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HELEN&HEAVEN
Helen
MAIL

2002年10月16日(水)
さよならなんて言わないで <Never say good bye >

小学生の頃、通っていた英語塾では、元来教師だった人がリタイヤしたあと、自宅で小中学生を相手に、細々と教えていた。

そこは(今は亡き)父も通っていたところで、武田先生と仰る先生は、私が通う頃にはもう正真正銘のおじいちゃん先生になられていた。

ちょっとした文法や英会話を習っていたはずだが、ほとんど憶えていない。^^;
印象に残っているのはただひとつ、「単語当てゲーム」だ。

麻雀パイぐらいの大きさのブロックに各々アルファベットの頭文字が一つずつ書いてある。

先生のご自宅は古きゆかしい日本家屋で、室内もやたら木の柱が多く、教わっていた部屋も時代劇の寺子屋のような風情であった。

武田先生は、ニワトリの足のような節くれ立った細い指先で、裏向きにしたブロックを丹念にかき混ぜる・・・。

おもむろに一つを取り上げひっくり返し、そのアルファベット一文字で始まる単語を仰るのだ。

例えば、“A”なら、「Apple」。

すると、すかさず解る生徒が「りんごっ!」と応える。

息詰まる瞬間、真剣勝負だ。

先生は、「コレクト!」だか、「ブラボー!」だか、詳細は忘れてしまったが、生徒の自尊心をくすぐってくださる。

...が、その恩恵に預かることのできるのは、学習能力のついている小学生高学年から中学生の一握の生徒に限られている。

低学年の私は、頭のなかで英語→日本語への変換のシナプスがまだ発達していなかったせいか、ぼぉとしているうちに、次の勝負がはじまってしまっていることの繰り返し・・・。出遅れてばっかりだった。

可哀相に思った心優しき先生は、ときどき、唯一、私が即答できる単語を仰ってくださった。

「Green」 

これは、先生の、くちびるがトリのくちばしのようにきゅーぅとすぼまり、「さぁ、今から“G”を発音しますよ。」の形になるから、視覚でわかるんだ。

小学生数年間、あまりにも『ミドリ』を言い過ぎたので、随分長い間、緑色の物を持つのも着るのもいやだった。

緑色は元来安定を示す色、波風立たぬ穏やかな家庭に憧れていた幼少時だったが、長ずるにつれ、アグレッシブに生きたいと思うようになってきた。

無い物ねだりをするのは人間の常であろうが、わがままも入っているのでは?とも思う。未だに、緑色が苦手だけれども、少しずつでも取り入れられるようになってきた。


武田先生は痩せて鶏ガラのような風情で丹前の背筋をいつも凛と伸ばされていた。
どの生徒にも公平で、叱るときは叱り、ただし愛情をもって接してくださっていたせいか、不快な思い出は何一つ無い。

中学生になって本格的にY○CA英語学院に通うようになって、そこの寺子屋風英語塾は卒業したが、その頃から、老師は衰弱していかれたようだ。

ときおり、ご自宅周辺を杖をつきつき散歩される姿をお見受けした。
わたしも、子供から大人の身体へ変わっていく途上だったし、もう、こちらの姿を認めても私だと言うことを認識してくださらないようになってきた。

先生の眼は、いつでもどこかうつろで遠くを見ていらっしゃった。

川沿いの桜並木に、かげろうのようにユラユラ後ろ姿が吸い込まれていく。

毎年浮き足だってそわそわとした気持ちになれる桜の木なのに、その時の桜だけは、やけに哀しく記憶に残ってしまった。
あれから何回あの桜並木を見ただろう、もう、武田先生はこの世には居ない・・・。

遅かれ早かれ人間は確実に死ぬ・・・。

武田先生のように、この世に居ながらにして意識はあの世を往復しだんだんとこの世の我々との意思の疎通ができなくなってくるのならあきらめもつくのだろうか・・・。

先週末、歯医者のジィちゃん先生から、いよいよ引退して東京のご子息と同居すると連絡があった。予定日は、この10月の20日。

転居届の宛名書きを、最後の仕事を、この私にしろと残酷なことを電話で言ってよこした。

しぶしぶ出向いて、

・転居があまりにも急過ぎること
・淋しくていたたまれないこと
・これから先、誰に哲学を教わったらいいのか

ぐずぐずと、恨み辛みを述べていたら、

「引っ越しな、もうちょっと先や。(∂∂)ケロッ」と仰るの。

(; ̄Д ̄)なんじゃと!?


喜んでいいのか?怒っていいのか?

引っ越しが延期になった理由は、

・二世帯住宅が(精神的に)難しそうであること
・アルカイダの攻撃がだんだん日本に近づいてきていること
(日本ならまず東京をやられるだろうとの予測。)

アルカイダの攻撃は、平和ボケしている私にとっては、全然実感は湧かないけれど、

ジィちゃん先生の奥様が「東京には友達が一人も居ない。」
って仰っていらっしゃるので、まず、奥様の方が先に逝かれてしまうかもしれない。病気なのでそうそう出歩けないしね・・・。

かと言って、いつまでも老夫婦二人だけで、京都に残っているわけにはいかない。

「わしの歳から(82歳)やったら、もう、10年くらいしか生きられへんやろう・・・。」

それが現実だね。

そうすると、この10年の間に、永遠にお別れの日が来る。

10年というと、長いようできっと短いんだろうなぁ。

このままジィちゃん先生が京都に居て、私のことを認識できなくなるのを目の当たりにしていくことと、

達者なうちの姿だけを残して、東京に転居されることと、

どちらが私にとって辛くないか・・・なんて、自分本位にずっと思い煩っている。

それほどまでに私の思想に色濃く影響を残してしまった。

政治・経済・哲学・古典・・・カセットテープから、あるいは新聞の切り抜きから、指示されるまま文書をワープロで清書した。
清書のコピーは全て持っているから、今、慌てて読み返している。

何か教わり『漏れ』は、無いのか・・・?

方位磁石の欠損を何で埋めようか、焦りだけが募ってくる。

月日はいやおうなく流れていくし、「今という時を大切に過ごさないと、後になって後悔しますよ。」と先人はくどくひつこく仰ってくださる。

そうだなぁ。
もっと、明るく前向きに・・・ということで、

履歴書を作ってみた。

インターネットのWEBサイトには、データを入力して更新すると、あっけなく履歴書が作成できてしまうところがあるのです。勿論、画像の貼り付けも可能だ。

今日、歯医者のジィちゃん先生に持っていく。

この履歴書がジィちゃん先生の手から、誰の手に渡るのか、実は知らない。

医者には守秘義務があるからね。(教えてくれない。)

戻ってきても来なくても、それはそれで運命でしょうと思う。