一度だけの人生に
ひろ



 感じること

最近、特に感じること。
「年齢」
自分の歳って言うのを良く感じる。
なんだか、つまらない。

内面では酷く悩み苦しんでいながら、
人にしゃべるときには、どこかで聞いたような、
怜悧狡猾な処世訓を言い、それをどこか擁護し、
その正しさを説く。

その自分の言葉の背景に
「俺は、もう望むべくも無い。
嫌なことを、嫌だと思いつつ、
それでも、受け入れざるを得ないのだ。
実に興醒めで、辛いことだ。苦しいことだ。
しかし、仕様が無いことなのだ。
本当に仕様の無いことなのだ。
だから、お前も諦めろ。俺は諦めた。
だから、お前も諦めなくちゃいけないのだ。」
というような、自慰とも自己正当化とも言うべき
心境があるのを感じる。
それは、僕がいわゆる「大人」達の言葉の背後に
感じ取ったものであり、僕がさんざんいやだと言った、
「苦労人」たちの教える教訓であった。

嫌なことだと思う。

しかし、どこか実感を伴って、
親父たちの心境も、今、
僕が持っているような心境なのだと感じる。

彼らもまた、「嫌なことだ」と思っているのでは
と思うのである。特にうちの親には感じる。

けれども、
「嫌なことだ」とは言えない。
「間違っている」とは言えない。
人間、間違っていることは出来ない。
嫌だ嫌だと思っていては、できないから。
正しいと思い込まないと出来ることじゃない。
それは彼らの生命線なのだ。と思う。

そうでないのなら、未だに僕には謎だ。

だからこの見解は、僕からしてみれば、
「苦労人」への善意的解釈と言える。

そんな風に、今までの僕と少しのズレを
感じつつ、それでも、まるでそんな「大人」に
なりきれていない自分に、今は少しの「安堵感」と、
そして大きな「苛立ち・焦り」を感じる。

ならないなら一生ならなきゃ良い。
なってしまうなら、一刻も早くなりたい

2004年05月08日(土)
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