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2005年12月07日(水) |
私事で恐縮ながら、「たまには良いことがあるものだ。」という話。 |
◆例外的に私事を書かせていただきます。
原則的に、「JIROの独断的日記」には、私事は書かないのであるが、
今回あまりの大ごとに頭が一杯で、天下国家を論ずる余裕がない。
脳のキャパシティを超えている。例外をお許し頂きたい。
これまで、何度も通称「毎コン」つまり、毎日音楽コンクールについて書いた。
そもそも、毎日新聞が戦前に始めた文化事業なのだが、NHKとか協賛者が加わって、
今では正式には「日本音楽コンクール」というのだが、日本のクラシック音楽関係者は、
今でも「毎コン」と呼ぶ人が多いのではないかと思う。
とにかく日本で最も権威がある、つまり優れた才能を発掘してきたコンクールである。
◆今年のバイオリン部門で身内の子が上位に入賞したのです。
今年は、ショパンコンクールがあったから、毎コンは、やや埋没してしまったが、
実は、今年のバイオリン部門の上位に身内の子が入賞した。上位とは1位から3位までのどれかだ。
以前から、かなりの才能がある子だとはおもっていたが、まさか毎コンで?位に入賞するとは・・・。
この一件だけでも、気が遠くなりそだった。
だが、私の身内の話など、天下国家には関係がないので、書かなかった。このまま書かないつもりだった。
◆しかし、どこかで吐き出さないと、頭が元に戻らないような事が起きた。
コンクールで上位に入賞すると言うことは、「瞬間最大風速」のような物で、
その日、その時、その審査会場で演奏した者の中で、相対的に上手かったということを意味するに過ぎないのだが、
毎コンで上位に残るというのは、はっきり言ってただごとではないのである。
私は卒倒しそうになったのであるが、さらに驚くべき事が起きた。
日本で一番有名なバイオリンの大先生がいる。
自らもソリストとした活躍なさったが、教師としても大変な実績があり、
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第一コンサートマスター、安永徹さんも、
ずっと後の生徒だが、有名な諏訪内晶子さんも、
現在活躍している日本人バイオリニストは、殆どこの先生に習っている。
こういう大先生には、誰でも習える訳ではない。
先生が「この子は見込みがある」と思わなければ、門前払いなのである。
結論を書くと、この大先生が、何と。私の身内の子の演奏を聴いて、
「教えさせてくれ」と申し出てくださったのである。
もう、目が回りそうである。あまりの光栄に。
◆さらに・・・。
これだけでも、私は十分すぎるほど幸せだ。
「お前が褒められたわけではないのに、何がそんなに嬉しいのだ」と思われる方も多かろう。
こればかりは、この世界のことが分からないと、分からない。すいません。
しかし、驚きはこれで終わらなかった。
超弩級の話が起きた。
かの有名な小澤征爾さんが、やはり、私の身内の子に関心を持ち、
一度聴かせて欲しいから、東京の自宅に来て欲しい、と連絡してきたという。
小沢さんはウィーンのオペラハウス、国立歌劇場の音楽監督だから、1年のうち、日本にいる時間は限られている。
その小沢さんがわざわざ、自分から時間を空けて、私のごく近い存在である子の演奏を聴きたいという。
小沢さんが聴きたいとはどういう事かというと、もしかすると、その子のデビューコンサート、
つまりオーケストラをバックに協奏曲を弾く時に、小沢さんが振ってくださる(指揮する)かも知れないということなのである。
たまたま気が向いたから、と言うことはあり得ない。
ヘタクソのデビューを伴奏(協奏曲では、指揮者は伴奏者である)を引き受けたりしたら、小沢さんの経歴に傷が付く。
「この子は、何か持っている」と認めてくださらなければ、自宅に来て弾いて聴かせてくれなどということは、絶対に、ない。
それは断言できる。
以上の状況から言えることは、上手くいけば、まともに修行を積めば、
もしかするとこの子は、本当にソリストになれるかも知れない、ということなのだ。
嬉しくて、嬉しくて、涙が出そうだ。
◆目が眩むほど、光栄。
あまりのことに、再び卒倒しそうである。
目が眩むような名誉とは、このことだ。
私とて、この手の話が読者の方にとって不愉快であることは、承知している。
他人の自慢話は不愉快なものだ。誠に申し訳ない。
ただ、少し背景をご説明したい。
私は12年前から4年間英国に駐在したが、出発する直前に親父が脳梗塞で倒れた。
父は、寝たきりになった。私は父の死に目には会えなかった。
帰国してからは、それまでとあまりにも違う業務に携わり、うつ病を発症した。
それに加えて、実の兄弟はガンに罹った。
既にある程度進行しており、5年生存率40パーセントと言われた
(おかげさまで、医師の予想ははずれ、先日8年目の検診でも異常が無かったのだが)。
こういう事を我慢しながら、約8年働いたので、みっともないけれども、正直言って辛かった。
私は、自分の人生では、もう「良いこと」は何も起きないだろうと、思った。
今回のこととて、私自身の話ではない。
親戚の子と言えども当然ながら、全く別の人格、個性を持つ、独立した個人である。
それを自分のことと混同するほど私は馬鹿ではない。
しかし、それでも十分過ぎるほど嬉しい。いや、嬉しいなどというものではない。
音楽は私にとって崇高な存在である。
身近な人間が、もしかすると並ではない、音楽的才能を持っているのかもしれない。
そう考えただけで、私は報われた気がするのだ。
大げさに言うと、「もう思い残すことは無い」。
勿論死ぬわけではない。が、それぐらいの意味を持つ出来事なのである。
今日は、全然、時事・社会ではなく、完全な私的日記だが、
最後までお読み頂き誠に忝(かたじけ)ない。
ありがとうございました。
2003年12月07日(日) 要するに「イラク復興支援特別措置法」は「アメリカ支援法」だ。
2002年12月07日(土) 「・・・だから清の墓は小日向の養源寺にある」(続)