こんなに好きでもいいですか? すみれ 【MAIL】【HOME】
- 2002年06月12日(水) 今までの事<不倫する3>
3度目の処置の2日後くらいに子宮に入れた黒い棒を摘出しました。
入れられるのはとても、痛かったけれど取り出すときは痛みはなく
あっという間に処置は終りました。
そして、点滴を打たれました。
主治医の先生がやって来て、
「陣痛促進剤ですが、とても弱い薬ですから。」と言って病室を出て行きました。
私は点滴が落ちるのをボッーと見ていました。
心臓の鼓動と同じ速さで落ちて行く雫を見ても、もう何も感じなく
なってしまいました。
1日経って「堕胎」の日が来ました。
看護婦さんが車椅子で病室まで迎えに来てくれ、
処置室に連れて行かれて、又、別の点滴をされました。
何か説明があったかも知れませんが私には何も聞こえませんでした。
暫く点滴をしながら横になっていると今度はトイレに連れて行かれ、
浣腸をさせられました。
「御腹の中に何か溜まっていると危険が伴う事があるので」と
看護婦さんが言いましたが、入院中ほとんど何も食べられなかった私は
浣腸液しか出て来なかったように思います。
又、何時間も横になっていました。
看護婦さんが1時間おき位に「陣痛みたいなのは来ませんか?」と聞きに
来ましたが痛みも何もありませんでした。
母も心配になって何度か処置室に入りましたが、
何の痛みもやっては来ませんでした。
時間が何時間経ったのかも解らず、ただ、処置室のベットでボッーとしていました。
不意にトイレへ行きたくなったので、看護婦さんに声を掛けてトイレへ行きました。
そこで、御小水とは別の生暖かな液が体内から止めどもなく出て来ました。
「あれ?何だろう?・・・・破水した?」
ビックリして処置室に戻り看護婦さんに知らせました。
でも、看護婦さんは「もう、暫く寝てて下さい。」と言ったので、
又、横になっていました。
1時間位経ってから股の辺りに異物を感じました。
「なんだろう?御腹・・・痛くないのにな・・・・」と思い、股の間に手を当てがうと、
ブヨブヨした何かが手に当たりました。
看護婦さんに言うと、すぐに先生がやってきました。
「あらっっ、もう頭が下がってきてるわ」
あの、カルテを見ながら、この前、私の話を聞いてくれた年上の看護婦さんが
言いました。私はすぐに処置台の上に移動させられました。
そして、そこで御腹に力を入れるように指示されました。
3度目に力んだ時に何かが出て来ました。
「ジュル・・・・」
本当にそんな感じでした。
痛みはありませんでした。
少し足元のほうを見ると、白い物体が先生の手の中にありました。
よく見えませんでしたが、それはビニール人形のようでした。
青白くて白い病的な皮膚の感じでした。
私が見たのは足か手の部分だと思いました。
まだ、きっと指は出来上がっていたかどうか・・・・。
まるで、殺人ドラマに出てくる死体のように、
鮮明で綺麗な血糊のような物がベッタリとついていて、
白い肌が尚の事、白く見えました。
それ以上は見たらいけないと思い、目をそらしました。
後産があるからといって、看護婦さんが私の下っ腹をググッと押しました。
「痛い! !」
私が言うと「そんな事言ってられないでしょ?」と看護婦さんは怒った口調で
言いました。
後産が出ないと大変な事になると解ったのはずっとずっと後でした。
母が処置室に呼ばれました。
そして、先生の説明を受けながらたった今、私の中から取り出された
赤ちゃんを見ていました。
その後、母は堕胎した後の手続きなどをしてバタバタしていました。
葬儀屋というか・・・。
一応、赤ちゃんは焼却して、
まだ形成されたばかりの小さな骨を何処かの納骨堂に無縁仏として
納めるんだと聞いていたので、それの手続きだろうと思いました。
私が処置室から運ばれる前に赤ちゃんは白い布に包まれて
何処かへ行ってしまいました。
「ごめんなさい・・・・・」
心の中で何度も言いました。
病室に戻ると私のT字帯が外れかかって母が直そうとしてくれました。
私の股をつたって赤い血がポタポタと床に落ちました。
母が床を拭きながら、
「男の子だったよ・・・・指も手もキチンとあったよ・・・・・」
と切ない声で言いました。
私の人生は一端、そこで終りました。
後の毎日は死んだように生きていました。
母と彼が話し合いをしていたらしく、これからどうするか考えていた
らしいのですが、
彼が「絶対、離婚はしますので、娘さんの一生は僕が見ます。」と母に言い。
母は「こんな状態ですし娘の意志を尊重します。」と彼に言ったらしいです。
私はもう、どうでも良かったです。
余りの環境の変化は体に負担が掛かるので引っ越さないでいる事にしました。
彼も自宅には戻れないので、私の家に居ました。
母は「何かあったら、すぐ電話してね。」と言って実家へ戻っていきました。
仕事は辞めてしまいました。
母が会社に電話をして辞職の意を報告していました。
毎日が憂鬱でした。
もう、20歳も超えて、普通の人は普通に結婚して普通に子供を産み、
普通の主婦として生活している歳でした。
毎日、カーテンも開けず、御飯も食べず、誰にも逢わず、
気が向いた時は本ばかり読んでいました。
本を読む事だけが現実逃避が出来る唯一の手段でした。
病院を退院して1ヶ月は経って居なかったと思います。
彼が性交渉をしようとして来ました。
でも、避妊はしようとしませんでした。
私がどうして、そんな事をするの?まだ、気持も体も完治していないんだよ?
避妊は?どうするの?もう子供はいらないよ!!
と言うと、「今度は離婚に捉われずに産めば良いさ」
そんな事を言ったと思います。
私は怒ってベットから飛び起きました。
「この人の誠意って何だ?」と思いました。
それから、私は夜に眠らないようにしました。
関西で大きな地震がありました。
沢山の命が失われました。
持病の自律神経の病気が再発して過呼吸の発作が増えました。
或る日、彼が仕事から戻ると私の前に1枚の封筒を置いて、
「保険の受取人を書きかえたから」と言いました。
私は彼の方を向かず、ただテレビを見ていました。
何日かして、それを見た時、その金額にビックリしました。
保険証書は何枚もあって、トータルすると、
私が働いていた会社の資本金と同じくらいの額でした。
でも、嬉しくも何とも思いませんでした。
「アンタは金ばっかりなんだね・・・金で人の心が買えると思ったら
大間違いなんだよ! !」とそう思いました。
暫く、死んだように生活していたのですが、
半年が経って、やっと友達に会えるようになりました。
カラオケにも行ける様になりました。
過呼吸の発作が怖くて遠くまでは行けませんでしたが、
3日に一度は近所の花屋へ通えるようになりました。
段々、遊んでいても体調が悪くなる事も無く朝帰りも度々しました。
働かないで暇にしていたので、今までした事のない
趣味も出来るようになりました。
彼が持たせてくれて居たゴールドカードで好きなものを買いました。
そんな日々を送る中、
彼には一度も自宅に戻って離婚の話をして来る様子は見られませんでした。
私のストレスは買い物依存症となって現れました。
それでも、彼は私に何も咎める事はありませんでした。
ある時、近くに住んでいる退社した会社の人と会う機会があり、
人が居ないので手伝って欲しい事があると言われました。
2・3ヶ月手伝っていくうちに社長から「もう一度、頑張ってみないか」と言われ、
私は又、仕事を始めました。
彼は私が仕事に行くのが気に入らなかったようですが、
彼の会社のビルで上がマンションになっている、その部屋へ引越しをして、
新しい気持で仕事をしました。
私は死に物狂いで仕事をしました。
他の人に後ろ指を指されるのは当然と思っていましたが、
別の意味で認めさせたかったという思いや、これからの自分を考えました。
その間、彼の世話は疎かにしました。
御飯を食べる時間や眠る時間、
生活時間帯を彼に合わせる事は一度もありませんでした。
元々、私を家の中に居て欲しい、自分の他に好きな人が出来ると心配だから
外で働くのは反対だ、と言っていた彼なので不満は溜まって行くばかりで
束縛される事も多くなりました。
そして、彼はお酒の量ばかり増えていたと思います。
彼との別れはそれから、半年後でした。
或る日、会社の人が家に来て、「社長、病院へ行きましょう」と言いました。
彼は病院へ行ったきり戻ってきませんでした。
入院する事になったのです。
病名は「アルコール依存症」による、肝臓病でした。
肝硬変の一歩手前だったそうです。
病院から何度も電話が来て、彼が早く帰りたいと言っていました。
彼の家からも電話が来ました。
彼の病気は私と一緒に暮らしてストレスが溜まったからだと言われました。
彼の身内から色々、批判されました。お姉さんやお母様から・・・・。
彼が一度、家に戻る事になって暫く経ってから、
奥様から再度、電話があって少し話をしました。
彼の意志をその時、私は聞いていなかったので私は
「だって、彼は私と結婚するって何度も言いましたよ?」と告げました。
すると奥様は・・・・。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
余りにも当たり前の事で、現実的で、
私は暫く何も言えませんでした。
納得しざるをえない言葉でした。
口には出せなかったけれど、「そうですよね。」と心の中で思っていました。
話はナカナカ進まず後ろに居た彼の息子が痺れを切らして、
電話を変わった途端、私への罵倒は始まりました。
「お前なんて、どうせ何処かの水商売女だろ? !」
私は頭に来たので、
「アンタこそ高校卒業して進学も就職もしないで
親のスネを何時までも齧ってるんじゃないの?」
息子さんは逆上して電話を切りました。
すぐに彼の携帯から電話が来て、
「なんで息子に、そんな事言うんだ! !」と怒っていました。
「だって、自分の息子の愚痴を今までサンザン言ってたよね?」
「幾らアンタの子供だからといって何も知らない私の事を攻撃してきたら、
私だって遣り返すのは当たり前なんじゃないの?」と私は言いました。
彼は「子供なんだから・・・・・」と言いましたが、
私の腹立たしい気持は納まりがつきませんでした。
そして「家にキチンと戻りたかったら戻れば良いんじゃない?」と言って
電話を切りました。
後日、彼が話しをしにやって来て、
「俺はもう歳だ、病気もした、体力が残っていないし
お前の事を面倒を見てやる力も残っていない。」
と言いました。私は黙って話を聞きました。
「だけど、俺だって愛情の無い家庭に戻るのは嫌なんだよ・・・・」
私にはもう、彼の言っている事が言い訳にしか聞こえませんでした。
彼の家から引っ越す時、彼の荷物がこんなに少なかったんだと
初めて気がつきました。
少しの洋服と私が彼に教わっていたライカのカメラと・・・後は思い出せません。
私が彼に教わった事は・・・・。
不倫は体力やエネルギーが必要な事。
相手に依存してはいけない事。
見えない物を信じ続けなくっちゃいけない事。
愛情がなくても家庭は成立する事。
そして・・・・。
世の中には幾ら願っても祈っても足掻いても、どうにもならない事があるんだ。
という事でした。
彼は私より21歳も離れた年上の人でした。
その反動からか私は9歳も年下の男と結婚してしまいました。
それを彼が知ったのは私に長男が生まれて1年を過ぎた頃だそうです。
中絶の後、内膜症を患った私に子供が出来た事はビックリしていたらしいですが、
「年下くん好きだったもんね」と彼が失笑して居たと・・・
私と彼をよく知る知人が教えてくれました。
「年下より年上のほうが好きなのに・・・・・」
「何、勘違いしてんだろ?」
知人にボソッと言うと笑っていました。
私も彼の噂を最近、耳にしました。
去年か今年に入って脳梗塞のような症状で倒れたそうです。
症状は軽く後遺症も無かったらしいですが、
お酒は控えているようで、体調も思わしく無い様子。
それでも、毎週のように繁華街へ出て遊んでいるそうです。
私は少し・・・・・・。
「なんで、死ななかったんだろう?」
と思いました。
「早く逝って、あの子に頭を下げてよ、この世で罪を問われなかった分、
あっちで沢山の罪を背負わなければいけないんだから。」
とそう思いました。
こんな事を考えている私はきっと鬼畜野郎なんだと思いますが、
私も又、逝くのは地獄でしょう。
どんな罪が私に背負わされのか解りませんが、
それまでの少しの間、嬉しい事も悲しい事も楽しい事も辛い事も
沢山・沢山、噛み締めます。
何時か彼の事を懐かしい事と感じ、優しい気持ちで思い出せたら、
少し大人になれるかもしれませんね。
それでも地獄行きは変わらないか・・・・・。
<今日の出来事>
憂鬱です。
御昼から彼と電話で討論会。
お題は昨日の続きで私の友人の事。
彼は・・・・・。
友人と私が話していると私が感化されて、
自分と私の「不倫」を否定してしまうんじゃないかと心配の様子。
私は
「う〜ん。でも、友達に何を言われても最後に決めるのは自分だよ。」
「それに、人の話を聞けないヤツは馬鹿だって言うよね?」
と言いました。
彼は私の話を色々、聞いて。
「すみれが、そんなにシッカリした考えを持っているなら・・・・」
と少し解ってくれたようでした・・・・。
その間、約40分 彼は出勤途中でした。
どうして人間はテレパシーを使えないんだろう?
自分の考えを人に伝えるのって難しい・・・・。
少し疲れました・・・・。
彼から頼まれた仕事も進まない。
私には物を表現する力が無いのかな・・・・? !。
日記の更新も進まない・・・・。
きっと、この日記を読んで私の事を酷いヤツって思う人も居るだろう。
何だか、憂鬱・・・・・。
エネルギー切れ・・・・。
彼からは何時まで経ってもメッセもメールも繋がらない。
きっとまだ、ふに落ちて無いんだ。
オフラインを残す。
自分の思っていることを素直に残す。
夜になってメッセが繋がる。
少し解ってくれたみたい。ホッッ。
彼の帰宅時間は子供の就寝時間、私は添い寝なので電話は掛けられない。
何だか・・・・疲れた・・・・もっと、ユッタリ気分で居たい・・・・。