初日 最新 目次 MAIL


HELEN&HEAVEN
Helen
MAIL

2003年07月18日(金)
整理整頓 (の、ささいな極意)

整理整頓
会社には、5Sたら6Sたら“S”を頭文字にとった清掃活動があって面倒くさいことこの上ありません。(*´ο`*)=3 はふぅん

だいたいプライベートでさえ片づけできない人間σ( ̄▽ ̄;)に、あまり無理難題を持ちかけてはいけませんことよ。

しかし“社会人(会社員)”としてお給料をもらっている以上は、仕事の一貫として従います。

5Sとは…

◆整理…要るものと要らないものを【明確に】分けて要らないものは捨てること。
◆整頓…要るものを使いやすいようにきちんと置き、誰にもわかるよう明示すること。
◆清掃…つねに掃除をし、きれいにすること。
◆清潔…整理・整頓・清掃の3Sを維持すること。
◆躾…決められたことを、いつも正しく守る習慣づけのこと。

 ↑この場合の躾は、世間一般でいわれているような「行儀作法を教え込むこと」ではなく、端的に言って「正しい習慣づけ」のようです。

私は、いつもこの5つが唱和できずに、苦手なんであります。(右から左に抜けてしまうため。)
当たり前といや、当たり前なこれらの行為は以外と守られていないことが多いです。

それは、公共性という隠れ蓑をたてに会社のトイレや廊下…共通の場所を激しく汚してもへいちゃらな人が多いのが証拠といえましょう。(自分の排泄物には名札はついておりませんものでね。)

さて、本題です。

本の表題も著者も忘れしまって大変申し訳ないのですが、いろいろと生活の知恵の載った本だったと思います。
私は「1度目を通したら2度と通さない」と思われる本は『主要な部分』を切り取って処分してしまいます。
殆どが¥100前後の古本なので、惜しいと思いません。
惜しいのは「また読むかも?」「もったいない!」とホコリを被ったまま部屋を浸食するスペースですね?
余談になりました。

その幸運にも生き残ったページの内容を自分で実践してみたら、気持ちがよかったので、皆さんにお知らせしようと思います。

**************************************************************

「テーブルの上には何も置かない」

帰宅後、家の中に足を踏み入れた途端、部屋が乱雑で余計に疲れが出るというような経験はありませんか?

朝、あわてて会社に出たり、時間に追われて待ち合わせ場所へ行ったり、買い物に出たりで、部屋を片づけてからでかけることは、難しいことだと思います。

そこで、簡単にできる工夫があります。
家の中で、1箇所、なにも置かない場所を決めるのです。

しかし、このスペースが広すぎるととてもやる気になれません。
まずは…テーブルの上が最適。
一番目につく場所で、面積もさほど広くないので、片づけるにはやりやすいはずです。

だいたい…
テーブルの上に置いてあるのは、新聞やDM、広告、ペン、飲みかけのコップ、灰皿や、テレビのリモコン…など、細々としたいらないものがほとんど。

片づけても困る人はいないはずです。片すときには、『そのモノが元あった場所に戻す』ように訓練してください。例えば、手紙は手紙入れ、コップは台所、ペンは鉛筆立て、灰皿はキッチンカウンターと、それぞれの指定席に戻してください。

このように、限られた(最小限のスペース:テーブルの上)スペースに何も置かないと決めて、実行してください。これを毎日、繰り返していくうちに、要領がわかるようになります。そうしたら、もうすこし広い面積の片づけを始めます。すると、要領がわかっているので、苦もなくできるようになります。

疲れて帰ったとき、上に何も置いてないテーブルを見るだけで、気分は落ち着くはずです。もうすこし欲をいえば、このテーブルがピカピカ♪に光っていたら、もう言うことはないですね。

**************************************************************
↑このような内容です。

私は、居間のテーブルの上だけ『何も置かないルール』にしています。

これだけは最後の砦にしてるんです。

その他のスペースをキレイにするにはまだまだ修行が足りません。(笑)


帰宅後、テーブルの上がゴチャゴチャしていると、ほんと疲れが倍増してしまいます。
何もない、スカーッ♪としたテーブルって気持ちよいもんですよ♪♪
試してみてくださいね♪






2003年07月16日(水)
Wの照り返し

どうしたんだ!
写真日記も、裏日記もコケ倒し…。(;´Д⊂)残念で仕方ない。

裏日記に書きたい内容をココに書く。

昨日、夕方、駅のホームで携帯メールを一生懸命、作成していた。
送信し終わったちょうどその時、ふとイタイくらいの視線を感じ、顔を上げると…

妙に男前のドーナッツはげが物陰に半分隠れて、こちらをジッと見つめていた。

(ハゲのくせに何みとんねん!※ハゲと凝視することについては何の因果関係もありません。)声に出さず暴言を吐いて反対側をくるりと向いたら…

なんと、そこにもドーナッツはげが居て、真っ直ぐこっちを見つめていた!!

・・・・・Σ( ̄⊥ ̄lll)・・・・・

Wの照り返しが眩しかった日。

そこから遡ること数時間前、ちょうど私一人でパソコンを触っていたときに、ツネちゃんがやってきた。

心優しき某mokoりろ♪お姉さまの


え〜〜るっ!


をお見せしたら、真っ赤になって照れていた。

あんたも!何勘違いしてんねん。

ツネちゃんに「なんてお応えしといたらエエのん?(え〜るに対して。)」と尋ねると…

ツネ:「はぁ… (///∇///ユデダコ状態〜)  がんばりますぅ…ちて、伝えてください。」


(^-^)… ツネちゃんて、可愛い?



2003年07月14日(月)
日本語


面白いのは日本語だと思います。

主語がなくたって話しが通じてしまうからです。

例えば…

「今日、歯医者へ行きました。」

?(゚_。)? 誰が歯医者へ行ったのかわからない…。?(。_゚)? 

英語なら、こう表記されます。


I went to the dentist today.

He went to the dentist today.

誰がどこへ行ったのか明確にされます。

もっとヒドイ省略になると、2,3日前から歯がうずいてしょうがないという前ふりがあったりして…

「とうとう行ってきたよ。」なんてことにもなりかねます。


会社のM下ヲジはよく、「あれ」という単語を使います。

M:「あのな、あれ!や〜、あれ!!ぇえ〜っとなぁ…。あれ!!う〜〜〜〜っと…」

この場合は老化現象のようです。



2003年07月11日(金)
作文の技術について

うんうん悩んでいたら、一週間が過ぎてしまいました。
感銘はうけたものの、はて、どうまとめたらよいかとなると、遠浅の海でばた足しているみたいです。
それでも、少しばかり形になった(と思う)ので、載せたいと思います。

先の表日記に書きました通り、あるジャーナリストの作文技術の本を読んで、文章にも「書く技術」というものがあるのだなと感心しました。
そのジャーナリストを含む二人の作家が偶然、“話すようには書けない”と書いています。
理由はなるほど得心がいくものです。

「話すように書け」………は、しません。

話し言葉の間の置き方・開け方・縮め方は人それぞれで、個々人においてもその時々の気分や環境あるいは時間的に急いているかどうかで、話しの進め方等が、ちがってきます。

1. 話し言葉とは

ある作家よると話し言葉は大別して

◆会話態 ◆講話態 ◆ゆるやかな講話態  …の3つにわかれるそうです。

1.1. 話し言葉をそのまま書いてみると、どうなるか....

まずは、手本の作文技術の本から抜粋してみましょう。

●おはよおございますあれるすかなおはよおございますどおもるすらしいなはいどなたですかあどおもおはよおございますしつれえしますじつわはあじつわわたしこおゆうものなんですが

これは、保険外交員のような立場の人がセールスに訪問したときの会話(うち内面の独り言を含む)の始まりです。
標準語にほぼ近い形で書いてもこのようになります。

独白のセリフ以外には、1人以上の対象者がいて対話をすることになりますから、実際に話しをするときには、こんなにわかりにくいことはありません。

書いても分かり易くするためには様々な技術を使うことになります。

さきの口語体をわかりやすく書きますと…

○ 「おはようございます」
  (あれ、留守かな)
  「おはようございます」
  (どうも留守らしいな)
  「はい。どなたですか」
  「あ、どうも。おはようございます。失礼します。実は・・・・・」 
  「はぁ?」
  「実は私こういうものなんですが・・・・・」

これならわかりやすいでしょう。

★ここで使われた技術は、次の九種類です。

1)発音通りに書かれているのを、現代口語文の約束に従うカナづかいに改めた。
2)直接話法の部分はカギカッコの中に入れた。
3)独白の部分はマルカッコの中に入れた。
4)句点(マル)で文を切った。
5)段落(改行)を使って、話者の交替を明らかにした。
6)漢字を使って、わかち書きの効果を出した。
7)リーダー(・・・・・)を2カ所で使って、言葉が中途半端であることを示した。
8)疑問符を使って、それが疑問の気持ちを表す文であることを示した。
9)読点(テン)で文を更に区切った。

なんでもないように見えながら九種類もの「技術」が使い分けられているからこそ、わかり易い文章に変化したのです。

1.2. 英文の場合

英文の場合をみてみましょう。

アーネスト=ヘミングウェイ『老人と海』の冒頭

●HewasanoldmanwhofishedaloneinaskifftheGulfStreamandhehadgoneeightyfourdaysnowwithouttakingafish.

なにがなにやら、わかりません。
これを単語にわかち書きしますと…

○He was an old man who fished alone in a skiff the Gulf Stream and he had gone eighty-four day snow without taking a fish.

さらにつきつめて、わけても全部大文字にしますと…

◎HE WAS AN OLD MAN WHO FISHED ALONE IN A SKIFF IN THE GULF STREAM AND HE HAD GONE FIGHTY-FOUR DAYS NOW WITHOUT TAKING A FISH.

これもまた、わかりにくいです。

なぜか?それは大文字がみな同じような形で、そろった大きさだからです。小文字であればoldとかfishedとかgoneとかいうように、上や下に突き出た棒や線があるため、印象が違ってくるからです。このように目で見て違った“絵”が並んでいくほど、パッと一目でわかるようになります。


2.さらっと基本

1)節を先に、句をあとに。

速く走る。
ライトを消して走る。
止まらずに走る。

これを、もし句の「速く」を先にして

速くライトを消して止まらずに走る。

…とすると、なんだか「ライトを消す」ことを「速く」するかのように読まれるおそれがあります。

この場合…

ライトを消して止まらずに速く走る。

…にすると、誤解が少ないです。

2)長い修飾語ほど先に、短いほどあとに。

a)明日はたぶん大雨になるのではないかと私は思った。
b) 私は明日はたぶん大雨になるのではないかと思った。

この二つなら、a)の方がイライラしなくて読めます。

3)大状況・重要内容ほど先に。

a) 初夏の雨がもえる若葉に豊かな潤いを与えた。
b) 豊かな潤いを萌える若葉に初夏の雨が与えた。

この二つなら、b) の座りがとっても悪いです。

4)親和度(なじみ)の強弱による配置転換

初夏のみどりに→もえる若葉が→全体を包む。

これは直列的だが、次のように並列にかかる場合は親和度の強い単語(「みどり」と「もえる」)を遠ざけるようにします。

初夏のみどりが
          →  照り映えた。
もえる夕日に  

つまり「もえる・・・・・」の方を次のように先にするという前述の結論となります。

もえる夕日に初夏のみどりが照り映えた。

3. 文章のお医者様

■外国にはドラマドクターという肩書きの学者さんがいるらしいです
彼は古今東西の戯曲によく通じていて、その知識をもとに新作脚本の病患を指摘し、治療法を教えてくれるらしい。ブロードウェイ辺りではかなり重宝されているそうな。
また、古代中国には文医者なるものが存在したそうです。
乾隆44年(安永8年1779)刊行の『正文典』という書物には文の病として…

軽(ケイ)…重みなし、貫禄不足
俗(ゾク)…趣味がよくない
疎(ソ) …荒っぽく、語の使用法がピント外れ
枯(コ) …魅力がない
尖(セン)…枝葉にこだわり、まとまりがない
晦(カイ)…文意不明
瑣(サ) …こまかくて、こせついている
猥(ワイ)…くどい
浮(フ) …うわすべり
シ乏(ボウ・漢字変換で出てこない。これで勘弁しテクダサイ。さんずいに貧乏のボウ)…漠然としていて今様ではない
略(リャク)…万事に雑で、意味不明
粗(ソ)…はずみがない
月半(バン・これも漢字変換一文字で出ません。月へんに半分の半。)…内容がふたしか
砕(サイ)…話しがあちこち、意味が通らない
冗(ジョウ)…むだ多し
陋(ロウ)…てらっていて、いやしい
浅(セン)…含意にとぼしく、深みなし
渋(ジュウ)…勢いがない
穢(オ)…流露感がない
俚(リ)…下品
排(ハイ)…盛り沢山すぎて、ことばに輝きなし
緩(カン)…しまりがない
巍(ギ)…万事に大袈裟
寛(カン)…だらだら、でれでれ
訐(カン)…強すぎる表現
短(タン)…文章の中心思想に深みがない
散(サン)…散漫
嫩(ドン)…生煮え、不消化


…などが挙げられ、それぞれ対応療法が掲げられているそうです。

いや〜な汗を脇の下のかきます。

…かといって、【これこそ、完璧】な作品を果たして自分自身がお手本として書いたとしても、それは自分の血肉たりえない。

歴代の偉大な作家のなかには「これでもか!」というほど、一文が長い長い作風の方もいらっしゃいますし…。

かといって単純明快な(私も陥りがちな)紋切り型は使い古されてしまっています。

導き出した答は「基本は自分の内面から発する」もののようです。

自己の精神が豊かになればなるほど、自ずと表現方法も変化に富み、自分なりの文章が出来上がるのではないでしょうか。

以上、(あくまでも)ちょろりんと書籍等により抜粋し、改良しておまけに自分の意見までくっつけてみましたが、(あくまでも)モノを書く行為自体、自然発露的なものですので他者から云々言われることもないな…とも思います。

いかがでしょうか〜。



2003年07月04日(金)
USED BOOK考


私の趣味に『読書』がありますが、『本』は意外に生もので(直に廃版になる。)意外に高価なものです。

興味おもむくまま・本能のおもむくままに購入していては、破産しかねません。

近年は幸いにデフレの影響からか、『USED BOOK』(骨董書でない、回し読み感覚の)古本屋さんがしのぎを削っているようです。

各USED BOOKには特徴があって、大抵ゲームソフトや音楽CDと店舗を分かっておりますが、
“ゲームソフト”に強いところ、“USED BOOKでもとりわけ漫画本が充実しているところ”等、様々です。

値段の付け方も様々で、「定価¥500以上の文庫本は、一律¥200。¥500未満のものは¥100」…と、

それがどんなに黄ばんでいても、¥100は¥100だし、¥200は¥200というカテゴライズからはずれることはまずありません。

新品同様のUSED BOOKならまだしも、激しく黄変している本は、損をした気分になります。

それから…

本の価値観の決め方も、店〃よって違うようです。

先日、表日記にチラリと書きました『叶恭子お姉さまの“蜜の味”』というご本は、ある店では定価の半額になっておりますし、私が購入した店では「話のネタにはこれくらいの値段なら惜しくない。」と思いました¥100という価値がつけられていました。

私は、流行の本はほとんど読みません。
その時に感銘を受けても殆ど『馬耳東風』になっちゃうからです。
どうせ『右から左』になるのだったら、USED BOOKになるのに少し待って、その時にどれだけ店頭に並んでいるかによっても、価値判断が出てきますが、その時になって購入しても遅くはありません。
あるいは、どれだけ値段が下がっていても購入しない時もあります。年数が経った後では使い古された内容が手垢に染まってカビ臭く感じることがあるからです。

私は、その内容がとても貴重に思えたら『どんなに変色していようが』『どんなに老朽化していようが』気にはなりません。
文庫本でも骨董ぐらいの価値を感じてしまいます。


以前は時間もお金もありましたから、興味にまかせて新刊が出るたびに物色していたものですが、今は、時間とお金が惜しいと感じるようになりました。

そして、どんなに「買って損した!!」と思える本であっても、1行〜1ページか2ページくらい珠玉の部分があるもんです。

私の場合は、殆どUSED BOOKで購入するものですから、そんな本の処理をする前に、その宝石のページだけ切り取って、捨てます。

血となり肉となって欲しいので、切り取ります。
それが図書館であまり借りない理由です。

切り取らずに、コピーをすれば良い話なのだけれど、
また図書館に返しに行ったり、USED BOOKに売りに行くだけの労力はありません。

切り取ったページはさて、せっかく「切り取られた!」のだから、強く意識に残ります。
折々に取り出して、アイデアプロセッサの表題になったりします。

最近、とりわけ「儲けものをした!!」と感じるUSED BOOKに出会いました。

あるジャーナリストの書いた1982年初版の『作文技術』の本です。

ページが焼けて黄色とベージュのグラデュエーションが気分的に滅入る時もありますが、内容は今のところ私の中のベスト1です。

お料理を作る・家を造る・テレビを作る…といった技術と同じように、文章にも構成する技術があるらしいのです。

…そんなわけで、まずは「できるところから始めよう」と思い、2003年6月19日をもちまして、

表日記は「です・ます調」

裏日記は「で・ある調」

…に分けております。(あんまり意味はないのですけれど…笑)

混ざった文体は読みにくいものですが、「です・ます調」に一文…

ふと「で・ある調」が混ざるという技術は、その思いを際だたせるのに有効です。

後日は『作文の技術』について、少し触れたいと思います。







2003年07月03日(木)
再発

知り合いの癌が再発しました。

昨日は、病院の面会時間が済んでも話をひきずってしまいました。

彼は、平成3年から7年間かけて、兄・父・弟・妹・いとこ 合計7名を亡くしました。老衰・癌・自殺・白血病…。毎年、お葬式を出していた計算です。

平成14年の去年、自分自身の腫瘍を切除しました。
現代医学では、取り切れていなかったガン細胞が活発化してきたようです。

「僕のカウントダウンは始まっている。だけど、年老いた母より先に死ねない。毎年〃、羽をもがれるように肉親を失っていった母をこれ以上苦しめるわけにはいかないんだ!」

(彼の渾身の力を振り絞る魂の叫びは病状さえも悪化させかねない止めてください…。)

私は、母の知人の“メシマコブ”での末期肺ガンからの生還談を話しました。

「なんでも試す。なんでもする。」 彼の意向を受けて、今日は書店でメシマこぶの本を選別しました。

メシマコブはこぶという名称ですが、今、アガリクスよりも免疫力の増加・抗ガン効果がうたわれている菌類です。

日本での培養が上手く行かず、韓国人の博士が母国へ持ち帰ってチャレンジしたところ実を結んだそうです。

インターネットで資料も揃えました。

1)西洋医学のみの治療
2)メシマコブのみの治療

3)西洋医学とメシマコブ併用治療

3番が一番効果があるようです。

勿論、万能ではなく、効果の得られない人もいます。

明日、病室に届ける予定ですが、初のエアーカーテンを施しての癌治療副作用がどれほどのものか、彼は予測ができないと言っていました。

「一分一秒でも長生きしたい!」生への希求が感じられたので、ありとあらゆる神仏に祈りを捧げ、我々でできる限りの治療法を試しましょうネと約束ししてきたんです。

こんな時、繰り返し鳴り響く音楽はカール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』。

運命の女神は微笑んだり冷たくしたり、翻弄する・愚弄する、どれだけ罪を犯してきたのでしょう?どれだけ贖罪すれば済むのでしょう?

私は時々『運命』というものがわからない…どうしてもわからない、ますますわからない…。

空の容器から別の空の容器に内容物を移すように、一見無為におもえるようなつまらなそうな人生を送っている人もいるというのに…
なんのために『運命』は、あるのでしょうか。

私が当人になり得ない限り、当人の痛みを感ずることはできません。
当人になり得たとしても、感じ方はまた違ってくるでしょう。
慰めや同調は、返って苦しみやいらだちをもたらすだけ…。

他人の不幸を「嘆き悲しんでみる」としましょう。
反対にその他人の目を借りて「嘆き悲しんでいる自分」を見てみませんか?

自分の目から見たら「不幸」に思えていた事も他人にしたら『珠玉の経験』かもしれない。

そうなると…
他人の目を借りてみた「嘆き悲しんでいる自分」という存在は、ピエロではないですか?
あるいは「嘆き悲しんでいることを楽しんでいる(自分の経験でないことイイことにを余裕をもって接している)」自分という存在も見えてきませんか?

無意識に…綺麗事やおためごかしで粉飾してしまわないうちに、自分の直感の声に耳を澄ませたいと思っています。