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遠子(桜井都)

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 久々に来る。

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2007年04月29日(日)



 手紙(笛/笠井竹巳)(未来編)。

 繰り返す季節のなかで、いつも空を見上げて願う幸せがある。
 自分ではない、大事な友のために。
 ずっとずっと、幸せでいて欲しい人たちのために。

 ただその未来が、彼らにとって優しいものでありますようにと。


 今はもう、そばにいなくとも。







 昼休みのざわめく空気は、どんな学校でも変わらない。

「かーさーいーせんせー」

 明るく伸ばした声に、笠井は職員室の椅子ごとくるりと振り返る。予想通りの顔が、職員室の入り口で手を振っていた。腕に抱えた譜面が、彼女の用事を表している。手招きすると彼女がにっこりと笑った。
 無防備であどけない笑顔。駆け引きをしないその真っ直ぐな視線に、笠井はいつも遠い昔の誰かを思い出す。

「先生、今日帰りいいですか?」

 軽やかに制服の裾を翻して歩いてきた少女は、腕のなかの譜面を指差しながら尋ねた。
 慣れた頼みごとに、笠井はやや躊躇いながらうなずく。

「いいよ。部活もないし」
「ありがとうございます。あれ、サッカー部今日お休みですか?」
「そう。昨日試合だったからね。今日はお疲れ休み」
「あはは休日出勤も大変ですねー」
「一応顧問だからね」

 笠井は思い出した過去と、彼女の言葉に苦笑を見せる。
 笠井の母校とは、比べ物にならないぐらい弱い部活サッカー。けれど、在籍する子供たちは本当に楽しそうにやっている。勝つためではなく、楽しむためのサッカー。それも決して悪くない。
 ただ、果てた夢の名残を未だ探している自分もいるけれど。

「でも、昨日勝ったって聞きましたけど?」

 嬉しそうに、ふんわりと少女は笑う。瞳にあるのは、祝いのものと、笠井への小さな恋慕。笠井も気付かぬほど子供ではない。けれど、それを受けとめられないのも事実だ。
 教師と生徒。テレビドラマじゃあるまいし、どうこうなっていい関係ではない。
 気付かぬ振りをするのも大人の役目だった。

「勝ったよ。これで地区予選突破決定」

 目を逸らして、笠井はわざと自分の机のあたりを片付け始める。それに気付いた少女が、少し寂しげな顔になったのをどうでもいいような素振りをして、素っ気無い態度を装う。
 けれど少女もすぐに気を取り直して、明るい声を張り上げた。


「じゃあ次は、武蔵野森ですね!」


 強豪と出来るなんてすごいですよ、と無邪気に彼女は笠井が顧問を務める部を賞賛した。小さく、笠井は笑う。目を伏せがちに。

「…そうだね」

 本当は、もうあれきりでサッカーから離れるつもりだった。
 あの頃の情熱を忘れ、当時の親友たちから離れ、果てた夢を忘れて生きていくつもりだった。





『―――何でだよ! 何でサッカーやめるなんて言うんだよ!!』




 激しく責めたてた、親友の声はまだ耳の奥に残っている。
 夢を追うためがむしゃらになっていた、あの頃。目の前に立つ教え子の歳と同じだった、過去。
 一緒にプロサッカー選手になろうと、夢を誓い合った親友を裏切ったことは、今も笠井の胸に深い傷痕を残している。時間だけでは癒せない傷口は未だ疼いたままだ。



「…先生?」



 不思議そうな少女の声で、笠井ははっと思い出の残滓を振り捨てた。

「あ…、ごめん」
「いえ…。あの、これ落ちましたけど」

 笠井の机の端から落ちたものを、拾い上げた少女がすっと差し出した。
 真っ白い封筒は、何の飾りもないただの封筒だった。伸びやかな男の人の字で、笠井の名と今の住所が書かれている。切手の部分に押された消印の日付はまだ新しい。

「ああ…うん、ありがとう」

 受け取りながら、笠井は少女の視線がちらちらと封筒に注がれているのを感じた。気にはなるけれど、訊くのが憚られるのだろう。プライバシーの領域になるから、と。あまり図々しくなりすぎないよう懸命に自分の感情をとどめ様とする少女の健気な態度は、笠井の好感を呼んだ。

「先輩からの手紙なんだ」

 このぐらい教えるのは、特別扱いにはならないだろう。そう判断して笠井は言った。言い訳だと、自分でもわかっていたが。
 過去は語らない。思い出すことになるから。
 そう決めていたのに、少女の面影はいつか好きだった子を思い出し、時折彼女に向かって笠井は学生時代のことを話してしまう。
 想いを寄せてくる教え子に、彼女の面影を重ねるのは残酷だとわかっていながら、誰かに言わずにはいられない過去がある。それは語る過去の時間が幸せなものだったと、喜ぶべきなのだろうか。
 答えの出ない問いばかり、あの日から何度も笠井は繰り返していた。

「先生の、先輩?」

 何も知らない少女が小首をかしげる。その仕草が、かつて笠井が好きだった少女とよく似ていると、彼女の第一印象を笠井は思い出した。

「学生時代の先輩。…すごく、お世話になった人なんだ」
「そうなんですか…」
「今度、結婚するからって」

 手紙の字を見つめながら、笠井は曖昧に微笑んだ。
 昨日突然届いた手紙は、はっきり言ってとても驚いた。
 今の住所はあの当時の知り合いには誰も教えていない。大学卒業前に実家も引越しをして、今の笠井の所在は武蔵野森時代の誰も知らないはずだった。
 それなのに、学生時代世話になった先輩はどこからか調べ、手紙を寄越した。
 学生時代から抜け目のない人だ。きっと、あちこちに手を回して調べたに違いない。そこまでさせてしまったことと、あれだけ世話になった人にすら近況も知らせていない不義理で笠井は申し訳なくなった。
 けれど、あの人とも会いたくないのも事実だった。

 サッカーに関わるものすべてから、離れたかった。


『笠井竹巳様』


 すんなりと伸びやかな、先輩の文字。あの頃見たものよりずっと大人になった字だった。
 渋沢キャプテン、と笠井はその文字を見て呟きたくなる。懐かしい、本当に敬愛していた部長は今もサッカーの世界で光を浴びる場所にいる。
 手紙の内容は、一晩の間に暗唱出来るほど繰り返し読んでしまった。






 久し振り。元気にやっているか?
 お前のことだから、今もきっと真面目にやっているんだと思う。
 クラス会にも出て来ない、って藤代が言ってたのを聞いた。あの頃の皆も、心配してる。たまには連絡ぐらいしろ。そう言う俺も、ちょっと怒ってるけどな。

 今回手紙を出したのは、どうしても伝えたいことが出来たからなんだ。
 同封した招待状を見ればすぐわかると思うが、結婚することになったんだ。
 笠井にも是非出席して欲しい。部長命令はまだ有効だと思うんだが、どうなんだろう。
 笠井のあの時の選択が、間違ってたかどうかなんて俺には判断出来ない。でも、今の笠井が幸せならそれでいいんだと思う。人生は自分のために生きるべきだろうから。
 でもいきなり消えるのはちょっとフェイントだったな。それだけは怒らせてくれ。次会ったら三上や根岸たちと一緒に説教してやるから、覚悟してろよ。
 いろいろあっただろうけど、本当に笠井にも出席して欲しい。結もお前のことずっと心配してる。俺じゃなくていいから、結にはおめでとうって言ってやってくれないか。
 俺も結も藤代も、ほかの皆もお前のことずっと待ってるから。

 季節の変わり目で体調を崩しやすい時期だから、風邪なんか引かないようにな。
 いい返事を待ってる。


              200-年6月    渋沢克朗

 笠井竹巳様                         』



 ずるい手紙だ、と笠井は読んでやや苦笑した。
 藤代同様に友と恃んでいた、かつてのクラスメイトの名を出され、笠井は少なからず動揺した。あのままの彼と彼女が続いていけば、いずれはそういうことになるのだろうとぼんやりと予測していたが、実際はっきり宣告されると少しだけ切なくなる。
 そして、そんな彼女と渋沢が結婚するのなら、行かずにはいられない気分にもなる。
 待っている、と彼は書き記した。その言葉が、泣きそうになるぐらい嬉しかった。何も言わずにいきなりいなくなった自分を、彼らはそれでも仲間や友だと思っていてくれるのだと。


 けれど――――藤代はどうだろうか。


 きっと渋沢の結婚式には、藤代もやって来るだろう。
 サッカーをやめ、夢を諦めると告げた笠井を、激しく非難した親友は本当に待ってくれているのだろうか。そう思うとやるせなかった。自分が悪いとわかっている分だけ、会わせる顔がない。
 己の感情に正直で、いつも軽快と躍動に満ちた親友は、笠井にとって本当に大事な友だ。過去形ではない。今も、笠井にとって友という名称は藤代のためにあった。
 勝手に離れ、いなくなった自分がまだ彼を親友と思っているのは滑稽だった。裏切ったくせに、と自嘲しながらもまだ笠井は藤代に赦されることを望んでいる。


「…先生、行かないんですか?」


 あの頃に帰りそうになった笠井の思考を、再び少女の声が阻んだ。譜面を両腕で抱えた仕草と、曇りのない真っ直ぐな瞳。自分の感情を素直に示す声。
 澱みを知らない声と瞳は、いつも笠井に藤代と結を思い出させる。

「え?」
「それ、結婚式の招待状じゃないんですか?」

 ふと考え込んでいた笠井を不審に思ったのだろう。鋭い洞察は、おそらくいつも笠井を見ているせいだ。

「ああ…そうだね」

 行きたいけど、と笠井は彼女に聞こえるかどうかの声で独り言のように呟いた。

「…いいんだ」

 そう言うと、笠井は机の引き出しを開けてその奥に手紙を置いた。かしゃんと軽い音を立てながら、引き出しを閉める。


「幸せでいてくれれば、それでいいんだ」


 今はもう離れていても。
 友と思われていなくても。

 あの頃望んだ未来に、今の自分がいなくとも。
 幸せに生きていると心底から言えない自分でも。

 いつもいつでも願っている。
 あの頃の仲間が、友が、多くを分かち合った大事な彼らが、どうか幸せであるようにと。


「だから…いいんだ」


 そうして笑った笠井は、少女が何かを思った顔で見つめていることに気付いた。
 本当にそれでいいのかと、諭すように責めるように見てくる瞳。やめて欲しいと思うのが自分のエゴだと笠井はわかっていた。少女の特別な視線に、同じものを返してしまいそうな自分がいると、自覚していた。
 卑怯だとわかっていながら、応えるのを躊躇った自分。
 どうか教師と生徒のままでいさせて欲しいと、自分勝手に彼女の想いを無視し続ける自分を、藤代だったら何と言うだろうか。
 逃げ道を求めるように、視線をさまよわせた笠井を少女は何も言わずただ見つめているだけだった。




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 結=渋沢克朗さんの幼馴染みデフォルト名。

 2002/8/5 より再録。

2006年07月22日(土)



 節分松葉寮。

 生死与奪の権利はどこにあるか。










 二月三日、朝から渋沢克朗は一冊のファイルを前に悩んでいた。
 部活引退後の朝は遅い。午後の練習には高等部のものに参加することになっているが、朝練習は引退してから卒業までは消滅するのが慣例だ。そのために以前ならばとうにグラウンドに行っているはずの時間も寮内で過ごしていられる。

「…どうするかな」

 人気のない階段に腰掛け、すでに幾度も読み返したファイルを開く。
 ア行からの名前が紙面の上から順に連なるそれは、総勢五十名を優に超える武蔵森学園中等部男子サッカー部の今年度の名簿だ。三年の浅井から始まり、一年の渡辺で終わる。
 この日、前年度部長の彼には一つの役目があった。それを補助するのがこのファイルだ。

「……どうしよう」

 同じことを先ほどから独りで繰り返し、ファイルを閉じてはまた開く。
 渋沢がうつむくと、淡い茶をした前髪が視界の隅に引っかかる。その合間で眉間に皺が寄るのが自分でもわかっていたが、やめられそうになかった。

「浅井、安部、安西、伊藤…」

 名簿の上から読み上げてみるが、思い浮かぶ顔がどうしても決定打にならない。

「参った」

 お手上げだ。
 そう思いながら、とうとう渋沢は膝の上のファイルに額を押しつけた。

「おーい渋沢ー」

 二階から三階へ繋がる場所にいた渋沢のほうに、階下からの足音が聞こえてきた。
 渋々顔を上げると、声からの予測通り同学年の中西が踊り場から顔を出した。

「決まったか?」
「いや…」
「三上が食堂ですげーイライラしてんぞ。早く決めろよ」
「じゃあお前でいいか?」
「嫌だ」

 即座に断られ、渋沢はファイルの上に頬杖を突きながら中西を軽く睨む。

「なあ、ジャンケンじゃダメなのか?」
「んなこと言ってもなぁ。代々部長が決めるのが慣わしってヤツだろ。ここでジャンケンで決めると、後で高等部に知られたらマズくね?」

 運動部の縦関係は厳しい上に古典的だ。大所帯になればなるほど秩序を重んじ伝統を尊ぶ。去年やったことは今年もその通りやれ、というのが暗黙のルールだ。
 わかってはいるが、と渋沢は毎度の肩書きを少し恨んだ。

「…節分の鬼なんて、やりたがる奴は滅多にいないからなぁ…」

 本日の渋沢克朗の使命、それは節分における豆まきの鬼役を指名することだった。
 寮生活ではとかく節句ものがクローズアップされる傾向がある。例をいくつか挙げるなら、五月の節句には松葉寮の風呂は菖蒲湯になり夕食に柏餅がつき、土用の丑の日にはうなぎ、冬至にはゆず湯となる。寮生たちはそうやって季節を体感しているのだが、当然のように二月の節分も怠らない。
 本来節分とは立春の前日だけではなく、立夏、立秋、立冬の前日それぞれを指す語彙だったが、今では二月三日の立春の前日だけを節分と呼ぶようになっている。その日に災厄を払い、福を呼び込む儀式として豆を撒くわけだが、松葉寮では毎年鬼役を立てることになっていた。

「本当なら朝には言わなきゃならないんだからな」
「わかってる」

 珍しく期限を破った渋沢に、中西は同情するような笑みを浮かべた。

「お前もさ、そんな生真面目に考えなくてもいいからさ、パッパっと適当な奴に」
「三上か?」
「あー奴は半分予測してるぜ。今ごろ必死で心の準備してるだろ」

 ありゃ見物だ、と笑う中西を見て、渋沢は額に手を当てた。
 松葉寮の豆まきは豪快である。というより、豆を撒くというより鬼にぶち当てると言ったほうが正しい。階級学年関係なく、その一瞬だけは鬼役に向かって日頃の鬱憤が張らせる。
 あまりに盛大にまきすぎると後で掃除が大変だが、そんなことは後で考えればいいとあの一瞬誰もが思うことは渋沢も中西もよく知っていた。

「三上だと…あまりに奴が憐れだ」
「そりゃそうだ」

 ここぞとばかりにあの炒った大豆という武器を向けられるに違いない。
 そのあたりが鬼役の人選の難しさにある。あまり性格的に難のある人間にすると、現場は強烈なイジメの舞台に変貌する。三上は三上で司令塔として君臨してきた実績はあるが、一度彼に思いきり物を投げたいと思う人間は少なくない。
 いっそ自分がやれば楽だと渋沢は考えているが、それも慣例として部長職にある人間は鬼役になれないのだ。不思議な運動部の不文律がそこにある。
 そこそこに人望があり、強烈な豆当てを容赦される人格と、そこそこにその不条理を受け流してしまえる者、というと人数多きサッカー部といえども限りがある。

「藤代は?」
「あいつは去年やっただろう。二年連続は可哀想だ」

 今年こそ俺にも豆まくほうやらせて下さいね! と念を押しに来た藤代を思い出し、渋沢はまた名簿のファイルを開いた。こんなに人数がいるというのに、条件に合致する人間はなぜいないのだろう。
 ア行から延々と頭の中でマルバツをつけながら進んでいった渋沢の視線が、二年生の真ん中過ぎで止まった。

「……間宮、っていうのはどうだろう?」
「おお、いいんじゃね? っつーか俺でなきゃ誰でもいい」
「…だが、今年で間宮を使うと来年の部長が困るな」
「…………」

 役の過酷さを慮ると、連続でその役目に就かせることにでもなればあまりに非情すぎる。
 自分の意見にダメ出しをした元部長に中西が呆れたように口を変な形にした。

「おいおい渋沢ー、来年に気遣ってどうするんだよ」
「だがなぁ…」
「そんなこと言ってたら夕方までに決まんないだろー。じゃ間宮で決定! 俺ほかのに知らせてくるから!」
「待て。別のにする」

 渋沢は手を伸ばし、中西を止めた。腕を掴まれた中西が嫌そうな顔で振り返る。

「あのー、渋沢サン?」
「お前がいい。お前がやれ」
「ば、馬鹿言うなぁ!! ヤだねヤだよ俺は嫌だ!」
「お前なら他の奴らにも恨みは少ないし、適当に身長もあるから的にしやすい。ちょうどいいだろ」
「よかないし!」

 叫びながら頭を抱えた中西だったが、渋沢はむしろ解放された気持ちになっていた。悩みが解決された人間の雰囲気を漂わせ、彼は立ち上がる。手にしたファイルはもう要らない。

「お、おい渋沢頼むよマジで!」
「中西」

 これ以上俺を煩わせるな。
 そんな気持ちで、渋沢はにこやかに笑って彼の肩を叩いた。

「元部長命令だ」

 いい言葉だと珍しく特権を意識しながら、渋沢は食堂のほうへ歩き出した。

「…お前が一番鬼だーッ!!」

 今日の夕方の苦行を想定したのか、涙混じりの叫びを渋沢は背中で受け流す。
 何を今更、という感想が渋沢の本心だった。
 鬼役になった者は以後二度とやりたくないと言うのが常だ。そんな人選の決定権を持つ者が最も鬼に近いに決まっている。

「健闘を祈る」
「祈るなぁ!」

 喚いた中西の声はひたすら寮中に響き渡り、同時刻食堂にいた三上が心底から安堵しているだろうことを、渋沢は晴れ晴れとした気分で想像した。







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2005年02月06日(日)

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