 |
 |
■■■
■■
■ F
フェミニズムやジェンダーに関するいろいろをぱらぱらとめくっている。 それは、リプロダクティブ・ヘルス/ライツという語を知るきっかけとなった場に出かけていったこと(cf.11月18日)や、その関連で、
▼山口智美「『ジェンダー・フリー』をめぐる混乱の根源(1)」(『くらしと教育をつなぐWe』2004年11月号) http://home.uchicago.edu/%7Etomomiy/articlesj/gfree1.htm
のような一文に出会ったからであり、また、久しぶりに会った友人(同業の男性なのだけれど、年数回会った時の雑談が楽しみ)と、最近読んだ本について話していて、フェミニズムをめぐる言葉や論考いろいろについて意見感想を求められたからでもある。さらに、おじゃましている日記や掲示板で話題になったりもしていた。 その中で必然的に自分自身のジェンダー感覚についても考えることになった。
▼大塚英志「『彼女たち』の連合赤軍−−サブカルチャーと戦後民主主義−−」(文藝春秋、1996)
漫画家が描く「育児本」をめぐる一節。
そもそも彼女たちがなぜ、自分たちの「母性」を受容する気持ちになったのか、その点をめぐっての記述が忌避されている点である。
いきなり全面的自己(あるいは母性の)肯定から始まる、その根拠は何なのか、と大塚氏は述べている。 ……んー、書いても面白くない、(と思われている)から?(笑)。
漫画家に限らずともよい。
その疑問は、私の、妊娠して母になっていった友人知人たち(もちろん全ての、ではない)と接する中で感じていた違和感とどこか相通ずる。大塚氏の意図は、もう少し広く、母性(あるいは妊娠・出産)をめぐる、ある時代的変容を問題としており、そして最終的にはたぶん、戦後の歴史というものを描こうとする試みでもある。私の感想はたぶん、非常に恣意的というか、個人的な実感に即しすぎているのだろう。 もちろん、「母」である友人知人の、誰に対しても、常に、ん? と思っていた、というわけではなく、もちろん、よい風にいろいろと考えさせられ、励まされる時もある(あった)。 「励まされたこともある(あった)」と書くことがexcuseであるように捉えられかねない気もする。ん? と思うこと自体がけしからんことのようにも思われて、書くこともはばかられていたのだけれども、書いているわけだ。
結局、私が「問いつめたい」のは、個々人が獲得した母性についてではなく、母云々以前の人間性についてであり、当然「転向」することがあってもいいと思うけれど(私も前言翻しっぱなしだし)、それにあたっての自省はないのか、と思ってしまうのは、たぶん、かなり潔癖すぎるのだろう。
▼同「江藤淳と少女フェミニズム的戦後−−サブカルチャー文学論序章−−」(筑摩書房、2001)
序章「犬猫に根差した思想」に膝を打つ(そのまんま)。 直感的に問題の所在を掴むことがうまい人だと思う。ただ、それを論じてゆく中での理論づけがやや弱く、気がつけば行を進まされていたというか、ちょっと強引なんじゃないの、と思わせる点もあるか。それは論ずる場においてはまずいが、大づかみする魅力というのも確かにある。 そんなに多く読んでいるわけではないので慎重にならざるを得ないけれども、もしかしたらパターンが鼻につきかねない書き方なのかも(なんて書くとけなしているようだけれど、ここで挙げた2冊、特に前者は面白かった)。 江藤淳を扱った節での田中康夫批判(『なんとなく、クリスタル』の主人公が、恋人にひかれていくのは結局セックス(大塚氏はもっと直接的に書いているが)じゃないか、というような内容は、なんというかあまりにもありがちというか、雑なような。微細な(価値の)グラデーションを描こうとするところに田中康夫の小説の魅力(と、嫌いな人にはいやらしさとしか見えない何か)があると思うので。
かなりいい線いってるかも、な視座はあったとしても(それはあると思う)、これで全部オッケー、なんていう、小説の「読み解き方」みたいなのはありえない。近現代以降の作品だと、書かれている言葉を「わかる」と錯覚しがちなだけに、なお。 恣意に陥らずして読む。でも書くのも読むのはそれぞれにある個人。
カッコが多いですね。
2004年12月06日(月)
|
|
 |