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遠子(桜井都)

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 雪が、ずっと降っていた。









 足元で溶けかけた雪が音を立てていた。
 彼が早足になればなるほど、それに合わせて音の大きさも比例する。乱雑な足取りに服の裾が汚れるのを見て、彼の斜め後ろで彼女はわざとためいきをついた。

「三上」

 薄闇が支配しようとしている夕暮れの街並み。彼女の声は雑踏にかき消されずに彼の耳に届く。黙って歩いていた彼はようやく歩みを遅めた。

「足、大丈夫なの?」
「……………」

 数時間前に捻ったという彼の右足首の痛みはまだ消えていないはずだ。
 歩幅の違う相手をどうにか追いかけながら、彼女はあまり馴染みのない街で声を張り上げる。

「三上、とりあえず一度ホテル戻って」
「…どっかで飯食ってからでいいだろ」

 敗戦の後の彼の機嫌が良かったためしはない。今回も例に漏れない三上に、たまりかねた彼女は腕を掴んで引きとめた。

「話しするときはこっち見て」

 ようやく三上は振り返ったが何も言わない。甘えるなと言ってやりたい気持ちより、慰めたい気持ちが先に立ち彼女は言葉を選びながら口を開く。

「…反省も大事だけど、次のことも大切でしょう? 歩き回らないでゆっくり休んだほうがいいわよ。私は構わないから」
「…誕生日だろ」
「いいから」

 今期最後の遠征になるかもしれない場所に来た時点で、こうなることはある程度覚悟していた。三上の腕を掴んだまま、元来た道を戻り始める。
 試合中ずっと降っていた雪はもう止んでいる。溶けた雪は今晩のうちに今度は氷へと変貌するだろう。

「…雪の試合なんて初めて見たけど、ボールの色がいつもと違うのね」
「…白だと同化するからな。っつーか、高校んときのインハイで雪試合あったぜ?」

 出来るだけ普段通りの口調を心掛けた彼女の努力は、三上にも伝わった。
 言外に「覚えていないのか」と眉をひそめた彼に彼女はやや視線をずらす。

「見てないもの」
「おい」
「そのとき受験だったから。話に聞いただけ」
「…あんときは勝ったんだよ」

 最後の一言は独白に近かった。思い出したように痛む右足首が疎ましく、三上は冷たい夜の空気を肺に吸い込んだ。
 雪が降っていた。あのときも、今日も。

「今年も終わりか」
「…来年もあるわよ」
「また昇格出来なかった」

 戦う者だけが持てる厳しい声。
 彼女が見る三上の横顔は少年期を抜け出た精悍な青年のそれだった。見惚れるほどまではいかないが、かつての少年に彼女はやさしく微笑む。
 彼の努力を手伝うことは出来ない。けれどせめて、いい方向へ転換させる支えにはなりたい。

「…お正月、ゆっくり出来るわね」
「今年も筑前煮な」
「ほんと好きね」

 笑いながら、手を滑らせ相手のむき出しの手に触れる。静かに手が重なった。
 その手の冷たさに三上は驚く。

「なんでこんな手冷たいんだよ」
「ああ、試合中に冷えたみたい。手袋忘れちゃったの」
「んじゃもしかして手袋ナシで試合見てたのか?」
「新幹線遅れたから買ってる暇もなかったのよ。折角こっちまで来たのに、試合途中からじゃ勿体無いでしょう?」
「アホか。女が末端神経冷やすんじゃねえ」

 冬季の現在、野外スタジアムでの観戦は相当冷え込むことは想像に易い。
 事前に膝掛けそのほかの防寒はしっかりして来るようにとしつこく言っておいたが、寒さには強いと豪語する彼女はやはり薄着に近い。
 彼女はベージュのファーコートは外観の都合でマフラーが巻けないのだと自分で言っていたくせに、手袋抜きで二時間以上の野外を乗り切った。驚嘆に値する。

「ほら、そっちの手嵌めてろ。大きくても文句言うなよ」

 変なところで手のかかる女だと心中で三上は思い、自分のコートのポケットから片手の手袋だけを引っ張り出した。繋いだほうの手はお約束通り自分の手ごとポケットに突っ込む。
 ありがとうと言って素直に受け取った彼女が、鞄を持ち直しながら三上の手袋を嵌める。
 それを待ちながら、三上は雪に彩られた中国地方の電飾の街を眺めた。
 有給休暇が取れたら観戦に行くと彼女が言い出したときは冗談かと思ったが、見た目同様実行力のある彼女はさっさと自分ですべて手配を終わらせていた。ホームでの試合すら滅多に観に来ないというのに、どういう風の吹き回しだったのか。
 誕生日だった。彼女の、年に一度の。
 どうせなら勝ち試合で祝いたかったというのに、悪天候に思いきり阻まれた。

「また来年、ね」

 声と同時に見透かした穏やかな笑みが三上を真っ直ぐに捉えた。
 へっと口許を曲げ、三上はわざと顔をしかめた。

「俺の考え読んでんじゃねーよ」
「三上、わかりやすいから」

 少数派の意見だった。今度こそ彼女の歩調に合わせて歩きながら三上は少しだけ笑う。

「んなこと言うのお前ぐらいだろ」

 わかりにくいと言われるのも、ひねくれ者だと笑われるのも慣れている。我ながらどうしようもないと思いつつこの歳まで来てしまった。
 それでもごく稀に、彼女のように理解しようと努力してくれる人間と出会える幸運もあった。

「…なあ」
「なに?」

 呼びかけに応える声。やさしくて愛しい。
 二十数年前、彼女がもし生まれず、出会えないままでいたなら今の自分はどうしていたのだろう。相変わらず屈折した精神を持て余していたかもしれない。
 そして負けた試合の後のささくれた心を癒す存在も知らず、独りで生きていたかもしれない。
 誕生日おめでとう。
 出会ってくれて、ありがとう。
 そんな言葉が言えるはずもなく、三上は仕方なく細い手を痛みを感じない程度の力で握った。

「…何でも」

 言葉にしなければ伝わらないことのほうが世の中には多い。けれど、これだけはきっとわかってくれる。言えない理由と、伝えたい気持ちを理解してくれる人だと信じている。
 彼女は静かに、彼の好きなやさしい笑みを浮かべた。

「そう」

 雪が止んだ夜空に、冬の星座が瞬いていた。






 誕生日おめでとうございます。









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2004年12月18日(土)

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