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輝けぼくらのサンダーバード。
わたしがその人と出会ったのは大学生の七月の終わりだった。 暑苦しい東京の夏。彼は一人で、騒がしい街中の歩道橋に佇んでいた。周囲に埋没しそうなほどさりげなく、けれど上手く気配を周囲に馴染ませるようにひそやかに。 その日わたしは、自分の不甲斐なさが情けなくて泣きそうな日だった。 眩しい太陽に照らされた寝不足の姿が悔しくて、この世界中で自分に出来ることなんて全くないのだと、言い続けられたらこんな気分になる。そんな思いで、家路を辿っているところだった。 彼は、そんなわたしの前に突然現れた。 昨夜テレビの中で見た姿そのままに、戦闘服だけを脱いで。 事実を認めたとき、わたしの指先が痺れを発した。
「渋沢克朗」
名前だけが、口からこぼれた。 夏休みの学生が溢れる繁華街、四季を通じて働く社会人のオフィス街が通りの向こうとこちらで対峙している。そのどちらでもない、真ん中の歩道橋。 欄干に軽く手を置いて遠くを見る横顔は、不思議と年齢を感じさせなかった。いくつだと言われても納得してしまえる、そんな雰囲気。 事実彼は、わたしが知る高校生ぐらいの時からあまり顔が変わらない人だった。ただ年齢ごとに精悍さだけを増して、取材のときの穏やかな笑みは何も変えずに。 いまわたしの目の前にいる『彼』はそのどちらでもなかった。 竦んだままの足が動いたのは、わたしの意識の外だった。
「待って下さい」
自分のものとは思えない細い声に、淡い茶の髪が呼応して揺れた。 横顔が正面を向く。驚いた顔はわたしが初めて目の当たりにした、素のままの『渋沢克朗』だったかもしれない。 高校時代からずっと名門学校で活躍していた天才ゴールキーパー。 サッカーなんて全然興味なかったわたしを、あの日あの世界に導いてくれた。 一度でいい、会ってみたい。十代の頃の願い。 果たされた夏の日。彼の二十数回目の誕生日だった。
「あの…?」
戸惑った声に、緊張で息切れさえ起こしそうなわたしは詰め寄った。
「わたし、ずっと好きでした!」
眩暈を感じながら叫ぶと、思わず体の横で両手でこぶしを作っていた。 呆気に取られた長身のサッカー選手が、目の前にいる。人生で数度しかないチャンスだと思ったら、気持ちは全部伝えなければ気が済まなかった。
「あ、あの、わたし、武蔵森時代からずっと好きで! いや、あの、っていうか、高校三年生の頃初めて知ったんですけど、それまで全然サッカーとかどうでもよくて、あ、でも今はどうでもいいわけじゃなくて、今はむしろすごく好きで、サッカーがなければ人生半分損してたってよく思います」
頬の横を滑ってきた髪を、左右とも両手で押さえたらやけに泣きたくなった。 何を言ってるんだろう。何を言いたいんだろう。こんなこと、本当に伝えたいことじゃない。 いつもそうだ。わたしは、大事なときに大切なことを上手に言えない馬鹿だ。
「………っ」
くくく、と喉の奥で笑いをこらえている音がした。 え、とじんじんしそうな頭を持ち上げてみたら、天然茶髪だと公表している日本屈指のサッカー選手は口元に手を当ててわたしを見ていた。
「ありがとう」
ふわっと、涼しげに笑う。格好よすぎてわたしは泣きそうだ。
「ごめん、笑って。ええと…俺を知ってる人、でいいのかな」 「………………」
息を一つ飲み込むことで笑いを引っ込めたその人が、わたしに話しかけていることが信じられなかった。 だってこの人はサッカー選手で。 ただのサッカー選手じゃなくて、プロフェッショナルの世界の人で、全日本代表に選ばれちゃう人で、しかも背番号1番の日本サッカーを代表する守護神で。 スカートから出た足の下、ミュールのかかとがなんだかぐらぐらする。
「そう…です」
いつも、ずっと、あなたの姿を見てきました。 そう言う代わりに、左の目からすっと水の感触が頬を滑った。
「…大丈夫?」
彼は慌てなかった。雑誌やテレビなんかの、大勢に向けられた笑顔じゃなくて、わたしだけに見せる穏やかで心配げな笑み。
「はい…」
すみません、と言って手で涙を拭うと彼もほっとしたようだった。 歩道橋を通り過ぎていく何人かの人たちがわたしたちにあまり注目しないのは嬉しかった。泣いたこともそうだけど、有名人がここにいることを誰も知らなければいいと思った。
「ずっと好きでした」
涙のせいで熱くなった吐息で、わたしはまた繰り返した。
「昨日の試合、すごく良かったです」
サッカーの戦術とか技術とか、実経験のないわたしにはわからない。けれど、伝わってくる彼の情熱に今みたいに涙がこぼれたことは何度もある。 現実が辛いとき、傷ついたとき、悲しいときは、いつもこの人の試合を観に行った。
「…わたし、昨日ほんとにやなことがあって」
何を言っているんだろう迷惑に違いないのに。 そんなもう一人の自分が制止を掛けるのに止まらないのは、目の前の人以上に大事な人に何も出来なかった昨日の自分のせいだ。だからこんなのは迷惑だ。だけど、どうしても少しだけ話がしたかった。
「すごく自分が情けなくて、嫌になって、死にたくなるほどどうしようもなくて」
そんなわたしを救ってくれたひと。
「だけど、渋沢さんがピッチで頑張ってるのを見て、すごく…励まされた気がしました」
外国代表チームの猛攻。凌いで凌いで、凌ぎ続けて、誰もが目を覆いたくなるような危機ですら、その身体と両手で弾き返した守護神。 頑張れと鼓舞し続けた守護神。 エールをもらった気がした。 それは当然気のせいで、わたしのことなんて知るわけないとわかっていたけど。 でも、この人の情熱はわたしを確かに救ってくれた。
「ありがとう」
わたしの声じゃなかった。 長身の彼は、少し歪んだ笑顔を浮かべていた。
「え…?」 「俺も、さっき少し嫌なことがあったんだ」
少年みたいに無邪気な口調で、彼はわたしに言う。 真剣なまなざし。意志が強そうな口許。憧れていた。
「ありがとう。俺も、いま君に救われた気がした」
咄嗟に首を振った。
「わたし、何もしてません」 「そんなことないさ。…辛いときとか、寂しいときに、自分のしたことを良かったって言ってもらえるのは必ずその人の支えになる」
琥珀の瞳で、彼は強くわたしに言ってくれた。泣いたわたしを哀れんだのかもしれない。けれどわたしはその言葉に、また救われた気がした。 誰かを救うなんて、簡単に出来ることじゃない。 だけどわたしはこの人に救われた。この人があの場所で戦い続ける姿に勇気を貰った。陳腐なことかもしれない。けれどそれが真実で。 わたしはまだ、誰かを助ける資格があるだろうか。
「…いま、また、励ましてもらいました」
泣き笑いみたいになるのを覚悟して、必死で表情を笑みのかたちに作った。 だいじょうぶ。まだ、だいじょうぶ。 この人に会えて話が出来たから、わたしはまだ大丈夫。
「ヒーローみたいですね」 「え?」 「…わたしにとって、渋沢克朗選手はずっとヒーローでした」
大好きだと胸を張って誇れる。選手としての彼がずっとわたしの心に棲んでいる。
「突然、すみませんでした。…これからも頑張って下さい」
名残惜しくなんかない。これから先、彼がサッカーを続ける限りいつでも会える。 突如現れた怪しげな女になるのを覚悟して、わたしは一礼して立ち去りかけた。涙の筋を指先で拭った背に、声が掛かるまで。
「こちらこそ、これからも応援よろしくお願いします」
礼儀正しい声。嬉しかった。ただ、嬉しかった。 彼はわたしの中の『渋沢克朗』像を裏切らず、心優しいゴールキーパーでいてくれた。 それが、わたしと彼、ファンと選手の距離だ。一時すれ違って離れる。 最後の一言。振り返った。笑う。 わたしが愛したサッカー選手が、強く微笑んでいた。
「わたしにとって、渋沢克朗は永遠のヒーローです」
だいじょうぶ。まだ、頑張れる。 この心にヒーローがいる限り。彼が戦う限り。この記憶が褪せない限り。 微笑を胸に、わたしの足は夏の空気を切り裂いて、向かうべき場所を行く。
お誕生日おめでとうございます。
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2004年12月10日(金)
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