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2006年05月24日(水) |
「プロのプロたる所以(ゆえん)」 |
◆プロは何故プロなのか?
もう少し適切な表現がありそうだが、あまり頭が働かない。
ある職業人が何故「プロ」としての存在価値を有するのか、というと、他の人々が素人だからである。
即ちプロとは相対的な概念であり、社会人は、皆、原則的にその職業のプロであるが、それは世の中の人々が素人でいてくれるからプロなのである。
もう少しわかりやすい例を挙げる。
世の中には、美男美女と呼ばれる容姿の美しい人がいる。
彼ら、彼女たちが珍重されるのは何故かと言えば、世の中の大部分は美男でも美女でもないからである。
即ち美男美女の概念も相対的なものである。
貴方が、美人、または美男子だと思う芸能人でもモデルでもよいから、思い浮かべてください。
仮に世の中の人間全員が、仮にですよ。その人達と同じくらい、容姿端麗だったと想像してください。
彼らは最早、美男でも美女でもない。「ただの人」である。
美人がちやほやされるのは、殆どが美人でない「おかげ」である。
◆プロは秀でていて当たり前なのだ。
変な話になってしまったが、あらゆる職業人がプロでいられるのは、その分野に関して、世の大多数が素人でいてくれる「おかげ」である。
当たり前の話なのだが、最近、それが分かっていない人が多い(昔からいるけどね)。
私は客商売をやっていたから、客商売の辛さが良く分かる。威張る客に遭うと如何に不愉快か身に沁みて知っている。
このため、自分が客の時はできるだけ、丁寧な口を利くようにしている。
プロの接客業はそういうとき、余計丁寧になるものである。
どんな業種でも、程度の悪い店(会社)では、これが徹底されていない。
パソコンの量販店など、こちらが初歩的な質問をすると、鼻でせせら笑って応対する奴がいる。
これは、プロとしての自覚に欠ける。プロは詳しくて、或いは何か高度な技術を身につけていて当たり前。
素人は詳しくなく、或いは下手であたりまえ。という基本を押さえていない。プロとアマチュアの境界が曖昧である。
◆同時通訳の村松さんと小松さんの講演会に行ってプロ根性の神髄を見た。
村松増美さんといえば「私も英語がはなせなかった」と言う本を思い出す。サミットなど超重要な国際会議での同時通訳を長い間こなしてこられた通訳者。小松さんも同様である。
このお二人に、アポロ11号の月面着陸の同時通訳をNHKで何日もぶっ続けで行った伝説の西山千さんという、ものすごく豪華な、「英語のプロ中のプロ」の講演会に行ったことがある。
お三方とも、自分たちはプロだから、英語が上手いのは当たり前なのだ、というストイックなまでのプロ意識を持っておられたのが非常に印象に残った。
長くなるから一つだけ。村松さんが言っていたこと。
「自分たちは同時通訳が多いけれど、皆さんが思われているよりも多く逐次通訳(原発言者が英語で話し、区切り、通訳が訳す、という方式)を行うことがある。
逐次は衆目の中で行うのだから特に態度に注意するべきである。
たとえば、英語国民はごく普通の習慣として、真面目な演説の途中にジョークを入れる。クスリと笑いそうになるが、笑うべきではない。
それは、『今、発言者は面白いことを言ったのです。あなた方(聴衆)は分からなかったでしょうが、私は分かるのです。さあ、これからその内容を教えてあげますよ』という態度であり、
プロとして一般の方々に対して失礼に当たるからだ。ジョークを訳し終えて、聴衆が笑ったら多少にこりとしてもいいだろう。」
これが、「プロ」というものである。
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