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みんみん



 今日のニュース

曽我さん一家佐渡へ(よござんした)、というのもありますが、この件で。

<OECD>15歳の読解力低下が浮き彫り 処方せん見えず(毎日新聞)
<学力低下>「悲惨な結果」と専門家 OECD調査(同上)

そやろそやろ、んなもん当然、と言いたいところですし、実際言ってもいます。
また、ええっ、「若者世代」(と、あえてぼかして書きましょう)でもすごいと思うのに、10年下の世代はもっとすごくなるのか、うへー、とも思います(まあそれはどの世代も言われていたことだと思いますが)。本当のところは。
ただ、嘆いていても仕方がない。

かつて、中学生とか高校生くらいの頃、父が、「このまま(今の若者の状態)だと日本はダメになる」というようなことを言おうものなら、これからの世代を代表すべく(いや、そんな大げさなことでもないけれども)、そんなの、ただ嘆いたり文句言ったりするなんて生産的じゃない、そんな無責任な、と言い返したものです。
今は私も憤る。じゃあ一緒になって憤っているか、というとそうではなくて、父などはもう諦めているのか、そんなこと言うもんじゃない、と諫めるのです。お前だって大して変わらないかもしれないのに、と。
でもそんなおさまり方ってどうにもネガティブで、やはり無責任であることは変わらない。怒っているだけの私がいい気なものであるのと同じように。過ぎ去った都合の悪いこと(自分の愚かさにまつわるいろいろとか)は、皆、忘れるのです。

「学力低下はっきり認識すべき」・中山文科相
(日本経済新聞)


この記事の中で中山文科相は

子供が小さいころから、なぜ勉強しなければいけないかという動機付けをしなければならない

と述べている。その指摘はなるほど正しいでしょう。
しかしそもそもその答えは、大人の側に共通して了解されているだろうか。そこから考え直さなくてはいけないように思います。

これに関連して耳にしたニュース、

特区申請:世田谷区の日本語教育特区申請−−若井田正文教育長に聞く(毎日新聞・東京版、2004年10月15日付)

によれば、世田谷区は、従来までの、作品読解を中心とした「国語」の時間の他に、「日本語」の時間を設け(てい)るのだそうです。
「国語」が読解と鑑賞(あ、「鑑賞」はあんまりしているとは言えないか……)で、「日本語」が読み書き文法のスキル、ということなのでしょうか。国語も日本語も同じでしょ、と、とっても不思議ですが、とりあえず言葉を変えて新しい一歩が踏み出せますというのなら、何もしないよりははるかにまし、ということになりましょうか。
中学校では哲学や日本文化の授業なども行うそうです。現在、高等教育の場における文系基礎学の状況はまったく悲惨だとしかいいようがないのですが(まあそれもー、そこに至るまでにも様々な理由があったと思うのですが)、そんな閉塞した事態を打破するのは、初等・中等教育をめぐるいろいろしかないのかも。

そういえば先日、若者と、高校の現代文で、答えがひとつしかない、というのがいかに恣意的であるかということを思った、という話題になりました。ええ本当に。
でもいい先生だと、「あるべき答え」と違っていても、それなり面白がって尊重して下さったように思います。その上で、それらしいのを見つけて*やる*っていうのも。
あーでもないこーでもない、とあれこれ考え、あらわす。授業という場において堂々とそれが出来るのは、中等教育の場であれば、現代文か数学の授業なんじゃないかと思うのですが(注・他の授業は考えなくてもできる、という意味ではない)、どうでしょうか。

「先生」と呼ばれる業種の中で、最も重要で難しい(それゆえやりがいがあるとも言えそうな)のが、小学校の先生ではないでしょうか。何がいいって、授業中だけじゃなくて、それ以外のいろいろをトータルに見られるというところが。
たとえ国語が/算数が/体育が/図工が苦手でも、学校にいる時間は長いのです。

なんて、中学高校生の時には、全然、思いもしなかったのだけれど。というか「小学校の先生になりたい」なんて人を、フーン、という目で見ていたほう。どこかから(例、ふとんの中から)「やなやつー」という声が聞こえてきそうです。はいいやですわ。反省します。



昨日の補足。
私が ん? と感じていたのは、母性肯定に至る過程に他者は存在するのか、ということです。つまり、時に、存在していないようにも見えていた(いる)ということです。

2004年12月07日(火)
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