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■ 存在への問いかけ
人々が問い掛けた先には、 いつも答えが待っていた。 試すように、待ち構えていた。 そしてステップを上らせるのだ。 「永遠の問い」という名の階段の。
問いかけには、受け答えがあった。 それは一種関数的で、 ある存在に対してもう一方の存在が必然的に在る様に似ている。 私達は常に問う。問い続ける。 それは素朴な疑問であり、究極の問いでもある。 自分達の存在についての問い。
私達は存在している。 この宇宙に存在している。 そして私達は問うことをやめられなかった。 「なぜ」私達が在るのかという事を。
そんな問いを持てる私達が在る理由は? 私達は何故己の存在を問うのだ。 「在れ」ばそれでいいと見過ごせないこの衝動は。
くだらないとせせら笑う人も居る。 もっと他の建設的な事を考えろと呆れ返る人も居る。 でも問うという衝動が抑えられない人も居る。
それには多分理由がある。 「問う」という衝動が存在するのには理由がある。 「問われる先」が存在するからだ。
存在には理由があると思っている。 無いと存在出来ないのだ、などと高圧的な事を云っているのではない。理由があるのは必然なのだ、その存在が気付こうが気付かまいが。 私は、そう思っている。 何の根拠もあげられない、非常に心もとない主張だが、それでもある種の「確信」を思わずにはいられない。
そう考えると、問う事もあながち意味のある事なのではないかと思えてくる。
問われる先まで辿り着きたい。 輪廻転生が利くのなら、記憶がすべて無くなっていてもいい、私は必ず「問い」を思い出す。いや、思い付く。 そして問われる先へ辿り着くまで何度でも転生しなおす。 なんて貪欲で単純なのだと見下しても構わない、 それでも私はこの確信を失くさない。
今はまだ身体の中のちっぽけな筋細胞ほどの存在だとしても、ずっと転生を繰り返していれば、外を見回す眼球くらいにはなれるだろう。もしくは、その情報を処理し考える脳だ。 意識体を持つ身体そのものには、なれないかもしれないが。
2003年02月19日(水)
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