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2018年07月29日(日)
『消えていくなら朝』

『消えていくなら朝』@新国立劇場 小劇場

うへーまるっきりウチの話だわ。9割とはいかなくても8割は一致するわーと思い込みたくもなる、専門用語のいちいちが解る。蓬莱竜太の出身地ってどこだっけ、年齢は……うーむどこかで会ってるかもしれないわ。というわけで極めて個人的な感想になります。劇作家にはなっていない凡人からすると、いや〜蓬莱さん有難うとすら思った。あまりにも気になってプログラムも買ってしまったが、やはりどのコラム、対談も母親への言及は控えめ(に感じた)。扱うの、難しいですよね。でも自分が観たり読んだりしたどの作品よりも、今作はウチの問題に近かった。全否定しない、憎しみもない。第三者にそれはこういうことだと断定されることが何よりも腹立たしい。

私戯曲、ともいえる。どこ迄が実際に起こったやりとりなのかは判らない。劇中女優がいったように書く側は「調整出来る」が、そんなことはいわせないとばかりに劇作家は自分(を投影した役)を家族にコテンパンにさせる。登場人物ひとりひとりの問題を徹底的に掘り下げ、人物形成の経過を辿り、崩壊していく家族を書き留める。誰かひとりを責めて終わり、という単純な図式に陥らないよう細心の注意を払い、宗教の問題については少しの笑いに落としこむ、そのバランスのとり方。あったあった、ウチにもこういう笑い。どうやっても卵が先か鶏が先かというジレンマが生まれ、最終的にはこの作品を劇作家がどう書くかというところに観客の注目を集める。『消えていくなら朝』というタイトル。朝になったら全ての問題が消えていればいいという願いと、劇作家が家族の前からそっと姿を消してしまおうかという望みと。数十年の時間を経て積もり積もった思いを、こうして一日のやりとりとして見せる劇作の手腕に唸る。そしてこの作品の演出を自分ではなく、宮田慶子に任せる勇気。作家と演出家の信頼関係があってこそだろう。

考える。ウチがこの作品の家族のようにこじれなかった……というか家族間でぶっちゃけられなかったのは、母親が早くに亡くなった「おかげ」かもしれないな、と一生思っていくのもそれはそれで面倒なものだ。こういうとこすごいハイバイめいてる。『て』のように家族の視点をくるりとかえることは現実には不可能なので、結局は話したり聴いたりしないと全貌が見えない。いや、「全貌」はどうやったって見えない。結果「家族のせいでこうなった」のか、「自分の資質がこうだった」かは断定出来ない。

あの環境は決して居心地の悪いものではなかった。台詞にあるように「旅行に行ったり」出来て楽しかったしね。地域によるのかもしれないがウチのとこは比較的ユルかったのかなあ(とかいったら怒られそうだが)、母親の入院中すごく助けてもらったし、葬儀のときもウチの方でやりたいんですって父親がいったら、では出席は出来ませんがこちらでもおくらせていただきますみたいな話し合いが穏やかにおこなわれたし。とかいうと洗脳されてたのね可哀相にとかいうひとがいるがうるせえよ。基本的に他者に働きかけない限り皆さん善良なひとなんでしょう。あーでも善良なひとたちは他者を救わねばと働きかけたくもなるよね、そうするとやっぱウチの家族があそこ迄こじれなかったのは(ふりだしに戻る)だから信仰は自分の心のうちに持てと(以下常日頃いってることなんで略)。

売れているということは多くのひとに受け入れられているということ。お前は俺たちのことを見下してる、上から見るな。兄はそういう。ハハ、(なんども繰り返されるこのハハ、がホントムカつくのよ・笑)と弟は冷笑する。ここは外せないところ。この環境が特殊かどうか、特殊であったとしてそれは有利か不利か。有利だったとしてそれは何に? 父親も亡くなり、家族の謎はすっかり藪の中。想像することで折り合いをつけていく日々が続きます。ずっとそんなもん。

ひとんちの話は面白い。自分ちの話もきっと面白い。家族の問題をそう思わせてくれる作品を数多く生み出しているのがハイバイです。観ているあいだ、岩井秀人の感想ききたいなあ、観たかな? と思っていた。帰宅後過去ログ探してみたら、

とのことでした。あの「筆の勢いが止まらない」感覚、ピンとくるのだろうなあ。

というわけでなんだか心が澄みわたりましたわ。こんなに落ちつき、集中して観られたのは、緻密なホンと丁寧な演出、そして素晴らしい演者のおかげ。鈴木浩介と山中崇の兄弟観られてうれしかった。童顔の山中さんが弟だと思っていたよ、実際の年齢ってどうなんだっけ? 長女を演じた高野志穂は恐らく初見ですがもう大好きになってしまった。ドラえもん集めて何が悪い、いいじゃねえか!(役と混同)

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・今作の演出を手掛けた宮田さんは新国立劇場・演劇部門の芸術監督ですが、この八月で任期終了。それに伴い同部門のブランディング・宣伝美術を担当していたgood design companyも退任とのことで、ロビーには2010/2011〜2017/2017シーズン八年分の上演作品ポスターが展示されていました(プログラムにも掲載)。さびしいなあ、数々の素敵な宣美を有難うございました!




『負傷者16人』作品の感想はこちら



2018年07月28日(土)
『大人のけんかが終わるまで』

『大人のけんかが終わるまで』@シアタークリエ

シアタークリエ十周年だそうでおめでとうございます、多分7〜8年ぶりに来たような……というくらい久し振りにこの劇場へ足を運んだのは、『偶然の男』や『ART』、そして『おとなのけんか』を書いたヤスミナ・レザの作品が上演されるため。そして「上演台本」を手掛けたのが岩松了だったから。キャスティングも好みでした。演出は上村聡史。

内容はといえば、地獄コメディだった(笑)つらしま。なぜ「上演台本」を必要としたのか、ということを考えざるを得ない仕上がりにも見え、翻訳だけでは成立が難しく、ドラマトゥルク的な役割として岩松さんが台本を起こしたのでは……と勘繰ってしまいました。演出家と演者は辛抱強く、粘り強くこの戯曲と向き合ったのだろうなあなんてこと迄こっちが考えてどうする。二時間弱の上演時間が随分長く感じられました。本国で上演されたときの評判ってどうだったのかしら? ああ言えばこう言う台詞の応酬から問題が噴出し、おもろうてやがてグッタリな展開を得意とする(と勝手に思っている・笑)ヤスミナ・レザ作品だけにもう一歩踏み込んだものを期待していたのだけど、そこは消化不良。いや充分グッタリしましたが。

それぞれ問題を抱えた男女が、それぞれのストレスをはち切れんばかりに刺激し合う。不倫、嫁姑問題、板挟みの夫、事業の失敗、認知症、薬物あるいはアルコール依存の兆候。磁石のNとNあるいはSとSのような関係ばかりなのに、それでもときどき片方のSがNになる。だから断絶がなかなか決定的にならない。面倒くさい(笑)。どの役も演者にとってはやっかいというか不利というか、わーこんなひとやだわーと思われてしまう人物像ばかりなのだが、そこに憎みきれない愛嬌や情けなさをひと匙、ふた匙。観客もそのチャームに気づく作業が楽しい。女ふたりがタバコを吸いつつ一瞬の友好をあたためる場面にはグッときた。

二列目センターだったので、鈴木京香のパンツが見えそうで気が気じゃなかった。スカートに見えたふわふわミニはうまいことキュロットになってました、衣裳さんいい仕事(笑)。NODA・MAPの『カノン』で観たときも見惚れた美脚は健在。低めの発声ではすっぱで、前の席で観ていたのにも関わらず「きょうかさん……だよね?」としばらく確信が持てなかったくらい。北村有起哉の声も低音なのでいいハーモニーでした。近年の北村さんはワルいとかダメな男を色気で魅せる役をすっかりモノにしており、今回も楽しませていただきましたヨ! 芸達者のバランサー藤井隆、頑なで損な役まわりに悲哀を加味してくれた板谷由夏、いやはや登場した途端に持ってかれる! 麻実れいと、難物戯曲を上演してくれたカンパニーに拍手を贈りたい気分。



2018年07月20日(金)
高橋徹也 バンドセット・ワンマン『The Endless Summer - revisited』

高橋徹也 バンドセット・ワンマン『The Endless Summer - revisited』@Shimokitazawa 440


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Vo, G:高橋徹也
B:鹿島達也
Key:sugarbeans
Drs:脇山広介
Pedal Steel:宮下広輔
Tp:河原真彩
Ts:小笠原涼
Tb:西村健司
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語彙をなくしつつもちょこちょこおぼえがき。440で高橋さんのバンドを聴くのは初めてです。このハコ、高畠俊太郎が上田現を追悼して「Happy Birthday」を演奏したところ、という印象が強く、この日もステージ上に設置されたままのアップライトピアノを見て「これで弾いたんだよなー」などと思っていた。当日プレイヤーが演奏しなくても常にそこにある、440の主と勝手に思っています。

さて、この日は高橋さんの最新作……のひとつ前、『The Endless Summer』アナログレコ発ライヴ。「revisited」というサブタイトルがつきました。アナログ好きな高橋さんが自分の作品をレコード化するならこれ! と選んだアルバムです。HMVからのリリースというトピックもあり、客層もちょっとここ数年とは違ったような。「タカハシー!」なんて野太い声も飛びましたよ。SNSでその存在が周知され、ライヴの評判がじわじわと拡がっているということもあるのかも。ホント、このバンドの持つ凄みは一筋縄ではいかないな。アロハを着たおっちゃんたちがニコニコと寄らば斬るみたいな殺気を放つ。高橋さんが「このバンドでやることはごほうび」「このバンドでやれる、メンバーに会えるのを楽しみにして日々のソロ活動をやっている」てなことを仰ってましたが、ひとりで活動されている高橋さんからすると、インディーでの実務(具体的な制作費やブッキングのやりくり)の大変さとともに、孤独を必要とする音楽制作は苦しさを伴うものなのだと想像します。バンドのメンバーと演奏することは、自分の頭のなかの音楽をともに具現化する、頼もしい味方が近くにいる、と感じるのかもしれないななどと思う。

猛暑も猛暑、今年の夏は(も)つらい。あの夏好きのey吉野さんですら「もういや」といっていた。しかし『The Endless Summer』からのナンバーをはじめ、このバンドで演奏される夏の歌の数々に涼む思い。いや〜滋味だわ、もはや癒される。自分の話になるがホンットに暑さに弱く夏が苦手なんだけど、それをなんとか憎しみやヘイトに表出せずにいられるのは、フジとかソニマニ(サマソニとはいいきれない…あれはマジでしんどいので行かないで済むならそうしたい)とかのフェスが楽しいからだし、ひいてはそこに音楽があるからですよ。あああ夏に殺意を抱きそうになっていたわいけないわ、高橋さんの音楽が抑止力に! 感謝! 海辺の日差し、汗がはりつく夜、街灯に誘いよせられる羽虫。そんな歌詞はないけれど、数々の夏の光景を脳裏に浮かべ愛でるひととき。

な〜んてのんびりしていられなくなったのが、「Night & Day, Day & Night」。ご本人もブログ(後述)でベストテイクと書かれていますが、飲食可能なライヴスペースの雑音が全く聴こえなくなる程集中力を持っていかれた演奏だった。PAもダブかけてたような気がしたんだけど幻聴かしら……高橋さんはFISHMANSに言及しているけど当方MUTE BEATを想像していました。440だったから上田現→レピッシュ→増井くん、という図式が頭にあったのかもしれないが。宮下さんのスティールペダルと高橋さんの単音のギターがずるずると夜の深みへと聴き手を引きずりこむ。圧巻。

アップライトベースを構えた鹿島さんと脇山さんの怒涛の丁々発止は音だけで震え上がる。鹿島さんの強烈なグルーヴ、脇山さんの鋭いショット。ほぼセンターの席だったので高橋さんの真後ろにいた鹿島さんの姿はこの日殆ど見えなかったのですが、いやはや演奏で涼ませていただきました(おそろしくて)。脇山さんはいつもより見えたなあ、松潤に似てるなあなんてニコニコした。ハンサム度がますますアップの新しい髪型を高橋さんは「絶対かっこいいなんていわない」そうです(笑)。

そしてこの日、とても大きなニュースが発表されました。レコ発、バンド初演のナンバー、告知盛りだくさん、といっぱいいっぱいだった様子の高橋さんは、いつにもましてMCが支離滅裂。単語が出ても接続詞が出ない。それだけ演奏に集中しているのだろうな。秋にTシャツをつくり、区切りでもない一昨年に『夜に生きるもの』全曲演奏ライヴをやって、アナログ発売するのは最新作ではない、そして皆がアロハ着ているときにひとりだけ着てない(笑・これはたまたまか?)。ご自分でもひねくれ者だか天邪鬼だかと仰ってましたが、そんな彼が緊張の面持ちで発表した告知に、悲鳴にも似たどよめきが起こりました。



二年前に『夜に生きるもの』を全曲演奏したときも「再現」という言葉は使っていなかった。「昔だったら意地でもいいたくない……口が裂けてもいわなかった『再現ライヴ』をやります」「それだけの覚悟を持ってこの怪物二枚に挑みます」。怪物。自覚があるんだ。とんでもないものをつくってしまったとは当時も思っていただろうが、それに対峙することが出来るという今の体感もあるのだ、きっと。バンドの充実を受けてのことだろう。楽しみで仕方がない! ところでやっと発表出来た! という安堵か、だいじなライヴの告知も会場がどこかいいわすれてましたよ(笑)。

アンコールで聴けた新曲「友よ、また会おう」の素直さに驚き、こうした曲をつくるに至った心境を思う。販売されていた小冊子を読み、次男坊の気持ちを思う。初盆のため短い帰省へと向かう前夜、次女坊はライヴに参加出来たことに感謝したのでした。

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・一夜明けて、ライブ後記│夕暮れ 坂道 島国 惑星地球
ご本人のブログ。セットリストも。チケットにも店頭ボード(冒頭の画像参照)にもクレジットがなかったTbの西村さん、こちらではちゃんと紹介されています。「インディーになってからのアルバムを辿るような」セットリストになったのは、件の再発を控えて思うところがあったのかな


サムネ画像が格好いいのでリンクではなくツイートを埋め込んだる。リクエストリクエスト!


じ、実はアナログ出すと聴いたとき「この二枚もアナログ再発してくれないかなあ、めちゃめちゃジャケ映えするし!」と思っていたのでした。CD再発が実現の暁にはアートワークも若干変わるようでそちらも楽しみ!



2018年07月16日(月)
『極東最前線〜Enjoy Your Hell〜』

SHIBUYA CLUB QUATTRO 30th ANNIVERSARY “QUATTRO STANDARDS”
『極東最前線〜Enjoy Your Hell〜』@Shibuya CLUB QUATTRO

村岡さんが加入後やっと観られたんですがやーかっこよかったなー、音も佇まいも。eyで女声のハモりがあるというのも涼やかでよかった。今も岡山在住なのかな、心配なことも多かろう。会場には吉野さん特製こけし募金箱「にしにほんちゃん」が設置され、西日本豪雨災害への義援金が集められました。微力乍ら参加。




というわけで「たとえばぼくが死んだら」(森田童子さんが亡くなってからは初めて聴いたかな)も「夏の日の午後」も聴け、はやくも納涼気分。これからまだまだ猛暑が続くというのにねえ。吉野さんも「夏大好きだったんだけどもういやだ、春春秋冬でいい」とかいっていた。ゲストDMBQのステージングを受けて「地獄ですね、こっちは煉獄ぐらいで」と仰ってましたがまあ地獄ですよどっちも。今回のタイトルにピッタリな対バンでしたネ! 「(超小声)増子くんの古い友人の吉野です……」とか真似したり、長いつきあいなもので思い出話にも花が咲きました。二十代の頃のバイトの話とか。「この歳になると、たまにではあってもこうして会えるやつは年々少なくなる。疎遠になったり、死んだり」。吉村さんのことやっぱり思い出しちゃうね。勿論彼だけではないけれど。

村岡さんのお話のコーナー、今では恒例なのかな? ゆっくり、ひとことひとことを選びぬいて話している様子でフロアも静まりかえります。あのややこしくもブリブリなベースラインをすらすら弾いていたひとと同一人物とは信じ難いわ。演奏するときははっとする程鋭い目で吉野さんを見てる。eyには、曲間のなんとはなしに始めたように見えた話題が次の曲の布石になるという吉野さんの至芸がありますので、どのタイミングでイントロのコードが鳴ってもすぐ合わせられるように集中しているのだろうな。新曲「循環バス」も素敵な響き、街の風景が静かに、しかし力強く拡がります。

しっかしDMBQひっさしぶりに観たんだけどまあエラいことになってた。いつ以来だ……新宿リキッドであぶらだことオリジナルラヴと出たやつ以来(なんじゃその組み合わせと思われるかもしれないが本当にあったのよ)? いやチャイナさん時代にもどっかで観てる筈だが……どちらにしろスリーピース、Drsが和田さんになってからは初めて観た。ウワサの人柱ドラムも拝めました。画像や動画で観てたんだけどどういう流れでああなるの? と実は楽しみにしていたのですよ。終盤増子さんが人柱始めるよ〜とドラムキットを移動させ始めると、ガッテンだ! と屈強な方々が積極的に支えに集まってくる。事情を知らないとなんだなんだって感じですが、知ってるひとじゃないとコツとかわからないのでは……果たしてちょー安定感ある(ように見える)土台の上で、ドカドカ叩く和田さん。キックペダルも踏めてたしスゴい、組体操かとかいってた(笑)。

気づけば増子さんはガスマスク装着、額割れたかして(終演後自分で割ってたと聞く)血ぃ出てましたが大丈夫でしたでしょうか。いつものことですかそうですか。身体には気をつけて。最後は増子さんと和田さんがMakiさんの両脇を抱え、ドラムキットの山にキックをかまして大団円。馬力あったなー。そしてギターは増子さん一本になってましたがそこが目減りした感じは全くなかった。なんかなあ、こういうひと(どういうひと)も社交的なひとも一緒に暮らしていけるのが社会の理想だなあとかそんなこと迄考えた夜でございました。それは街の底なのか。そこが地獄というならそれも楽し。

eyちゃんは来月、怒髪天と対バン。増子兄弟との邂逅が続きます。暑(苦し)い夏だね〜、元気出るわ!



2018年07月15日(日)
NYLON100°C 46th SESSION『睾丸』

NYLON100°C 46th SESSION『睾丸』@東京芸術劇場 シアターウエスト

50年前(1968年)の出来事を、25年前(1993年)から振り返る。そこからまた25年経った今(2018年)、彼らはどうしているだろう? 過去は変えられず、未来は予想出来ないことばかり。清廉潔白なひとはどれだけいる? 罪人に石を投げられるひとはどこにいる? 過去の自分はどこ迄も追いかけてくる、巡り巡って大切なものの未来を破壊する。面白いやら怖いやら、終盤のあの台詞、そしてあの幕切れ(暗転のタイミング含)!

ナイロンで芸劇? というところが不安でもあり楽しみでもありました。芸劇のイースト/ウエストって、舞台美術を活かすのがなかなか難しい印象を持っていたのです。ハコ(劇場を指す言葉ではなく、文字通りの箱)っぽい形状で、フリースペース使いが出来る(ステージの位置を移動出来る)けれど、それを巧く利用した作品をあまり観たことがない。しかしそこは流石のナイロン。客席前方を斜めに切り込み、作品世界の「庭」を作りました(美術:香坂奈奈)。暗がりの客が庭というわけです。観客は侵入者のように、息を潜めて家の中を覗き込む。見あげるかたちになるので、家屋の上方迄見渡せる。一見豊かな生活を送る家庭、その壁の上方や一部だけ構えられた天井に大きなシミがあるのを発見する。そこでくらしているひとたちは、徐々に拡がっていったであろう住処のシミに恐らく気付いていない。物語が不穏な方向へと進んでいく度、そのシミが大きくなっていやしないか、ますます拡がっていやしないか、と何度も確かめた。プロジェクションマッピングによる映像(毎度冴えてる&FICTION!仕事!)を使った暗転と、ラストシーンの暗闇に唸る。そうだ、芸劇イースト/ウエストにはこの暗闇があった! この劇場に感じるあのじっとりとした暗さは、作品に活かせる暗さだったんだ。初めて実感した。

学生運動の高揚を忘れられず、その思い出にしがみついている男たち。忘れようとしている女。とあることから彼らが再会し、幻となった芝居を上演しようという話が持ち上がる。「墓場迄持っていく秘密」があるという女はその秘密を案外イージーに披露し、案外イージーに流される。あの時代ってそういうもんだったんだよと。セクトをまとめようと奮闘していた悲劇のリーダーはちいさな器な人物で、それもその時代だとカリスマに見えるものだ。女にしてもリーダーにしても、一生癒えない傷を持っている。ただ、それは他人からすれば忘れてしまえるし、水に流せてしまうことだ。突き出した包丁で、差し出されたピーチネクターで。そして、当人が意識していなかったところで悲劇は起こる。

あれなのよな、最近でいうとパパラッチを撃退した○○かっこいい! と画像を拡散する行為が、結局はそれを撮影したパパラッチの思うツボみたいな結果になってしまう仕組み。拡散したひとたちはそれをどこ迄意識しているんだろう。なんてこと迄考えてしまった。死ぬ迄失敗は許されない、一度の過ちも許されない。過去の自分にどれだけ責任を持てる? そして作品世界から四半世紀を経た現在、舞台上で彼が発した「見せないんだよ」という行為がどれだけ困難なことになっているか。同時に、見せられたとしても堂々と責任をとらない風潮になりつつある今の時代にふと背筋が寒くなる。知らないと言い張ればいい、証拠があれば抹消すればいい。これまた四半世紀後にはどうなっているやら。

新宿高校の坂本龍一、清水邦夫。実在の人名も登場する。第三舞台の『天使は瞳を閉じて』がシアターアプルで上演されたのは1992年。作中シアターアップルで上演されていたコーカミナントカの芝居って何だったのかな。なんてことを考えるのも楽しかったです。鴻上さんは学生運動に乗り遅れたと感じている世代で、彼らが夢見た「革命」にある種の憧れを抱いていたと公言していた憶えがある。90年代を象徴するサブカルチャー、演劇の代表という以外にも、KERAさんがこのモチーフを採用したのには狙いがあるように思う。四半世紀後に振り返る90年代初頭。といえば今回、岩松了がよく使う記号が多く見られたのはたまたまなのかなあ。階段(段差)、水(牛乳)、見えないところで起こる惨劇……『市ヶ尾の坂』を観たばかりだからそう感じたのかもしれないが。ちなみに『市ヶ尾〜』の初演は1992年。

こうして作品についてこまごま考えることが出来るのも、演者の芝居に違和感を抱かないおかげ。ナイロンの出演者はつくづく「ナイロンのリズム」を体得している。笑える/戦慄する台詞を絶妙のタイミングで、絶妙のトーンで。三宅弘城とみのすけのやりとり、三宅さんと坂井真紀(学生仲間の憧れの的、ザ・女優!)、みのすけさんと長田奈麻のやりとり。廣川三憲の大人の魅力もよかった(笑)。そして「墓場迄持っていく秘密」を抱えているのは実は彼女ではないだろうか、と思わせられる新谷真弓がとっても素敵。元夫がしらないこと、山程あるよね(笑)。女優陣の衣裳(前田文子!)が毎度素敵なのところもナイロンを観るときの楽しみなのでした。

そうそう、観たい赤堀雅秋と観たい安井順平の役柄にウハウハでした。ヴィジュアル込みで。赤堀さんと安井さんのパブリックイメージってこんな感じよね〜(笑・いいのか?)。てか赤堀さんは定期的にひとのホンでひとに演出してもらう姿が観たいなあ。素材に徹しつつも劇作家/演出家としての恥じらいが見え隠れする様子がすっごい羞恥プレイ的で興奮しますわオホホホホ。それにしても日々勝新に似ていく。最高。

観劇した日の夜(てか翌朝か)、FIFAワールドカップでフランスが20年ぶりに優勝した。20年前のW杯、よく憶えてる。W杯初出場の日本の初戦、対アルゼンチン戦の日はレピッシュの野音の日だったんだ。上田現も元気だった。実感としてふりかえれる20年という時間の、遠さと近さ。帰宅後は不二家のピーチネクターを早速飲みましたよ。毎夏ストックしているのだ、ロングセラーには思い出もついてくる。



2018年07月14日(土)
『フリー・コミティッド』

『フリー・コミティッド』@DDD青山クロスシアター

120分中105いや110分くらいが急、10〜15分で緩、という体感。それだけの時間急のテンションを維持し、38役をクリアに演じ分ける。そして一瞬、軸の役に戻った凪のシーンこそに成河という演者そのものの魅力が立ちあがる。いや、すごかった。

ストーリーはとても苦い。日々オーディションを受け続けている役者は、役が決まらない間は違う仕事で日銭を稼がねばならない。一度決まった大きな役は理由もよくわからないまま立ち消えになり、新しく受けたオーディションは最終選考についての通知がこない。今の仕事は有名レストランの予約を受けつける電話係。絶対権力のシェフ、横柄な客、いつ迄待っても出勤してこない同僚、クリスマス休暇は一緒に過ごしたいと連絡してくる父……オーデション仲間からは最終選考に残ったという連絡が届く。焦り、苛立ち、疲弊…それでもときどき希望の光が灯るような出来事が起こり……?

役者という仕事は関係性こそがだいじ。オーディション仲間の言葉を借りればそれはカネとコネづくりに他ならない。有名レストランの顧客には有名人がいるわけで、それがハリウッドの重鎮の可能性もある。今の予約係という仕事を通じてチャンスが掴めるかもしれない。でもそれは、自分の役者としての力量のうちなのだろうか? 役者は悩み、迷い、そして決断する。それは今、この作品を演じている自身を映す鏡になる。

雑多な荷物が置かれた日光の入らない地下室。小道具のひとつひとつに目が届く。劇場のキャパ、舞台と客席の距離が活かされている。これらを注意深く見ておくと、登場人物に心で呼びかけることが出来る。いろんな国のひとから予約が入るんだな、ああ2コール以上鳴っちゃったよ、このお客はヤバい! 電話のやりとりは音声が観客に聴こえる場合と聴こえない場合がある。何度も電話をかけてくる客はこっちも名前を憶え、ああ、またこいつか! とイライラする(笑)。そうして登場人物と観客の関係が結ばれた頃合い、絶妙なタイミングで舞台上の彼は客席に向かって声をかける。それもたった一度だけ。観客はすっかり、彼(の役、ともいえる)に魅了されてしまう。成河さんとつきあいの長い、千葉哲也の演出もいい塩梅。

やーそれにしてもほんとヒドい職場だった……ぜってーあの職就きたくねえ。病む。でもそのヒドい職場のヒドいひとたちの長所もちゃんと描いてる、だから尚更苦い。いちばんひとあたりがよく、優しく、ある局面で主人公に救いの手を差しのべた人物がその店では問題人物とされている謎を残すところも粋だった。世界は何もかも多面体だ。

漆黒のブラック職場で日々働く彼の誠実さと才能を、誰かが目に留めていますようにと願わずにはいられない。チャンスが訪れる日はきっと遠くない、必ず見ているひとはいる。そう思いたくなる苦くも甘い二時間の舞台。こんな暑い夏にこんな熱い舞台(しかもひとり芝居)を30公演。つくづく芝居にとり憑かれた成河さんの、芝居への矜持を見た思いでした。