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JIROの独断的日記
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2006年06月11日(日) 「私が責任を取る」←「読むクスリ」に載っている恩師の言葉

◆週刊文春に長く連載された「ちょっといい話」

そういえば、いつ、連載が終わったのだろうか?週刊文春に長いこと連載されていた、「読むクスリ」というエッセイ若しくはコラムがあった。

「企業版ちょっといい話」というコピーに在るとおり、企業や組織におけるちょっとした工夫、心がけ、思いつき、などで、会社の業績が急に好転したとか、

ホンのささいなことが、一流営業マンの秘訣だった、という類の話を、作家の上前淳一郎という人が集め続けた。

今も文春文庫として残っている。全部で36巻もある。よく、これだけの逸話を集めたものだと上前氏を尊敬する。


◆第2巻(part2)に登場する、私の中学校の校長先生。

「読むクスリ」の文庫は気の向くままに買っていたが、ある時、第2巻を買って読んでいるウチに、ハッとした。

私が出た東京の某公立中学の校長先生は、非常に気骨のある人で、一目置かれていた。が、本に登場するぐらい有名な逸話を残していたとは知らなかった。

私が出た中学は、特別に優秀でも無かったが、荒れてもいなかった。

ところが、その校長先生は校長に成り立ての頃、昭和40年代に、すごい経験をしていたことを知り、大変驚いた。


◆昭和40年代の初めから、校内暴力(生徒の教師に対する暴力)はあったのだ。

学級崩壊はつい最近のことかと思ったら、生徒が教師に暴力を振るうようなことは、昭和40年代の初めからあったのだそうだ。

先生がひた隠しに隠していたので表面化しなかっただけだ。



その校長先生は桜井先生と仰る。12年間で3つの中学の校長を務めた(私の学校が最後だった)。

昭和42年、初めて校長を務めたのは、世田谷区のある区立中学だった。桜井先生は唖然とした。

体育館の窓ガラスは殆ど割られて、廃屋のようだった。

すぐ隣に女子大があるのだが、体育の時間に校庭へ出てくる女子大生をのぞき見するために、塀に無数の穴が開けてある。

シンナーを吸ってぶっ倒れている生徒がいる。廊下を自転車で走り回っているのがいる。

職員室で先生達に話を聞くと、すでに7,8人の先生が生徒に殴られたという。

「えらいところにきた」、と思ったがひるむ様子は見せなかった。朝礼の時にはっきり宣告した。

「この学校では、生徒が先生を殴る、と聞いた。しかし、私が来たからには暴力は絶対に許さない」

聞いていた先生たちのほうが驚いた。

「あんなことを言ったら挑発するようなものですよ?」

「暴力は許さないと言ったって、向こうが殴ってきたらどうするのですか。こっちが殴り返すのは禁じられているのです」



学校教育法第11条は「体罰を加えること」を固く禁じている。

桜井先生はこの11条が学校をダメにしたと信じていた。先生が殴り返してこないことを知っているから生徒がつけあがる。

何でもない、大したことがないことを「暴力だ」と親が騒ぎ立てる。ますます、学校は無法地帯になってゆく。


◆「殴ってきたら、殴り返せ。私が責任を取る」

と、桜井校長はきっぱりと宣言した。本気だった。

言うだけではなかった。先生から暴力を振るうことは決してないが、率先垂範した。



桜井先生は伊豆の神津島で育った。若い頃は漁船に乗っていたこともある。

50歳を過ぎていたが、素潜りで50メートルを泳ぐことが出来た。中学校のプールでしばしばこれをやってみせた。

プールから上がると悪童たちに、「お前ら、悪いことをすると放り込むぞ。沈めっこなら負けないからな」と冗談めかした示威行動をする。



それだけではない。

この先生は、自ら校庭の草むしりをするのだ。

ゴム長をはき、汚いシャツを着て、頭には手ぬぐいを巻いて、汗だくになって、やる。

校長先生自らが、皆の嫌がる汚れ仕事をしている。これは私も鮮明に記憶している。偉い人だなあ、と思った。



世田谷の暴力中学では、先生は日曜日にこの「草むしり」をした。バイクに乗ったガラの悪い卒業生がやってくる。校庭を走り回ろうというのだ。

桜井先生は言った。

「私がここの校長だ。お前ら、何か用か?」

「ここは学校だ。遊ぶところじゃない。帰れ。」

不良どもは気迫に押されて、帰っていった。



次第に「あの校長、若い頃漁師で腕っ節は強いし、戦争がえりの命知らずらしい」という噂が生徒の間に広まった。

桜井先生の名誉のために書くが、先生は本来静かに本を読んでいる教養人である。

すきで喧嘩が強いフリをしているわけではない。ヤクザっぽいところなど少しもない。

ただ、「気迫」が違うのである。


◆学校は嘘のように平和になった。

これだけで充分だったようだ。実際に先生が生徒を殴り返すような事態に至る以前に、

「あの校長、殴られたら殴れ、と先生達に言っている」話があっという間に生徒の間に広まった。

桜井先生自身の行動力、気力を見ると決してハッタリとは思えなかった。

校内暴力はピタリと止んだ。シンナーを吸う奴も、窓ガラスを割る奴もいなくなった。

草むしりをしていると、女子生徒が「お手伝いさせてください」と言ってきた。

あれほど荒廃していた学校がまるで、別の学校のように穏やかになった。

「私が責任を取る。」


管理者なら当然なのだが、その覚悟が出来ていない人のほうが多いことを社会に出て知った。

だから、今、この話を読み返すと、桜井先生は、本当に立派な先生であり、管理者だったと思う。


◆私自身の思い出

桜井先生は校長だから、直接授業を受けることは無かったが、教員室に入るときは緊張した。

桜井先生を「恐れる」のではない。「畏れ」ていたのである。

特に朝。

少しでも挨拶が遅れると、厳かな声で「JIRO(勿論、本名の苗字ね)君、朝の挨拶は大切だよ」とくる。

まことに尤も。挨拶も出来ない人間は何をやらせてもダメだ。桜井先生の注意を受けないようにしようと決意した。



私は生徒会の役員などやったので、桜井先生は、時折、見ていて下さったのだろう。

修学旅行の列車の中でたまたま、桜井先生と話す機会があった。

先生がぽつりと私に「君は明るくて、節度があって、いいね」と真面目な顔のまま仰った。緊張したが嬉しかった。

なんのことはない。明るいのは、馬鹿だからで、節度があったのは先生の前では緊張せざるを得なかったからだ。

それでも、あのときの先生の一言は私にとって、勲章となった。


2005年06月11日(土) 靖国と教科書問題に関する、 韓中両国による主張の非合理性を指摘する。
2004年06月11日(金) 「三菱自元社長、部下の進言聞かず」 それでも日本の製造業かっ!
2003年06月11日(水) 「金融庁、監査法人の査定に介入か」小泉首相も知らぬフリをしてはいけない。

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