だから、跡が残るのは可哀相だな・・・・・」
聞きなれない声でしたが、私は父が横に居る事を確認して
深く眠りに落ちていきました。
次の日、私が起きた時にはもう、父は居ませんでした。
そして、2度と父は私の元に戻ってきませんでした。
或る日、母が私に「今日から名前が変わるからね。」と言いました。
私は何の意味か解らず、保母さんに、
「今日からね〜すみれは、すみれじゃなくなるんだよ。」と言ったそうです。
その頃、御祖母ちゃんが父の悪口を言っていたのをよく聞いていました。
母と住んでいた、隣の家の御友達がお父さんと遊ぶ姿を見て
羨ましかったのも、その頃からでした。
母は、その頃、クィーンサイズのベットで私を寝かしつける時、
よく私を抱きながら泣いていたのを覚えています。
「ママ、どうして泣いているの?」と聞くと
「すみれはママとずっと一緒に居るでしょ?」と母は何度も言っていました。
或る日、家に戻ると昨日まで家にあったベットが無くなっていました。
「ママ・・・・すみれとママのベットは?」と聞くと
「大きすぎるから捨てたんだよ。」と母は言いました。
私が多分、3歳の後半か・・・4歳になったばかりの頃でした。
父が居なくなって、母が働き出した代わりに私は前よりも
御祖父ちゃんと御祖母ちゃんの家に居る事が多くなりました。
御祖父ちゃんの家・・・・・それは教会でした。
御祖父ちゃんは伝教師で母も私も生まれて直ぐに洗礼を受けて
クリスチャンになりました。
御祖父ちゃんはとても、厳格な人でした。所謂、昔かたぎというような感じの・・・。
でも、私には違っていました。
ある時、私は御祖父ちゃんに聞きました。
「どうして、お友達にはパパが居るのに、すみれには居ないの?」
「パパは居なくても、すみれには、じいちゃんが居るよ?じいちゃんは嫌かい?」
と言って御祖父ちゃんは私を慰めてくれました。
親類の叔母さんはそんな御祖父ちゃんと私を見て、こう言いました。
「すみれちゃんは可愛いけれど・・・・・・パパにそっくりだね・・・
御祖母ちゃん方のほうにも似てないし、御祖父ちゃん方の親戚にも似てないね・・・。
やっぱり、パパの家の人達とソックリだよ・・・・・。」
私は一人だけ仲間はずれにされているようで、子供心にとても寂しかったのを
覚えています。
それでも、私は保育園から戻ると何時も御祖父ちゃんにベッタリでした。
お気に入りの時間は御祖父ちゃんの膝の上に座ってGメン'75を見ることでした。
少しお酒臭いのと煙草臭い御祖父ちゃん、でも、とても安心していました。
夜、眠る時も御祖父ちゃんの布団に入って一緒に寝ていました。
私の足は何時も冷たくて毎日のように御祖父ちゃんの足と足の間に、
私の足を挟んで暖めて貰いながら眠りました。
母が居なくても御祖父ちゃんと御祖母ちゃんが居れば安心でした。
御祖母ちゃんはその頃、まだ働いていて生命保険会社の外交員をしていました。
時々、御祖母ちゃんの仕事に着いて行くと「娘さんですか?」とお世辞を言われて
喜んで居た、御祖母ちゃんを見るのが嬉しかったりもしました。
その頃、母とは何週間も会わずに居た事もありました。
昼間は事務員として、夜は御茶と御華と御琴の先生として働き、
生計を立てていた母は、
きっと、自分の事で精一杯だったんだと思います。
時々、母と会えないのが寂しくて泣いていると、決まって御祖父ちゃんは、
「エンエン泣いて悪い子にしているとママはすみれを迎えに来ないよ。
キチンと良い子にしてると沢山、お土産を持って迎えに来てくれるからね。」
と御祖父ちゃんは私に言っていました。
「チョコレートも持ってくる?」と聞くと「うん、すみれの好きなチョコもきっと、
持ってきてくれるよ。」と御祖父ちゃんは笑っていました。
私はそれでも、幸せでした。
母と会えなくても私はここで、御祖父ちゃんと御祖母ちゃんと一緒に
大きくなって行くんだと思っていました。
私は・・・・その日まで私の人生が大きく変わる事を知りませんでした。
それは本当に突然でした。
或る日の朝、目覚めると何時もと違う家の雰囲気に「どうしたんだろう?」と
思わざるを得ませんでした。
家の隣にある教会には沢山の黒い服を着た人達が集まっていました。
日曜日に礼拝に来るオジサンやオバサンも、
その日は綺麗に着飾っていました。
御祖母ちゃんは着物を着ていました。
御祖父ちゃんは礼拝で着ている祈祷服よりも豪華な飾りのついた
黒い祈祷服を着ていたと思います。
私は何時もよりも素早く御祖母ちゃんに髪をとかされて、
大きなリボンをつけて貰うと、黒くて可愛いミニドレスを着せられました。
御祖母ちゃんに手を引かれ一緒に教会の中に入ると
奥の部屋の椅子に母は座っていました。
まるで、マリア様のように母は笑って私を見ていました。
でも、私は母が遠くへ行ってしまうような気がしました。
私は母にも捨てられるんじゃないかと思いました。
母の横には見た事も無い女の子と、一度だけ会った事のある
変なオジサンが居ました。
「ママ、何処かへ行くの?」と私は聞きました。
「すみれ・・・ママは何処にも行かないよ。
それよりね、今日からこの人が、すみれのお父さんだよ。」
母は私にそう言いました。
養父に会うのはこれで、2度目でした。
最初に会った時も、この日も養父は私に笑った顔を見せませんでした。
母の横に居た女の子とバージン・ロードを歩く母のウェディングドレスの裾を
持ちながら歩きました。
それはとても、ゆっくりとしていて私はウンザリしました。
途中で御腹が痛いと嘘を吐いて、持つのをやめました。
御祖母ちゃんが心配してくれて御腹を擦ってくれた事・・・、
心が苦しかったのを覚えています。
式が終った後、綺麗な祈祷服を着た御祖父ちゃんが、
私を抱きかかえて誰も居ない、
駅から教会へ続く道に連れて行って、こう言いました。
「すみれ・・・・・・ママと一緒に行くかい?
それとも、祖父ちゃんと祖母ちゃんと一緒に、ここに居るかい?」
「イヤだ・・・・・・・・・御祖父ちゃんと御祖母ちゃんと・・・
ママと皆で一緒に居る・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
そう私が言うと御祖父ちゃんはとても、困った顔をして、
少し考えた後、私に言いました。
「皆で一緒には居れないんだよ?祖父ちゃんと祖母ちゃんは
すみれと一緒に居たら嬉しいけどね。ママは悲しむと思うよ。
すみれはママを悲しませたくないでしょ?」
「うん・・・・・。」
「じゃ〜ママと一緒に行きなさい・・・・・。」
御祖父ちゃんはそう言いました。
それから、私は暫くして引越しの荷物達と一緒に別の町へ行きました。
丁度、私が小学校に入学する頃でした。
新しい家に着くと新品の机とランドセルとピアノと2段ベットが用意されていました。
教会で母の隣に居た女の子も、はにかみながら待っていました。
4歳離れた、その子はとても、素直な子でした。
私に突然、妹と呼べる人が出来ました。
初めて新しい家に行った次の日、私は養父に怒られてしまいました。
家の壁にクレヨンで落書をしようとした私に「コラッッ! !」と言う人が居るので、
後ろを振り向くと鬼のような形相で私に怒鳴る養父がそこに立っていました。
私は御祖父ちゃんと御祖母ちゃんの家に居る時、怒鳴られた事がありませんでした。
母と私の家にあった、熱帯魚の水槽を置いてあった壁には
一面に私のライオンの絵とただ、グルグルとクレヨンで書いた絵がありました。
褒められる事はあっても、それを怒る人は誰も居ませんでした。
私は何で養父に怒鳴られなくっちゃいけないのか解らず、
後から母に、その事を告げると「壁に落書をしちゃ本当は駄目なのよ。」と言いました。
私の常識も突然、変わって行きました。
そして、養父の笑った顔も随分、後にならないと見られませんでした。
引越しをしてから、すぐに小学校へ入学しました。
へき地3級のその町で、私の入学した学校の新入生は、
私を含めて4人でした。
その内、女の子は私1人だけでした。
御祖母ちゃんが買ってくれた、お気に入りのジャンバースカートを着て、
エメラルドグリーンのスカーフを首に巻いて学校へ行くと、思い切り虐められました。
同級生の男の子はもちろん、上級生の女の子にも
「お高くとまってる」と訳の解らない事を言われました。
泣いて家に帰ると養父は「どうして、やり返さなかったのか!!」と
怒っていました。
母に「私にジャージを買って下さい。」と言いました。
買って貰ったジャージを着て学校に行くと
「お前のはアディダスでもプーマのでもない」と言って又虐められました。
母にそれを言うと、養父と同じように
「どうして、やり返さなかったのか! !」と怒られました。
母は前のような優しい母ではありませんでした。
養父の家は自営業で人を沢山、使っていました。
本宅の他に番屋という家があり、そこで働いてる人が寝泊りをしたり、
食事をしたり、仕事をしていました。
母は本宅と番屋を行ったり来たりして、目まぐるしく働いていました。
母はいつの間にか「ママ」ではなく
「おかみさん」と呼ばれる人になっていました。
時々、本宅に居ても妹の世話に追われて私を一人ぼっちに
する事が多くなりました。
そして、私もいつの間にか「お姉ちゃんなんだから・・・・」と
言われるようになりました。
新しい家に引越しをしてから1年くらい経つと私の体に沢山、湿疹がでるように
なりました。夜になると背中が痒くて眠れませんでした。
病院に行って薬を貰っても治りません。
母に「背中を掻いて」と言っても、薬を塗ってくれるだけで
「自分の部屋に行って寝なさい。」と言って、一緒に眠ってはくれませんでした。
或る日、私が2段ベットの上で眠っていると養父が子供部屋にやってきました。
2段ベットの下に寝ている妹はもう寝息を立てていたと思います。
妹に布団を掛けなおす衣擦れのような音を聞きながら、
私はウツラウツラとしていました。
養父が私の体に近付いてきた時、私は
「布団を掛けなおしてくれるんだ〜」と思っていました。
でも、養父の手は私のパジャマのボタンを外していました。
「どうしたんだろう?湿疹の具合でも見てくれるのかな?」
そう思っていた私の考えは一気に崩れていきました。
養父は私の膨らみ掛けた胸を揉み回しはじめました。
私はビックリしましたが、ただ怖くて何も言えませんでした。
養父がパジャマのズボンに手を掛けた時、私はやっと「やめて!!」と
声にしました。養父もハッとして、手を止めました。
そして、怖い顔で「お母さんには言うなよ。」と言って子供部屋を出て行きました。
その直後、私にもう一人の妹が出来ました。
私が9歳になった、すぐ後でした。妹はとても、可愛い女の子でした。
養父と母の可愛がり様も並大抵ではありませんでした。
私は益々「お姉ちゃんなんだから・・・・」と言われる様になりました。
湿疹はそのまま治らず、私は夜になるとイライラするようになりました。
下に寝ている妹を無理矢理起こして泣かせたり、
何時までもテレビを見ていました。
その度に養父と母に怒られました。
或る日、車で片道2時間以上も掛かる皮膚科から総合病院へ
病院変えをすると、私の湿疹はピタリと治り、
あんなに痒かった背中も綺麗な肌になりました。
診断結果は「自我中毒」というものでした。
母は少しの間、私と一緒に添い寝してくれましたが、
妹が小さいかったので、それも長くは続きませんでした。
御祖母ちゃんから手紙が来ました。
他愛も無い内容でしたが母に勧められて、遣り取りを手紙でする事になりました。
その時の私は母に添い寝をして貰うより、御祖母ちゃんと文を交わすより、
湿疹が体に出て食事制限をされていた、牛乳やバターや脂の乗った魚や
牛肉を食べられる事の喜びの方が大きかったように思います。
小学校の夏休みの宿題で両親の結婚の馴れ初めを聞いて
自分が生まれるまでの事を作文に書く宿題が出されました。
私はそこで、「お見合い」と言う言葉を初めて知りました。
母と養父は時々、大きな喧嘩もしました、
養父側の御祖母ちゃんも御祖父ちゃんも一緒に暮らして居て、
後妻としての折り合いのつけ方も上手く行ってなかったのかもしれません。
それでも、喧嘩の無い時は仲の良い夫婦でした。
顔に似合わず養父は子煩悩な人でした。
自営業でナカナカ休みは取れませんでしたが、
よく妹と母を連れて動物園や温泉に連れて行ってくれました。
母も妹もよく笑っていました。
それは、普通の家庭の幸せな光景でした。
でも、私は養父が私にした事を忘れていませんでした。
私はここに居ちゃいけないんだな・・・・・とずっと考えていました。
「家を出よう。」
そう、考えたのは私がまだ、10歳の時でした。
<今日の出来事>
今日は休日。
同居人も子供も家に居ます。
昨日の疲れなのか、2人とも御昼寝を何時間もしていました。
「これでもか〜!!」と寝ている二人を前にして。
「何時間、寝てれば気が済むの?」と思い、
夕方になって子供の物を買いに出掛けました。
先日から同居人は交通違反をして免停になってしまった為、私が運転。
何ヶ月もこれじゃ〜イヤになる・・・・。
家に帰ってメールチェックすると彼からメールが1件。
「これから、切れてしまった車のライトを買いに行きます。
今、電話出来るかな〜?」
「しまった・・・・・。」
買い物も早めに終わらせてきたつもりなんだけど・・・。(;^_^ A フキフキ
時間を見ると30分前、同居人が別の部屋へ行ってる間、
電話を掛けるけれど彼は出ませんでした。
先週は火曜に逢ったきり、ずっとローテンションだったので、
又がっくり・・・・。
御飯を食べさせて、子供に添い寝をしてあげて、
日記の更新をしていたら、深夜にメッセが繋がる。
でも、私はまだ、憂鬱・・・・・。
仕事の事は「初めての事だったから仕方ないよ。」と慰めてくれるけれど、
私は私自身に納まりがつかない・・・・。
友達は「責任感が強いからね〜。」と言ってくれる・・・・。
やっぱり、何もかもが負けず嫌いなんだろうか?