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■ 猫
実家に子猫を置いてきた後、りー実家に寄ったら、グッピーの子が生まれていた。子猫をいつくしむ家あり、幼魚をめでる家あり。 # 猫と幼魚の両方、という家もあるようだ。
ケージのない縁側はすっきりしている。 ちょうど1ヶ月まえ、縁側に来ていた時は、来たらすぐわかるように、いつでも縁側を網戸にして開け放っていた。梅雨どきの肌寒い日も。 それから数日して家族になってからは、外から大っぴらに見えることが憚られもして、窓は控えめに開けていた。 今は、暑い夏の日にいつもそうするように窓を開け放っている。 蝉の声。りー氏が餃子を焼く音(餃子を焼くのはいつもりー氏の役目)。
猫の引っ越しの件、「おれすっかり悪者キャラ(涙)」と自嘲するりー氏。 りー氏に対しては、なんでダメなんだ!と思う気持と納得せざるを得ない気持の両方がある。そして、りー氏が「いけない」と思う理由と私がそう思う理由とは、微妙に違ってもいる。 りー氏にとっては、契約違反であるということと、自分の家ならともかく、借り物である人の家を傷めるのはどうかということが問題だった。だからこの家に住んでいる限り、持ち家でない限り、動物をめぐっての状況は変わらない。 対して私は、こそこそ飼うことで日陰もの的な存在にしたくはなかった。嘘をつくところまでは行っていなかったが、隠微な嘘ではあっただろう。後ろめたい思いがあった。それがのいに対して申し訳なかった(猫バカと言われても)。 もっとも、りー氏の↑なころは、ちぇっ、と思う部分でもあるが、反面、非常に安心出来るといおうか、信頼できる部分でもあるので、まあ、しょうがない。ムカつくけど(笑)。長所と短所は裏表だ。
つらいつらいと言えることなら、まだいいような気がする。のいは実家にいるのだから。父さんも母さんもばあちゃんも気にかけてくれている。 でもいいかげん父さんには名前で呼んでもらいたいものだ。いつも「猫、どこよ」で済ませるのはいかがなものか(笑)。 そしてりー氏のさみしさはじわりじわりと。 あんなにしゃらくさいことが嫌な人が、かわいがって、さみしがっている。私と2人で撮った写真はちっともないのに、りー氏がのいと撮った写真なら何枚もある(笑)。
夜、母から「のいさん情報です」と電話。 家にも家族(父母祖母)にもすっかり慣れ、水を飲んだりご飯を食べたり。 母の足のあたりにまとわりついたり、父にじゃれたり。祖母が新しい家族に思いがけなく喜んでいる(日中はいつも祖母だけなのだ)。編み物好きの祖母が毛糸の玉をふたつ作ってやったら、大喜びで遊んでいるらしい。 実家は駅のすぐ近くなので、列車が来ると様子を窺ったりしているらしい。網戸の隙間から入ってくる虫に興味津々(たまに食べる)。車の音にさっと走って逃げてみたり。 父さんには名前で呼んでもらわんなんね。「うん呼んどるよ」 ありがとうお母さん。 家族のこと、知っているようで知らなかった。父も母も猫と暮らしていたとは。祖母も猫好きだったとは。 私は身近な大人の昔話を聞くのが好きだ。子供の頃の話とか。
うれしいさみしい。 とりあえず明日も明後日も実家に行く用事があるし。りー氏ひとりでも気をつかわずに行ってよいのだよ(当たり前だけど)と言う。
のいあるいは猫という動物を通して、今までとはまた違った風に物を見ていたような気がする。いいとかわるいとかではなくて、面白い経験だった。 今回は「猫」が媒介だったけれど、今後またいろいろそのような経験はあるだろう。「生」とか「死」とか。 経験していないことは想像するしかないのだけれど、想像よりは経験の方が説得力はある。一個人の生活歴の中では(全て経験者が「えらい」、とは言いたくない気持もあるのでこんなことをいってみる)。 わかっているような気でいて、ちっとも人のことなどわかっていないんだろうなあ。同じ人間がいない以上、わかるなんて無理だけど、わからないことによる救いもあるかも知れない。わかろうとすることの喜びも。 手持ちの札をとにかく組み合わせていくしかない。札を増やす努力も。
いつかまた猫とくらしたい。子猫から一緒に。 猫は1匹より2匹の方がいいみたいだよね。でも大変かな。 「変わらんやろ」 そう言うりー氏は犬を飼ってみたいようだ。もちろん茶色の雑種(「だらわんこ」)を。 でものいはのいだけだ。 のいさんや。
2002年07月28日(日)
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