以前から、心の一部を占めていた疑問があります。
★『善人ほど早く死ぬ』という説が正しいとすると生き残っている者は悪人ばかりか?
…という似たような疑問が最近読み終えた本の、ほぼ導入部に書かれてあったので、思わず吹き出してしまいました。自分自身のことを悪人と定義すれば悪人に違いないと思ったからです。しかし、私の亡父のように、他人には親切でも家族には暴君であったことも鑑みると、どれもこれも定説とは決めがたい… 生きている人間の印象が各個人によって違うように、記憶の中の故人は関わった人それぞれに持っている思い出が違うからです。
読み終えた本は、裏日記の11月11日に書きました『老子の教え』を抜粋して載せてある本のことです。
1996年が第一刷発行だから、実に8年間も私の好奇心をそらさないでいてくれたこの本は、先週の日曜日に、古本屋の棚からそれ相応の値段で買い受けられてきました。
後書きまで入れると676ページにも及ぶ。ソフィーの世界が662ページだから、同じくらいかな。副題に“死後の世界への航行”とあるから、チベット“死者の書”(余談だがエジプトにも死者の書がある。)のたぐいなんだろうか、それにしてもぶあつーい本の嵩に圧倒されるし、お値段もはります。
11月4日の零時前、今しばらくは会えない世界へ旅立たれた彼の所在というか彼の行方の、少しでもヒントが欲しかったのです。 この本は、世界の古今の神話や宗教・哲学・生物学・天文学にまで死を探求している、そういう面ではグローバルな内容でした。 実に多くの死生観を研究してある印象で、そんなに荒唐無稽ではないのでは?と思います。
「死」は遅かれ早かれ着実に私にもやってくる。
若かりし頃、「私はいつまでも20歳で居て、歳はとらないわよ。」 これはおろかというより、漠然としていて自分の老化が想像できなかった頃…ミニスカートをはいて冷えも苦痛も感じなく…今現在『冷え性』(つまりは老化と言うこと)という現実を突きつけられて愕然としているように、いつかいきなり「死」がやってきて、死んだことさえ気づかないようにならないためにも(自分自身のためにも)予備知識としていれておこうと思ったのも一因です。
今回、思いもかけず、うろたえるような出来事が起こって、皆さんにご心配とご迷惑をおかけしたことをお詫びします。ごめんなさいね…。
読書や工作や日常を忙しくしているにつれ平静さも戻ってきて、今は泣かなくなりました。 (また「めそめそするのは本意ではない。」と彼も言うているような気もします。) 互いに、意識して深入りはしなかった面もあるし、すでに多くの死生観を述べ合いました。 癌が再発した時から、徐々に覚悟はできつつあったんです。
実は、大腸癌切除から1年後に再発した彼とのお別れに先んじて、近年予想されるであろう歯医者のじぃちゃん先生とのお別れに、自分なりに得た情報により考えをまとめ、それを精神安定剤代わりになでさすっているのが現状です。
アインシュタインの相対性理論が正しいとすると、我々の意識は時空を簡単に超える。 遡ることも先へ進むことも可能だ。 肉体を魂の容器と考えると、物理的な死は次の容器へ入れかえるがための手段と言えよう。 それらの説は横へ置いておいて…
この本によると輪廻転生には面白い説があって人は生まれ変わらずにすむ最高位の魂を得るために12星座分×12回=144回 体現しないとならないとされている。 …というのは最低限の数で殆どの存在が144回の輪廻転生では足りない。仏陀は悟りをひらくまで、500回転生している。 一般人の私においては1000〜2000回。その2000回のうちの今は何回目の「人生」なのだろうか。
1895回目くらいならがんばれそうだが、123回目とか14回目とかなら泣きそうでしょう?(笑)
で、相対性理論に戻るわけですが 一説によると、一個人の生は(2000回あるとすると)例えば1回目から始めてもよいし、1999回目から始めても良いらしいのです。 …ということは、メビウスの輪のようになっている生死はどこで終わりがくるんだろうね?(笑) まぁ、魂の純度が高まって、生死を繰り返す必要が無くなった時に、終わるんでしょうけれども…。
最終的に得た結論は1つの人生においては…
例えば、ガン細胞 例えば、糖尿病の遺伝子 例えば、花粉症 例えば、親を殺す子供
時限爆弾のようにすでに体内でカウントダウンが始まっていて、ある日、作動する。のではないかな?ということです。
★作動が止まる人はどういった人か?→病気に打ち勝った人だ。
その病気に打ち勝つことも、すでにプログラムされているのでは?
★寸でのところで、親を殺めずにすんだ子供は?
寸でのところで、親を殺めずにすむようプログラミングされているのでは?
寿命というものがすでに定められているのをおぼろげに感知している人は精一杯にその範囲で、他者に尽くすことをするのではないかな?ということです。
反対に寿命が長い寿命が決定づけられている人は、ある程度余裕を持って自分の目的をこなせるということになります?意識するとしないにかかわらず…。
ありがちと言えばありがちな意識改革が私の上にも起こりまして… 最近は、『後回し』にする事柄を意識して減らすようにしています。
いつなんどき通勤電車が横転するかもしれないから、家や会社の恥ずかしい収納物等を整理しとかなきゃ…と思うのに、相変わらず、とっちらかっているなぁ…。(笑) ☆あれだけは処分しなきゃ!( ̄Θ ̄;) という物品は、皆さん、何個ぐらいお持ちなんでしょう。 私は、私のミイラや骸骨やコウモリを、一緒に棺に入れて欲しいなあ…。(爆)
後回しにしないということは、今、使えるモノは使い切ってしまうということで、 スーパーの(期限のもうけられていない)金券は、今までなら、「給料前の財布の中身が乏しい時」に使っていたのですが、もう、ストックする気分でもなくなってきた明日をも知れぬ我が身かも知れないじゃないですか…。 「機会があればプレゼントしよう♪」と決めていた物品も「さぁ、貰ってくれ!すぐに貰ってくれ!!今が今生の別れかも知れぬ。」と押しつけてしまっています。(笑)
押し売りされた側が「これは私の趣味じゃない。」と他者にまわしても、フリーマーケットで売っぱらっても、あるいは捨ててしまっても、それはそれで、仕方のないことだと思っています。 これは、私自身の「あげたい欲求。」を満足させるがためのエゴの産物でもあるのですから。
ぁあ、誰かが誰かに○月○日○時○分 「○○をプレゼントする。」という行為もプログラミングされているのでは?
『たられば思考』ならぬ、『ではかな?思考』にとらわれている私です。(笑)
例えば私の亡父を例にあげるなら(父ちゃん、例にあげちゃって、ごめんよ。)
★ あれだけ大酒を飲まなかったら とか ★ お酒だけではなく ごはんもきちんと食べていたら とか ★ たまには休肝日をもうけていたら とか
それこそ、種々の「たら・れば」によって、故人の人生に執着してしまうわけです。 個人の人生は個人のものであると同時に家族のものであり取り巻く友人や周囲の環境のものでもあると思いますね。 そんな風に魂というものは、複雑に交差しているからつかみにくい。
人が亡くなった後でないと見えなかったことや、逆には亡くなることによって見えなくなってしまったこともあるでしょう。仕方ないかな、どこかでバランスシートの帳尻は合うようになっているんでしょう。
ちょっと脱線しちゃうけど、食べ物をたくさん食べ過ぎてしまい「そんなに食べなけ“れば”太らないのに。」と、理屈ではわかっていても誘惑には打ち勝ちがたいのは、これは、遺伝子が…プログラムされている体内時計が自動的に作動し、必然、肥満への道を歩むことになるんかいな?なんてことも時々思います、最近、シフォンケーキやチーズケーキが食べたくってしようがないんですよ。黒飴ばっかりなめていますよ。しかも、ピーナッツが入ってなければいやですよ。疲れているのかなぁ…。^^;
ビタミン剤を含むサプリメント等の栄養補助剤…を意識して接種し、 しめしめ…病を寄せつけずに済んだぞ♪と、ラッキーな気分にひたっている私自身は、道化かも知れないですね。 そんな真摯な道化がいたってええじゃないかと開き直ってもみたり…。(笑)
とにかく…
今生をきっちりと全うし… 生きている限りは「何か面白いこと」を求めてさすらうことになると思います。
馬注射の次にまた何か面白いことが降ってきそうな予感がして、 息をひそめて待ってるのです…。
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