JIROの独断的日記 DiaryINDEX|past|will
◆本当は転載してはいけないのだろうが、敢えて実行させていただく。 かの有名な糸井重里氏のウェブサイト、「ほぼ日」(ほぼ日刊イトイ新聞)で1948年生まれの糸井氏と、1970年生まれの東大の薬理学者、池谷裕二氏が ◆本が出版された後の、続編の対談で、面白い会話が収録されている。 個人的には、海馬―脳は疲れないは、興味をそそられることはあるが、本としてはあまり感心しなかった。糸井氏が喋りすぎなのである。 ◆ところが、今ウェブサイトに載っている対談の中で良いことを言っている(二人とも)のを見つけた。 新しい対談は、文庫版「海馬」出版された後、におこなわれたものである。 ◆NINTENDO DS「脳を鍛える大人のDSトレーニング」で基礎訓練の面白さと重要性に気づいた糸井重里氏。 糸井重里氏は頭は良いけれども、ほぼ間違いなく「優等生」ではなく、「勉強」ということ、特に、「計算練習」など、「愚直な」行為を長いこと馬鹿にしていたらしい。 ところが、「脳を鍛える大人のDSトレーニング」をやってみたら、計算練習をやればやるほど成績が上がる。 今までやってみないで、「つまらない」と 決めつけていた「基礎を固めるトレーニング」の面白さと重要性がやっと分かったというのである。 本当は、知的財産権の侵害だが、私が要約したのでは面白さが伝わらないので、敢えて転載させていただく。 糸井:計算とか暗記とか、そんなの、苦手だしつまらない、と決めつけすぎていたおかげで、ぼくはもしかしたら、 ◆何かを習得するときに必要なことの「核心」を捉えている。 本稿の標題は 「馬鹿にならなければ、何事もモノにすることはできない」 と言いたいのである。 私がかねて考えていたことを、池谷氏があまりにも的確に代弁してくれているので、引用させていただいた。 池谷氏が述べているとおり、あまりにも子供の頃から頭が良くて、「こんな事をしても意味がない」と先を読む子は結局モノにならない。 それは、「馬鹿」になりきれないからである。 計算練習(算数)でも、語学でも、楽器の演奏でも、スポーツでも、書道でも、タッチタイピングでも、人間が何かの知識、技術、を会得できるかどうかは、初期の段階で「馬鹿」になれるかどうかによる。 「こんな事をして何の得があるのさ」という発想は、一見賢しげ(さかしげ。「利口そうだ」という意味)だが、それを言ったらお仕舞いである。 馬鹿になれるかどうかの境目は、 「打算的・功利的な計算を排除出来るかどうか」 である。 計算が上手くても、英語が話せても、楽器が上手くても、速く走ること、泳ぐことが出来ても、字が上手くても、タッチタイピングが速くても、上には上がいる。 習得した知識・技術により直ちに即物的利益がもたらされるわけではない。 知識・技術を習得する過程自体を目的化できるか。 何が何でも続けてやるという意志を保持できるか? これが「馬鹿になる」ということだ。 ◆「無思考」ではありませんよ。 約一ヶ月前に、「無思考をプラス思考と称する欺瞞」という一文を載せたところ、エンピツ、ココログ共に、私のサイトとしては、ものすごいアクセス数となり、誠に有難かった。 ◆愚直の一念 私の文章は、いつもこのように徒(いたずら)に長い。冗漫である。 「愚直の一念」 ということだ。 「愚かしいほど実直に、一念を貫く」 私はこの言葉が好きだ。
2005年05月23日(月) <銀行決算>不良債権半減、目標達成へ 大手4グループ←不良債権が減ればデフレを克服できる、と竹中平蔵は言っていた。
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