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■ 手紙(笛/笠井竹巳)(未来編)。
繰り返す季節のなかで、いつも空を見上げて願う幸せがある。 自分ではない、大事な友のために。 ずっとずっと、幸せでいて欲しい人たちのために。
ただその未来が、彼らにとって優しいものでありますようにと。
今はもう、そばにいなくとも。
昼休みのざわめく空気は、どんな学校でも変わらない。
「かーさーいーせんせー」
明るく伸ばした声に、笠井は職員室の椅子ごとくるりと振り返る。予想通りの顔が、職員室の入り口で手を振っていた。腕に抱えた譜面が、彼女の用事を表している。手招きすると彼女がにっこりと笑った。 無防備であどけない笑顔。駆け引きをしないその真っ直ぐな視線に、笠井はいつも遠い昔の誰かを思い出す。
「先生、今日帰りいいですか?」
軽やかに制服の裾を翻して歩いてきた少女は、腕のなかの譜面を指差しながら尋ねた。 慣れた頼みごとに、笠井はやや躊躇いながらうなずく。
「いいよ。部活もないし」 「ありがとうございます。あれ、サッカー部今日お休みですか?」 「そう。昨日試合だったからね。今日はお疲れ休み」 「あはは休日出勤も大変ですねー」 「一応顧問だからね」
笠井は思い出した過去と、彼女の言葉に苦笑を見せる。 笠井の母校とは、比べ物にならないぐらい弱い部活サッカー。けれど、在籍する子供たちは本当に楽しそうにやっている。勝つためではなく、楽しむためのサッカー。それも決して悪くない。 ただ、果てた夢の名残を未だ探している自分もいるけれど。
「でも、昨日勝ったって聞きましたけど?」
嬉しそうに、ふんわりと少女は笑う。瞳にあるのは、祝いのものと、笠井への小さな恋慕。笠井も気付かぬほど子供ではない。けれど、それを受けとめられないのも事実だ。 教師と生徒。テレビドラマじゃあるまいし、どうこうなっていい関係ではない。 気付かぬ振りをするのも大人の役目だった。
「勝ったよ。これで地区予選突破決定」
目を逸らして、笠井はわざと自分の机のあたりを片付け始める。それに気付いた少女が、少し寂しげな顔になったのをどうでもいいような素振りをして、素っ気無い態度を装う。 けれど少女もすぐに気を取り直して、明るい声を張り上げた。
「じゃあ次は、武蔵野森ですね!」
強豪と出来るなんてすごいですよ、と無邪気に彼女は笠井が顧問を務める部を賞賛した。小さく、笠井は笑う。目を伏せがちに。
「…そうだね」
本当は、もうあれきりでサッカーから離れるつもりだった。 あの頃の情熱を忘れ、当時の親友たちから離れ、果てた夢を忘れて生きていくつもりだった。
『―――何でだよ! 何でサッカーやめるなんて言うんだよ!!』
激しく責めたてた、親友の声はまだ耳の奥に残っている。 夢を追うためがむしゃらになっていた、あの頃。目の前に立つ教え子の歳と同じだった、過去。 一緒にプロサッカー選手になろうと、夢を誓い合った親友を裏切ったことは、今も笠井の胸に深い傷痕を残している。時間だけでは癒せない傷口は未だ疼いたままだ。
「…先生?」
不思議そうな少女の声で、笠井ははっと思い出の残滓を振り捨てた。
「あ…、ごめん」 「いえ…。あの、これ落ちましたけど」
笠井の机の端から落ちたものを、拾い上げた少女がすっと差し出した。 真っ白い封筒は、何の飾りもないただの封筒だった。伸びやかな男の人の字で、笠井の名と今の住所が書かれている。切手の部分に押された消印の日付はまだ新しい。
「ああ…うん、ありがとう」
受け取りながら、笠井は少女の視線がちらちらと封筒に注がれているのを感じた。気にはなるけれど、訊くのが憚られるのだろう。プライバシーの領域になるから、と。あまり図々しくなりすぎないよう懸命に自分の感情をとどめ様とする少女の健気な態度は、笠井の好感を呼んだ。
「先輩からの手紙なんだ」
このぐらい教えるのは、特別扱いにはならないだろう。そう判断して笠井は言った。言い訳だと、自分でもわかっていたが。 過去は語らない。思い出すことになるから。 そう決めていたのに、少女の面影はいつか好きだった子を思い出し、時折彼女に向かって笠井は学生時代のことを話してしまう。 想いを寄せてくる教え子に、彼女の面影を重ねるのは残酷だとわかっていながら、誰かに言わずにはいられない過去がある。それは語る過去の時間が幸せなものだったと、喜ぶべきなのだろうか。 答えの出ない問いばかり、あの日から何度も笠井は繰り返していた。
「先生の、先輩?」
何も知らない少女が小首をかしげる。その仕草が、かつて笠井が好きだった少女とよく似ていると、彼女の第一印象を笠井は思い出した。
「学生時代の先輩。…すごく、お世話になった人なんだ」 「そうなんですか…」 「今度、結婚するからって」
手紙の字を見つめながら、笠井は曖昧に微笑んだ。 昨日突然届いた手紙は、はっきり言ってとても驚いた。 今の住所はあの当時の知り合いには誰も教えていない。大学卒業前に実家も引越しをして、今の笠井の所在は武蔵野森時代の誰も知らないはずだった。 それなのに、学生時代世話になった先輩はどこからか調べ、手紙を寄越した。 学生時代から抜け目のない人だ。きっと、あちこちに手を回して調べたに違いない。そこまでさせてしまったことと、あれだけ世話になった人にすら近況も知らせていない不義理で笠井は申し訳なくなった。 けれど、あの人とも会いたくないのも事実だった。
サッカーに関わるものすべてから、離れたかった。
『笠井竹巳様』
すんなりと伸びやかな、先輩の文字。あの頃見たものよりずっと大人になった字だった。 渋沢キャプテン、と笠井はその文字を見て呟きたくなる。懐かしい、本当に敬愛していた部長は今もサッカーの世界で光を浴びる場所にいる。 手紙の内容は、一晩の間に暗唱出来るほど繰り返し読んでしまった。
『
久し振り。元気にやっているか? お前のことだから、今もきっと真面目にやっているんだと思う。 クラス会にも出て来ない、って藤代が言ってたのを聞いた。あの頃の皆も、心配してる。たまには連絡ぐらいしろ。そう言う俺も、ちょっと怒ってるけどな。
今回手紙を出したのは、どうしても伝えたいことが出来たからなんだ。 同封した招待状を見ればすぐわかると思うが、結婚することになったんだ。 笠井にも是非出席して欲しい。部長命令はまだ有効だと思うんだが、どうなんだろう。 笠井のあの時の選択が、間違ってたかどうかなんて俺には判断出来ない。でも、今の笠井が幸せならそれでいいんだと思う。人生は自分のために生きるべきだろうから。 でもいきなり消えるのはちょっとフェイントだったな。それだけは怒らせてくれ。次会ったら三上や根岸たちと一緒に説教してやるから、覚悟してろよ。 いろいろあっただろうけど、本当に笠井にも出席して欲しい。結もお前のことずっと心配してる。俺じゃなくていいから、結にはおめでとうって言ってやってくれないか。 俺も結も藤代も、ほかの皆もお前のことずっと待ってるから。
季節の変わり目で体調を崩しやすい時期だから、風邪なんか引かないようにな。 いい返事を待ってる。
200-年6月 渋沢克朗
笠井竹巳様 』
ずるい手紙だ、と笠井は読んでやや苦笑した。 藤代同様に友と恃んでいた、かつてのクラスメイトの名を出され、笠井は少なからず動揺した。あのままの彼と彼女が続いていけば、いずれはそういうことになるのだろうとぼんやりと予測していたが、実際はっきり宣告されると少しだけ切なくなる。 そして、そんな彼女と渋沢が結婚するのなら、行かずにはいられない気分にもなる。 待っている、と彼は書き記した。その言葉が、泣きそうになるぐらい嬉しかった。何も言わずにいきなりいなくなった自分を、彼らはそれでも仲間や友だと思っていてくれるのだと。
けれど――――藤代はどうだろうか。
きっと渋沢の結婚式には、藤代もやって来るだろう。 サッカーをやめ、夢を諦めると告げた笠井を、激しく非難した親友は本当に待ってくれているのだろうか。そう思うとやるせなかった。自分が悪いとわかっている分だけ、会わせる顔がない。 己の感情に正直で、いつも軽快と躍動に満ちた親友は、笠井にとって本当に大事な友だ。過去形ではない。今も、笠井にとって友という名称は藤代のためにあった。 勝手に離れ、いなくなった自分がまだ彼を親友と思っているのは滑稽だった。裏切ったくせに、と自嘲しながらもまだ笠井は藤代に赦されることを望んでいる。
「…先生、行かないんですか?」
あの頃に帰りそうになった笠井の思考を、再び少女の声が阻んだ。譜面を両腕で抱えた仕草と、曇りのない真っ直ぐな瞳。自分の感情を素直に示す声。 澱みを知らない声と瞳は、いつも笠井に藤代と結を思い出させる。
「え?」 「それ、結婚式の招待状じゃないんですか?」
ふと考え込んでいた笠井を不審に思ったのだろう。鋭い洞察は、おそらくいつも笠井を見ているせいだ。
「ああ…そうだね」
行きたいけど、と笠井は彼女に聞こえるかどうかの声で独り言のように呟いた。
「…いいんだ」
そう言うと、笠井は机の引き出しを開けてその奥に手紙を置いた。かしゃんと軽い音を立てながら、引き出しを閉める。
「幸せでいてくれれば、それでいいんだ」
今はもう離れていても。 友と思われていなくても。
あの頃望んだ未来に、今の自分がいなくとも。 幸せに生きていると心底から言えない自分でも。
いつもいつでも願っている。 あの頃の仲間が、友が、多くを分かち合った大事な彼らが、どうか幸せであるようにと。
「だから…いいんだ」
そうして笑った笠井は、少女が何かを思った顔で見つめていることに気付いた。 本当にそれでいいのかと、諭すように責めるように見てくる瞳。やめて欲しいと思うのが自分のエゴだと笠井はわかっていた。少女の特別な視線に、同じものを返してしまいそうな自分がいると、自覚していた。 卑怯だとわかっていながら、応えるのを躊躇った自分。 どうか教師と生徒のままでいさせて欲しいと、自分勝手に彼女の想いを無視し続ける自分を、藤代だったら何と言うだろうか。 逃げ道を求めるように、視線をさまよわせた笠井を少女は何も言わずただ見つめているだけだった。
****************************** 結=渋沢克朗さんの幼馴染みデフォルト名。
2002/8/5 より再録。
2006年07月22日(土)
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