2009年03月13日(金)  「過去を脚色するクセ」は職業病?

昨日観た『チェンジリング』の「子どものために戦う母親」からの連想で、わたしが小学生の頃に母が関わっていた運動のことを思い出した。当時、大阪の堺市の大半の小学校にはプールがなかった。その建設の陳情のために市役所を訪ねたりビラを配ったり署名を集めたりする活動に母は関わっていた。わたしは小学校中学年から高学年だっただろうか。チラシのなかに、ため池で溺れた子どものことが載っていたのをよく覚えている。小学校にプールがあり、水泳の授業で泳げるようになっていたら、溺死の悲劇は避けられたのではないかとビラは訴えていて、それを読んでわたしは「なぜプールが必要なのか」を納得した記憶がある。

わたしの中では、ため池に落ちた子どもを喪った母親が「悲劇を繰り返さないために」と立ち上がり、運動が広がった、というストーリーができていた。そのことを昨夜母に電話して確かめたところ、「ため池の話? なんやそれ?」という反応で、母の記憶からは抜け落ちていた。プールの必要性を説くために引用された事故なのではと母は推察し、「臨海が埋め立てられ、それまでプール代わりだった海で泳げなくなり、学校にプールが必要になった」ことが運動の始まりだったと教えてくれた。記憶を脚色してしまうのは脚本家の職業病なのかもしれない。

これは母には電話で話さなかったけれど、運動に関わっていた母をわたしはかっこいいと思っていた。母が一度だけ、「いろいろ言う人おるけどな、お母さんはこれが正しいと思ってるねん」と唐突に語ったことがあった。たぶん、誰かに何かを言われた直後だったのだろう。わたしが卒業して何年か経って、わが小学校にもプールが作られた。

きっかけが何であれ、何かを変えるための運動にはエネルギーが要る。昨日の『チェンジリング』からもアメリカの大統領選からも感じたのは、チェンジの起爆剤となるエネルギーを個人が発揮する光景が日本からは急速に失われているということ。その理由のひとつに「あきらめムード」があるような気がする。やっても何も変わらないから最初からやめておこうという気分が省エネにつながっている。わたしもその一人で、「関心を寄せる」という最小限のエネルギー消費さえ惜しんで政治や社会の混迷を眺めていたりする。忙しい、余裕がない、面倒くさい……言い訳はいろいろ思いつくけれど、自分がやらなくてはという気持ちが希薄なのだ。だから、使命感と信念を持って壁に立ち向かう人を見ると、眩しさと頼もしさを感じる。『チェンジリング』を近くで見ていた観客の女性が連れの女性に「泣き寝入りした人も大勢いたでしょうに」と話しているのを聞いて、「立ち上がるの反対語は泣き寝入りする」で、その中間に「傍観する」があるのではと思った。

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