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遠子(桜井都)

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 バカでしょう、と呟いたのは不満だったのか不服だったのか。







「…ねえ、体調管理もプロとしての責任じゃないの?」
「…………………………」
「いくらシーズンが終わってるからって、どうして肺炎になりかけて病院行くまで放っておくの?」
「…………………………」
「普通驚くと思わない? 会社にまで電話掛けてきて『悪いけど俺の部屋から保険証と着替え持って来てくれ』なんて言われるのって」
「…………………………」
「ほんとに悪いわよ。私あのとき何やってたと思う? ねえ仕事中だったの。言ってみれば三上が試合中にいきなり買い物行ってきてって言われたのと同じことでしょう?」
「…………………………」
「聞いてるの」

 とうとう語尾の半音が消えた彼女に、白いベッドの上の三上亮は視線を天井の端に泳がせた。

「…聞いてる。ほんとに悪かった」

 情けない。そんな自己嫌悪に陥りかけて、三上は顔の上に指の長い手を置いた。
 ベッドサイドの椅子には仕事着のスーツのまま駆けつけてきてくれた彼女が座っている。その綺麗な唇から、ためいきがこぼれる気配がした。

「全く、変なところで子供みたいに」
「…悪かったって」
「じゃあもうしないでね。自己管理もちゃんとしなさいよ。いい歳なんだから。二十歳過ぎたら風邪引いたなんて恥ずかしいのよ」

 風邪なんて自己体調管理が出来てない証拠だもの。
 言い切る彼女の凛然とした態度に、三上はつくづく強い女だと思う。

「…だってお前ここんとこウチ来ねえし」
「あのね、二十五にもなる人が『だって』なんて使わないで」
「……………………」

 黙った病人に、彼女は少しだけ雰囲気を和らげて笑った。これ以上追いつめても仕方ないと悟ったのかもしれない。

「それで? 私のせいなの?」
「…ちょい前までずっとお前がウチ来てメシ作ってたじゃん。あれに慣れてたんだよ。んでお前来ねえから、めんどくさくてメシがテキトーになった」

 つい素直に答えてしまうのは熱のせいだろうか。
 点滴の管が繋がる左腕を横目に捉えながら、三上は息を吐いた。黒髪が白い寝具の上に散らばっている。
 実家が料理関係の客商売をやっているせいか、元クラスメイトの料理の技能は三上の親友に勝るとも劣らない。一度それを知って以来、三上の舌は無駄に肥えた。たった一泊の入院ですら病院食に我慢しきれない。

「…なあ」
「なに?」
「退院したら筑前煮食いたい」

 アレ絶品。
 そう繋げた三上に、彼女はあからさまに大きなためいきをついた。

「退院明日の午後でしょう? いきなり筑前煮じゃ消化に悪いから、まずはお粥か雑炊ね」
「なら鯛茶漬けがいい」
「…………………………」

 俺様がお子様になったような男に、彼女が半眼になった。
 やりすぎたか、と三上はとってつけたように笑う。

「あー悪い、冗談」
「…人にさんざん心配させておいてこれだものね。今日が何日だかも忘れてるでしょう?」
「忘れてねえよ。24日、クリスマスイブ」

 予約していたイタリアンレストランはキャンセルになったけどね、と辛辣に彼女は付け加えた。
 仕事で忙しいと言いつつも、夜までには終わらせると約束してくれたことを思い出して三上の胸が痛む。情けない。
 淡々と責めているような口調と言葉の羅列は、それだけ彼女が心配してくれたことを何より明確に示している。焦ると言葉数が多くなる癖は昔と変わっていなかった。
 聖なる夜だというのに、この殺伐とした雰囲気と病院という場所は全部三上のせいだった。

「マジ…悪かった」

 夕食後の薬が効いてきたのか、妙に瞼が重い。
 彼女が今日何度めかのためいきをつくのがわかった。
 その細い手が、寝具の上に投げ出された三上の手にそっと触れる。やわらかい女性の手のぬくもりが伝わってくる。励ますように、いたわるように。
 やさしく、包み込むような微笑みを伴って。

「筑前煮はお正月に作ってあげる。まずは身体治して」
「…ああ」

 メリー・クリスマス。
 大量生産のクリスマス商品ケーキよりも、筑前煮のほうが今すぐ食べたい気分。


2004年12月25日(土)



 

 雪が、ずっと降っていた。









 足元で溶けかけた雪が音を立てていた。
 彼が早足になればなるほど、それに合わせて音の大きさも比例する。乱雑な足取りに服の裾が汚れるのを見て、彼の斜め後ろで彼女はわざとためいきをついた。

「三上」

 薄闇が支配しようとしている夕暮れの街並み。彼女の声は雑踏にかき消されずに彼の耳に届く。黙って歩いていた彼はようやく歩みを遅めた。

「足、大丈夫なの?」
「……………」

 数時間前に捻ったという彼の右足首の痛みはまだ消えていないはずだ。
 歩幅の違う相手をどうにか追いかけながら、彼女はあまり馴染みのない街で声を張り上げる。

「三上、とりあえず一度ホテル戻って」
「…どっかで飯食ってからでいいだろ」

 敗戦の後の彼の機嫌が良かったためしはない。今回も例に漏れない三上に、たまりかねた彼女は腕を掴んで引きとめた。

「話しするときはこっち見て」

 ようやく三上は振り返ったが何も言わない。甘えるなと言ってやりたい気持ちより、慰めたい気持ちが先に立ち彼女は言葉を選びながら口を開く。

「…反省も大事だけど、次のことも大切でしょう? 歩き回らないでゆっくり休んだほうがいいわよ。私は構わないから」
「…誕生日だろ」
「いいから」

 今期最後の遠征になるかもしれない場所に来た時点で、こうなることはある程度覚悟していた。三上の腕を掴んだまま、元来た道を戻り始める。
 試合中ずっと降っていた雪はもう止んでいる。溶けた雪は今晩のうちに今度は氷へと変貌するだろう。

「…雪の試合なんて初めて見たけど、ボールの色がいつもと違うのね」
「…白だと同化するからな。っつーか、高校んときのインハイで雪試合あったぜ?」

 出来るだけ普段通りの口調を心掛けた彼女の努力は、三上にも伝わった。
 言外に「覚えていないのか」と眉をひそめた彼に彼女はやや視線をずらす。

「見てないもの」
「おい」
「そのとき受験だったから。話に聞いただけ」
「…あんときは勝ったんだよ」

 最後の一言は独白に近かった。思い出したように痛む右足首が疎ましく、三上は冷たい夜の空気を肺に吸い込んだ。
 雪が降っていた。あのときも、今日も。

「今年も終わりか」
「…来年もあるわよ」
「また昇格出来なかった」

 戦う者だけが持てる厳しい声。
 彼女が見る三上の横顔は少年期を抜け出た精悍な青年のそれだった。見惚れるほどまではいかないが、かつての少年に彼女はやさしく微笑む。
 彼の努力を手伝うことは出来ない。けれどせめて、いい方向へ転換させる支えにはなりたい。

「…お正月、ゆっくり出来るわね」
「今年も筑前煮な」
「ほんと好きね」

 笑いながら、手を滑らせ相手のむき出しの手に触れる。静かに手が重なった。
 その手の冷たさに三上は驚く。

「なんでこんな手冷たいんだよ」
「ああ、試合中に冷えたみたい。手袋忘れちゃったの」
「んじゃもしかして手袋ナシで試合見てたのか?」
「新幹線遅れたから買ってる暇もなかったのよ。折角こっちまで来たのに、試合途中からじゃ勿体無いでしょう?」
「アホか。女が末端神経冷やすんじゃねえ」

 冬季の現在、野外スタジアムでの観戦は相当冷え込むことは想像に易い。
 事前に膝掛けそのほかの防寒はしっかりして来るようにとしつこく言っておいたが、寒さには強いと豪語する彼女はやはり薄着に近い。
 彼女はベージュのファーコートは外観の都合でマフラーが巻けないのだと自分で言っていたくせに、手袋抜きで二時間以上の野外を乗り切った。驚嘆に値する。

「ほら、そっちの手嵌めてろ。大きくても文句言うなよ」

 変なところで手のかかる女だと心中で三上は思い、自分のコートのポケットから片手の手袋だけを引っ張り出した。繋いだほうの手はお約束通り自分の手ごとポケットに突っ込む。
 ありがとうと言って素直に受け取った彼女が、鞄を持ち直しながら三上の手袋を嵌める。
 それを待ちながら、三上は雪に彩られた中国地方の電飾の街を眺めた。
 有給休暇が取れたら観戦に行くと彼女が言い出したときは冗談かと思ったが、見た目同様実行力のある彼女はさっさと自分ですべて手配を終わらせていた。ホームでの試合すら滅多に観に来ないというのに、どういう風の吹き回しだったのか。
 誕生日だった。彼女の、年に一度の。
 どうせなら勝ち試合で祝いたかったというのに、悪天候に思いきり阻まれた。

「また来年、ね」

 声と同時に見透かした穏やかな笑みが三上を真っ直ぐに捉えた。
 へっと口許を曲げ、三上はわざと顔をしかめた。

「俺の考え読んでんじゃねーよ」
「三上、わかりやすいから」

 少数派の意見だった。今度こそ彼女の歩調に合わせて歩きながら三上は少しだけ笑う。

「んなこと言うのお前ぐらいだろ」

 わかりにくいと言われるのも、ひねくれ者だと笑われるのも慣れている。我ながらどうしようもないと思いつつこの歳まで来てしまった。
 それでもごく稀に、彼女のように理解しようと努力してくれる人間と出会える幸運もあった。

「…なあ」
「なに?」

 呼びかけに応える声。やさしくて愛しい。
 二十数年前、彼女がもし生まれず、出会えないままでいたなら今の自分はどうしていたのだろう。相変わらず屈折した精神を持て余していたかもしれない。
 そして負けた試合の後のささくれた心を癒す存在も知らず、独りで生きていたかもしれない。
 誕生日おめでとう。
 出会ってくれて、ありがとう。
 そんな言葉が言えるはずもなく、三上は仕方なく細い手を痛みを感じない程度の力で握った。

「…何でも」

 言葉にしなければ伝わらないことのほうが世の中には多い。けれど、これだけはきっとわかってくれる。言えない理由と、伝えたい気持ちを理解してくれる人だと信じている。
 彼女は静かに、彼の好きなやさしい笑みを浮かべた。

「そう」

 雪が止んだ夜空に、冬の星座が瞬いていた。






 誕生日おめでとうございます。









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2004年12月18日(土)



 

 輝けぼくらのサンダーバード。










 わたしがその人と出会ったのは大学生の七月の終わりだった。
 暑苦しい東京の夏。彼は一人で、騒がしい街中の歩道橋に佇んでいた。周囲に埋没しそうなほどさりげなく、けれど上手く気配を周囲に馴染ませるようにひそやかに。
 その日わたしは、自分の不甲斐なさが情けなくて泣きそうな日だった。
 眩しい太陽に照らされた寝不足の姿が悔しくて、この世界中で自分に出来ることなんて全くないのだと、言い続けられたらこんな気分になる。そんな思いで、家路を辿っているところだった。
 彼は、そんなわたしの前に突然現れた。
 昨夜テレビの中で見た姿そのままに、戦闘服だけを脱いで。
 事実を認めたとき、わたしの指先が痺れを発した。


「渋沢克朗」


 名前だけが、口からこぼれた。
 夏休みの学生が溢れる繁華街、四季を通じて働く社会人のオフィス街が通りの向こうとこちらで対峙している。そのどちらでもない、真ん中の歩道橋。
 欄干に軽く手を置いて遠くを見る横顔は、不思議と年齢を感じさせなかった。いくつだと言われても納得してしまえる、そんな雰囲気。
 事実彼は、わたしが知る高校生ぐらいの時からあまり顔が変わらない人だった。ただ年齢ごとに精悍さだけを増して、取材のときの穏やかな笑みは何も変えずに。
 いまわたしの目の前にいる『彼』はそのどちらでもなかった。
 竦んだままの足が動いたのは、わたしの意識の外だった。


「待って下さい」


 自分のものとは思えない細い声に、淡い茶の髪が呼応して揺れた。
 横顔が正面を向く。驚いた顔はわたしが初めて目の当たりにした、素のままの『渋沢克朗』だったかもしれない。
 高校時代からずっと名門学校で活躍していた天才ゴールキーパー。
 サッカーなんて全然興味なかったわたしを、あの日あの世界に導いてくれた。
 一度でいい、会ってみたい。十代の頃の願い。
 果たされた夏の日。彼の二十数回目の誕生日だった。


「あの…?」


 戸惑った声に、緊張で息切れさえ起こしそうなわたしは詰め寄った。

「わたし、ずっと好きでした!」

 眩暈を感じながら叫ぶと、思わず体の横で両手でこぶしを作っていた。
 呆気に取られた長身のサッカー選手が、目の前にいる。人生で数度しかないチャンスだと思ったら、気持ちは全部伝えなければ気が済まなかった。

「あ、あの、わたし、武蔵森時代からずっと好きで! いや、あの、っていうか、高校三年生の頃初めて知ったんですけど、それまで全然サッカーとかどうでもよくて、あ、でも今はどうでもいいわけじゃなくて、今はむしろすごく好きで、サッカーがなければ人生半分損してたってよく思います」

 頬の横を滑ってきた髪を、左右とも両手で押さえたらやけに泣きたくなった。
 何を言ってるんだろう。何を言いたいんだろう。こんなこと、本当に伝えたいことじゃない。
 いつもそうだ。わたしは、大事なときに大切なことを上手に言えない馬鹿だ。

「………っ」

 くくく、と喉の奥で笑いをこらえている音がした。
 え、とじんじんしそうな頭を持ち上げてみたら、天然茶髪だと公表している日本屈指のサッカー選手は口元に手を当ててわたしを見ていた。

「ありがとう」

 ふわっと、涼しげに笑う。格好よすぎてわたしは泣きそうだ。

「ごめん、笑って。ええと…俺を知ってる人、でいいのかな」
「………………」

 息を一つ飲み込むことで笑いを引っ込めたその人が、わたしに話しかけていることが信じられなかった。
 だってこの人はサッカー選手で。
 ただのサッカー選手じゃなくて、プロフェッショナルの世界の人で、全日本代表に選ばれちゃう人で、しかも背番号1番の日本サッカーを代表する守護神で。
 スカートから出た足の下、ミュールのかかとがなんだかぐらぐらする。

「そう…です」

 いつも、ずっと、あなたの姿を見てきました。
 そう言う代わりに、左の目からすっと水の感触が頬を滑った。

「…大丈夫?」

 彼は慌てなかった。雑誌やテレビなんかの、大勢に向けられた笑顔じゃなくて、わたしだけに見せる穏やかで心配げな笑み。

「はい…」

 すみません、と言って手で涙を拭うと彼もほっとしたようだった。
 歩道橋を通り過ぎていく何人かの人たちがわたしたちにあまり注目しないのは嬉しかった。泣いたこともそうだけど、有名人がここにいることを誰も知らなければいいと思った。

「ずっと好きでした」

 涙のせいで熱くなった吐息で、わたしはまた繰り返した。

「昨日の試合、すごく良かったです」

 サッカーの戦術とか技術とか、実経験のないわたしにはわからない。けれど、伝わってくる彼の情熱に今みたいに涙がこぼれたことは何度もある。
 現実が辛いとき、傷ついたとき、悲しいときは、いつもこの人の試合を観に行った。

「…わたし、昨日ほんとにやなことがあって」

 何を言っているんだろう迷惑に違いないのに。
 そんなもう一人の自分が制止を掛けるのに止まらないのは、目の前の人以上に大事な人に何も出来なかった昨日の自分のせいだ。だからこんなのは迷惑だ。だけど、どうしても少しだけ話がしたかった。

「すごく自分が情けなくて、嫌になって、死にたくなるほどどうしようもなくて」

 そんなわたしを救ってくれたひと。

「だけど、渋沢さんがピッチで頑張ってるのを見て、すごく…励まされた気がしました」

 外国代表チームの猛攻。凌いで凌いで、凌ぎ続けて、誰もが目を覆いたくなるような危機ですら、その身体と両手で弾き返した守護神。
 頑張れと鼓舞し続けた守護神。
 エールをもらった気がした。
 それは当然気のせいで、わたしのことなんて知るわけないとわかっていたけど。
 でも、この人の情熱はわたしを確かに救ってくれた。


「ありがとう」


 わたしの声じゃなかった。
 長身の彼は、少し歪んだ笑顔を浮かべていた。

「え…?」
「俺も、さっき少し嫌なことがあったんだ」

 少年みたいに無邪気な口調で、彼はわたしに言う。
 真剣なまなざし。意志が強そうな口許。憧れていた。


「ありがとう。俺も、いま君に救われた気がした」


 咄嗟に首を振った。

「わたし、何もしてません」
「そんなことないさ。…辛いときとか、寂しいときに、自分のしたことを良かったって言ってもらえるのは必ずその人の支えになる」

 琥珀の瞳で、彼は強くわたしに言ってくれた。泣いたわたしを哀れんだのかもしれない。けれどわたしはその言葉に、また救われた気がした。
 誰かを救うなんて、簡単に出来ることじゃない。
 だけどわたしはこの人に救われた。この人があの場所で戦い続ける姿に勇気を貰った。陳腐なことかもしれない。けれどそれが真実で。
 わたしはまだ、誰かを助ける資格があるだろうか。

「…いま、また、励ましてもらいました」

 泣き笑いみたいになるのを覚悟して、必死で表情を笑みのかたちに作った。
 だいじょうぶ。まだ、だいじょうぶ。
 この人に会えて話が出来たから、わたしはまだ大丈夫。

「ヒーローみたいですね」
「え?」
「…わたしにとって、渋沢克朗選手はずっとヒーローでした」

 大好きだと胸を張って誇れる。選手としての彼がずっとわたしの心に棲んでいる。

「突然、すみませんでした。…これからも頑張って下さい」

 名残惜しくなんかない。これから先、彼がサッカーを続ける限りいつでも会える。
 突如現れた怪しげな女になるのを覚悟して、わたしは一礼して立ち去りかけた。涙の筋を指先で拭った背に、声が掛かるまで。

「こちらこそ、これからも応援よろしくお願いします」

 礼儀正しい声。嬉しかった。ただ、嬉しかった。
 彼はわたしの中の『渋沢克朗』像を裏切らず、心優しいゴールキーパーでいてくれた。
 それが、わたしと彼、ファンと選手の距離だ。一時すれ違って離れる。
 最後の一言。振り返った。笑う。
 わたしが愛したサッカー選手が、強く微笑んでいた。


「わたしにとって、渋沢克朗は永遠のヒーローです」


 だいじょうぶ。まだ、頑張れる。
 この心にヒーローがいる限り。彼が戦う限り。この記憶が褪せない限り。
 微笑を胸に、わたしの足は夏の空気を切り裂いて、向かうべき場所を行く。
 






 お誕生日おめでとうございます。







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2004年12月10日(金)



 指輪

 波の音がほんのわずか開いた窓から聞こえてきた。
「…そろそろお暇するよ」
「あら、もうお帰りですの?」
 立ち上がりかけたアスランに、ラクスが昔と同じような残念がった声音を向けてきた。
「泊まっていって下さればよろしいのに」
 ねえ、とラクスが微笑みを向ければキラも同じように笑ってうなずく。けれどアスランの顔を見た後のキラはラクスへの説得に回った。
「でも、あそこにカガリ一人残すのも心配だもんね」
「そういうわけでも…ないけど」
 キラの片割れの意地っ張りが移ったのか、素直に肯定はしなかったアスランを、キラとラクスが顔を見合わせて笑う。
「それならば仕方ありませんわね。カガリさんも色々大変な時期ですし…しっかり、支えてあげて下さいね。アスラン」
 綺麗な微笑みに、友を案じての圧力を込めたラクスの表情にアスランは気圧されないよう力を込めてうなずく。
「じゃあ、いま上着をお持ちしますわ」
「すみません、ラクス」
「いいえ、ちょっとキラとお話でもしてお待ち下さいな」
 親友同士の二人を居間に残し、ラクスは続き部屋に行く。
 ハンガーに掛けておいたアスランのジャケットを取り上げると、裾のあたりにわずかな皺が寄っているのを見つける。几帳面な彼らしくない。
 せめて指で伸ばそうと、ラクスがジャケットをさかさまに持ったとき彼の右ポケットから何かがこぼれ落ちた。
 かしゃん、と床の上を硬質なものが叩く音が響く。
「あら…」
 すまないことをしてしまった。慌ててしゃがみ込んだラクスは、薄暗い床の上に手を伸ばす。月明かりを受けて落ちたものがきらりと光った。
 それは、赤い石がついた銀色の指輪だった。
 どう見ても女性の指に似合うべくして作られた指輪だ。
 そうっと自分の手のひらに置いてみたラクスは、なぜこれがアスランのポケットから出てきたのか考え、すぐに一人の金の髪をした友人のことを思い出す。
 鮮やかなあの金の髪に、深い紅の石はとても良く似合うだろう。
 しかしカガリには指輪をつける趣味はなかったはずだ。
 …となれば。
「まぁ…」
 思わず、空いた手を頬に当てる。
 恋愛ごとには不器用なアスランといえども、女性に指輪を贈る行為に浅い意味がないことぐらいわかっているだろう。だからこれは、彼の大切な思いを表したものなのだ。
 見てはいけないものを、見てしまった。
 そう思いながらラクスはアスランのポケットに指輪をそっと戻したが、嬉しさに緩む顔はどうしても我慢しきれない。
(良かったですわね…カガリ)
 彼女を取り巻く事情が、アスランとの仲を簡単に認めようとしないのはラクスも知っている。それゆえに二人が遠ざかってしまわないかと、キラといつも心配している。
 けれどこの指輪は、そんな心配を杞憂だと思わせてくれる。
 良かった、と心からラクスは思う。自分のことではないがたまらなく嬉しい。カガリもきっと喜ぶ。
「…見なかったことに致しますわね、アスラン」
 微笑み、ラクスはアスランの黒いジャケットをそっと撫でる。
 どうか、幸せに。
 一瞬だけ目を伏せ、ラクスはただ彼らの幸福を願った。

2004年12月05日(日)

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