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日中、お手伝い。
並木が植わっている地面にぽこぽことたくさんの小さな穴があいていた。 ありの巣? それににしては大きいし、数が多すぎる。
蝉の穴やろ、とりー氏が言った。
へえ。 本当にぼこぼこぼこぼこたくさんあいているから、ここから1匹ずつ出てきたとすれば、そりゃミンミンいうわけだ。 蝉が鳴くと暑さも増しそう(な気がする)。でもどうせ鳴くなら、雲がわき起こる青空の下(の木陰)がいいんじゃないだろうか。中途半端な曇り空よりかは。
「link」のページををたどって、あちらこちら、会ったことのない人のページに飛んでいく。 するとそこの「link」が自分のブックマークと同じだったりする。 すると知らない人なんだけれど知っている人のような気がする。
〈ネット友達〉という概念は、あまりない。 知り合うきっかけがネットだった、とか、ネットによってつながりが深まった、ということはもちろんある。特に富山に帰ってきてからはかなり。 恣意的につながろうとするのではなくて、たまたま、何かつながりたいと思うようなきっかけがあって、ぴっと糸が引かれる。その糸は極細かもしれないし、ロープのように頑丈かもしれない。極細の糸が細いなりに微妙な撚りを生み出すこともあるし、太さに甘んじて変化のない関わりもある(それはそれで幸福なのだが)。 いつどう変わるかわからない。つながる瞬間も重要だが、発展させ維持していく方がもっと重要。いいなと思う物・事・人には引き寄せられ(あるいは近づき)、そうでない物・事・人からは知らないうちに(あるいは恣意的に)距離を取っている。
例えば、もしもネットが出来なくなったら、メールが書けなくなったら、手紙を書けばいいか、と思う(許されれば)。 書くのがもどかしくなったら会いに行けばいいや、と思う(許されれば。時間は作るものだ)。 ある程度ネットに近づき、日常化したからかも知れない。
ネットが人とのつながりの深さや広さや幅にグラデーションを生み出していることが面白い。 しかもそれが変化するダイナミズム(そんな大げさなものでも)。
それでいちばん使わなくなったコミュニケーションツールは何かといえば、電話だ。
すごく早く眠ったら(何時に寝たのか覚えていない)、夜中に寒くて目が覚めた。 起きてみたらそれからしばらく眠れなくなった。 少しネットをして目を疲れさせて、再び眠る。
2002年08月26日(月)
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