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みんみん



 いろいろ/近所の猫

やっと重い腰を上げて、机の上と、棚の中を整理する。たくさんの書類を処分した。
それにしても、まあどうしてこう書類というのは溜まるのだろう。
# すぐに整理しておかないから。
窓際の使い方を工夫して整理すると、もっと使いよくなるはず。

自動車学校の卒業検定に合格したよ、とTからメール。
お祝いに茶でも飲もう。

久しぶりに読むための本を借りる。
最近、書物を、linearではなくfragmentaryな捉え方で見るようになった気がしてならない。よくない。必要だから見る、のではなく、読みたくて読む、でありたいのに。
長編小説をしばらく読んでいないということかも知れない。読みはじめてしまうと没頭してしまうから。

夜、りー氏がいなかったので、というわけではないが、久しぶりに長電話をした。

ノーベル化学賞受賞者は地元出身者、というので、新聞の号外が出るなどして、たぶんちょっと盛り上がっている富山(市近辺)。知り合いだ、という人には会っていないけれど、同窓だという人なら容易にみつけることができる。確かに誇らしいだろう。
それにしても(化学のことはわからないけれど)これはいい受賞だ。こういう受賞者が地元から出るのは、渋くていいねと、話す。

明日発売(1日早く店に並んでいた)の地元雑誌を見たら、温泉特集をやっていた。
黒部峡谷沿いの秘湯ルポというのもあった。ははあ、これが、Kさん(美人)が突然間接的に(編集者の知り合いから)モデルを頼まれたけど断ったという企画だな、と眺める。
さらに進むと、「街でみかけたおしゃれさん」的なページに、知り合いの名前があった。あら、と思いつつ肝腎の写真を見ると、いつもの雰囲気と全然違っていて(メイクをばっちりしていたので)、ちょっとわからなかった(これは共通の知り合いであるりー氏も同意見)。名前があったからわかったようなものだ。たぶん、これも、街でたまたま遭遇したというより、来てもらったというところなのだろう。
狭いのだ。

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猫の親子(たぶん)に会った。
車で家に帰る途中、お地蔵さんの隣りの家の前に、中学生の女の子たちがたむろしていた。なんだろう、と見ると、大小の猫が何匹もいた。

車を止めるのは迷惑だから、いったん家に帰って、家にいたりー氏に声をかけて、歩いて行った。デジカメをズボンのポケットに入れ、ちりめんじゃこを持って出るりー氏。
−−ちりめんじゃこじゃなくて猫用にぼし(塩分控えめ)があるから。
# 猫は塩分を控えた方がいいとされている。
  少量で濃い尿をする猫は、腎臓結石を起こしやすい。

さっきの場所に行くと、女の子たちが給食の残りの食パンをやっていた。私たちもしゃがんだりして猫に近づく。
りー氏はデジカメにカードを入れていなかったことに気づき、いったん家にもどる(取って来れば、と私が言った)。

一番人慣れしている大人の猫は、たぶん母猫だろう。このへんでたまに見かけたことのある白と茶トラのぶち猫だと思われる。他に、茶トラの子猫が積極的だ。白と茶トラの子猫も、様子を窺いつつ、ソロソロという感じ。その奥に、黒と茶のまだらな子猫、白黒猫、いちばん奥には、子猫たちよりはちょっと大きい感じに見えるぶち猫(三毛か?)。これは、ガレージからちょっと顔を出しているだけなので、全体がわからない。
最初わたしは、なんとなくこの母猫がのいのおかあさんではないかと想像していたのだが(家も近いし、茶が入っているし)、子供たちも揃ったところでよくよく見てみると、のいとは全然似ているように見えない。ここにいる大小の猫たちは、たぶん親子だろうから、確かに似ているようだけれども。

私の持っているにぼしの袋のにおいを嗅いで、母猫と茶トラ子猫が近づいてきた。とりあえず右手の人差し指を差し出して、あいさつする(いわゆる鼻ツン:鼻と鼻とくっつけるかわりに、猫が私の指に鼻をくっつけてくる。ちなみに、のいにはいつも直接鼻ツンをしている)。子猫は私の指を甘噛みさえする。そのうち、とうとうにおいにがまんできなくなったのか、にゃあ! と子猫が鳴いた。つづいて、母猫も少し強めの声で鳴いた。
えさで猫に近づくのは本質的には反則なのかも、と思いつつ、鳴かれると弱い。

私はしゃがんで猫と遊んでいた。

そのうち、小学生の女の子たちがやってきて、わーかわいい!きゃー! という感じで、容赦なくスピーディな動きで猫に近づいてきたので、猫たちはびっくりしてガレージの中に入っていってしまった。
それで私たちも家に帰った。

のいは来月になったら手術をする予定だ。
オス猫だから子猫を生むわけではないけれど、のいの子供だったら、きっと、とってもかわいいだろうなあ、と猫バカな元・母さんは思う。いつか猫を飼うことが出来るようになったら、子猫の時から一緒に過ごしたいけれど、しかものいの子供たちだったら言うことなしだよなあ、と、あれこれ想像だけはしてみる。
今日の子猫たちは、家に来た時ののいよりも大きかった。あんな風に、おかあさんやきょうだいといっしょにいたこともあったのだろう。でもそんな時分ののいを私たちは知らない。
のいは覚えているのか? 忘れちゃったのか? 
考えるといつも、とても不思議な気持になるのだ。

2002年10月09日(水)
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