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2018年06月30日(土)
さいたまネクストシアターØ『ジハード ―Djihad― 』

世界最前線の演劇 1 [ベルギー]さいたまネクストシアターØ『ジハード ―Djihad― 』@彩の国さいたま芸術劇場 NINAGAWA STUDIO



『世界最前線の演劇 1 』。今後シリーズ化していくようです。もともとは国際演劇協会(ITI)日本センターの『紛争地域で生まれた演劇』シリーズでリーディング上演されていた作品。ネクストの堀源起が上演してみたいと手を挙げて実現した公演とのこと。

冒頭、堀さんが作者の言葉をモノローグとして語る。観客はこの作品の登場人物たちについてどう思うだろう。決して特別な存在ではない彼らを身近に感じてくれるだろうか、愛してくれるだろうか。果たしてジハードへと向かうイスラム教徒は、自分たちの隣にいても何ら違和感のない、愛すべき三人の青年たちだった。プレスリーが好きで、ドラゴンボールが好きで、愛する彼女との結婚を夢見る若者だった。

彼らが恐れられる理由は何もない。屈託のない会話のなかから観客はイスラム教の戒律を知っていく。何故ロックを聴いてはいけないのか? 何故キャラクターを描いてはいけないのか? 宗教を信仰していないひとたちの疑問をひとつひとつ解いていく。そこには何も、攻撃的なものは見当たらない。ジハードという言葉は、もともとは「頑張る・努力する」というアラビア語の動詞から派生したものだそうだ。それがいつから「聖戦」という意味を持つようになったのだろう。そんなことを考え乍ら観ていくうちに、信仰とは違うところから生まれる意識が浮かびあがってくる。

移民二世である彼らは、生まれたときからイスラム教を信仰することになる。躾と戒律はほぼ同義になる。教典を自発的に読み、教義に納得しているこどもたちはどのくらいいるだろう? 生活習慣にも密着するため、異なる地域、文化に馴染めずコミュニティはどんどんちいさくなる。アラブ系の顔立ちから差別されると同時に、生活する土地との同化を強いられる。彼らが戦闘に参加する理由は、その宗教の教えからではない。それに本人たちも気づいているが、家族や「兄弟」と呼びあう同胞との関係を断ち切ることが出来ない。その矛盾が顕在化するのが教会での出来事だ。

妻を亡くして落胆する男性に「兄弟」と呼びかけ、貴重な食べものを分け与えたのは彼がアラブ系の顔立ちだったから。彼の名前と信仰を聞いて三人は狼狽するが、それは全く自分たちにも当てはまることだ。その国で生まれ育ち、その国由来の名前を持っていても、その土地の者とは認められない。日本で生まれ育った堀、竪山隼太、小久保寿人と、ドイツ出身の鈴木彰紀の対比は、今作が日本で上演されるひとつの意味を与えていたようにも思う。彼らは遠い国の登場人物を、観客の傍に引き寄せてくれた。友人、兄弟となれたかもしれない人物として。

身近なこととして受けとめたのにはもうひとつ、個人的な理由がある。親や「兄弟、姉妹」からの教えにはどうしても矛盾がある、と気づいた体験が自分にもある。信仰というものは、自分が生きていくうえで心の支柱にするもので、それ以上でも以下でもないと決めたのはそのあとだ。宗教に喰われてはいけない。その教えに絡めとられてはいけない。こう解釈すればオッケーだもん! とか悔い改めればいいんだもん! という抜け道……というと怒られそうだが、常にそうしたアイディアを持っておかなければ、他者との軋轢が攻撃に化けてしまう。あくまで信仰は他人を救うものではなく、自分(だけ)のよりどころにしなければならない。作中ではアイラインというメイクだったり、落書きだと言い張れる絵というかたちでヒントが示されている。

演出は瀬戸山美咲。ブリュッセルからイスタンブール、ダマスカスという移動をステージ奥に垂らされたバックドロップに映しだす(美術:原田愛)。木製の椅子三脚が空港のベンチ、廃墟になった教会の備品、野宿の夜に身体を休める岩になる。劇場機構や規模に左右されない、さまざまな環境での上演が可能だ。この作品が今後もいろんな場所で上演され続けていくことを見越してのものだろうか、コンパクトで軽いフットワーク。

久々にネクストの芝居を観られたことも、小久保寿人の帰還もうれしかったなあ(OBってことになるのかな)。深読みかもしれないけど、演じることに飢えていた役者たちが水を得た魚のように見えた。蜷川さんが亡くなったことで劇団がこれからどうなるかわからない時間が長かった。事務所に所属して他の舞台や映像作品で観ることが出来るひともいるが、ネクストはその集団そのものが魅力的なのだ。次回公演が決まっていることがとてもうれしいし、楽しみです。

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・反移民乗り越えた町の挑戦 共生の道探る│NHKニュース おはよう日本
アフタートークのゲスト、NHK報道局国際部の曽我太一さんが取材、制作した『バディ制度』のオンエア記事。国際部に配属される前は北海道に赴任していたそうで、ロシアや中国からの出稼ぎ労働者にいかに日本の農業/酪農が頼っているかという話も。日本に来る難民の多さについても。一時間じゃとても足りませんでしたね

・『海を渡った故郷の味 ― Flavours Without Borders』
おまけ。何度か紹介してるけど、ことあるごとに何度でも紹介したい。移民と難民は切っても切り離せない関係ですよ。日本で手に入る食材でつくれる、あの国この国の料理。がレシピとともに紹介されています。いくつかつくってみてるけど旨いよ! 七味でつくるチンのカレーとか、知ってるカレーじゃないけれどおいしいのよ〜



2018年06月23日(土)
シス・カンパニー『お蘭、登場』

シス・カンパニー『お蘭、登場』@シアタートラム

北村想の書きおろしシリーズ『日本文学シアター』、Vol.5の今回は江戸川乱歩。演出は寺十吾。江戸川乱歩マナーに倣い、他人の犯罪を自分のものにしていく女盗賊「お蘭」。しかしその手法には必ずどこかに穴がある。警察の気をひくため、故意にそうしているようなフシもある。乱歩といいつつ横溝正史からの引用もとびだして……? 美女・お蘭に翻弄されっぱなしの名探偵と警部は、それを楽しんでいるようなそぶりさえ見せる。はてさて、愉快な追いかけっこはどんな結末を迎える?

いやあ、初演だというのになつかしささえ感じるこのつくり。脱線、楽屋落ちの多いこと。小泉今日子のアイドル的な歌披露、華やかな衣装替え(コスプレ)。目も耳も楽しい。舞台と観客が地続きで、ちょっとした矛盾は笑いで消化。それでいて作者の持つ膨大な知識がしっかり作品に反映されている。90年代にはこんな舞台が沢山あった。第三舞台が新作を発表する度、「おいていかれないために」とあらゆるサブカルチャーと世相を予習していた知人がいたなあなんて思い出す。

こうしたギリギリ内輪ウケのやりとりを見世物にするという作風は、演者に力がないと鼻白む。手練れの男優陣は作品世界へ観客を誘いつつ、自分たちも楽しんでいる様子。シス・カンパニーの総帥・北村明子プロデューサーがいじり倒されていたが、これも来場者が北村さんの人物像を知っているから通じるエピソードだ。観客を信用しているともいえる。観客と共犯関係を持ちたいという欲求を感じる。今ではその「暗黙の了解」を息苦しく感じるひともいるかもしれないな。

で、当日パンフレットの隅々を熟読するような深読み上等な観客は、こんな作品を見せられると「カッツミーが捨て身で明子をいじってる……シス辞めちゃうのかな、ザズウに移籍するのかな」と迄考えるわけです(笑)。1時間15分という上演時間と、盛り沢山のサービスの按配も○、いやはや楽しいひとときでした。



2018年06月22日(金)
HEADZ Presents『スワン666』

HEADZ Presents『スワン666』@BUoY 北千住アートセンター



(自分用メモとして、まるっと内容を書いています。読んで頂ける場合、観劇後がおすすめです)

作・演出は「飴屋法水たち」。飴屋さんたちの作品は会場に着く迄の道のりと、家に着く迄の帰り道、その日まるごとを作品として認識している。記録ではなく記憶に依るものが大きい。移動と、それに伴う時間というものの影響も大きい。だから欠かさず観ていきたいし、逃したくない。つまり、上記のフライヤーを手にしたときには既に上演が始まっている。いや、もっといえば公演のチケットを予約したとき、公演の情報を知ったときからそうなのかもしれない。ちなみにこのフライヤーは、草枕以外で目にすることはなかった。

北千住には初めて行った。道に迷って随分遠いところ迄行ってしまい、駅に戻って交番で道を訊いた。おまわりさんはとても親切に順路を教えてくれた。とてもこの先に劇場があるとは思えない細い路地を通る。古い家屋が続いている。同じところへ行くらしい、同じく不安そうに辺りを見まわし乍ら歩くひとたちについていく。ようやくそれらしき建物が見えてきて、笑顔でスタッフさんが迎えてくれる。辿り着く迄の道のりといい、街の雰囲気といい、建物の様子といい、90年代初頭に大森にあったレントゲン藝術研究所を思い出す。かつて飴屋さんがTECHNOCRAT名義で『Dutch Life vol.4 COMING OUT』を発表した場所だ。BUoYは面白い空間だった。かつては1Fがボウリング場、地下が銭湯だったとのこと。その1Fで受付をすませる。再入場チェック用として手の甲にスタンプを押される。スワンを模した2、あるいは2に見えるスワンのスタンプだった。地下へ降りると、出演者である山縣太一ににこやかに出迎えられ面喰らう。従来の劇場とは違う空間のため、席に着く迄の諸注意を知らせてくれる。

辺りを見まわす。コンクリート打ちっ放しのひんやりとしたスペース。大きな浴槽がふたつ。排水用らしきマンホール。これらはもともとこの建物にあったものだ。コの字に客席配置。残りの一辺にあたる位置に、中原昌也の機材一式。音楽はリアルタイムで演奏するようだ。フロアでまず目が向いたのは縦長の大きな水槽。『4.48サイコシス』に出てきた水槽だろうか、いや、あれはプールだった? 電話ボックスだった? 水を溜めている最中だ。ホースから出る水の音が、ジョボジョボ、というトーンからやがてドボドボ、と低くなっていく。そうか、フロアに入ったときにまず聴こえてきたのはこの音か。このままだと水が溢れてくるな、床に荷物を置かないようにしよう。いや、この距離なら水が溢れだしてから対処しても大丈夫か。それにしてもこの感じ。観劇? 作品鑑賞? に来たのに自分の身を守る術を探しておきたくなる感じ。飴屋さんの作品に向き合うときいつも感じることだ。他の観劇では滅多にない。

いくつもの女性のマネキン、あちこちに飾られているコラージュ作品。中原さんは今回美術も担当している。装置群は渋谷清道と飴屋さん。BOSEのスピーカーがあちこちに配置され、中原さんの音も演者がマイクから発する音もクリアに伝わる。出演者が出てきてストレッチを始める。加藤麻季(MARK)の赤いブラウスがかわいい。山縣さんはサッカーのレプリカユニと派手な柄のレギンス、小田さんはバレエのタイツ、飴屋さんは普段もよく着ている黒いコート。衣裳のクレジットはなかった(しかしこのチームなら、コロスケさんは関わっているように思う)ので、演者が自分で選んだのだろうか。くるみちゃん(あたりまえだが見る度成長している。背も随分伸びた)やコロスケさんが現れ、飴屋さんとひとことふたこと話す。小田尚稔は準備運動をし乍ら観客が飲み終わったドリンクカップを回収したり、入場してきたひとを空席に案内している。そんな地続きのまま幕は開く。

原作はロベルト・ボラーニョの『2666』。880頁、\7,560というボリューム(しかも本文は二段組である)に怯んで未だ手が出せないでいる(この価格を知ったとき「絶版になってプレミアがついているのか」と思ったが、正規の価格です)。ビビりついでにウィキペディアの紹介頁を読む。『スワン666』の「スワン」は「2」にあたるというわけだ。原作のことは観劇後に知った。途中迄「いつもの飴屋さんたちのトーンだが、何かが違う」と思っていた。飴屋さんが、メキシコシティで女の子を買ったと語りだす辺りでようやく外国文学の翻案らしいと気付く。佐々木敦が出したお題というのはこれか。しかし騎士道という喫茶店(新宿通りにある)や大久保通りといった自分に馴染みのある場所も登場するので、一歩ひいて観ることが難しい。鳥貴族の場所も、周囲の様子もわかる。丸亀製麺の天ぷらは確かにとてもおいしい。

そうこうするうち、走れなくなって自ら頸動脈を切ったマラソンランナー(円谷幸吉)やメキシコシティで快楽と衝動のために殺されていく娼婦たち、人間のために選別されて働き、殺されていく鳥(ひよこからにわとりへ)といった「奉仕する道具にされる命」に焦点が合ってくる。食欲と性欲、暴力衝動が経済に繋がる。直接的な言葉も頻発し、恐怖感が募る。排卵日を尋ね、女性への暴力衝動を「それは女性のせいではなく自分自身の問題だ」と何度も呟き地を這う男。「誰か僕とおセックスしませんか」と叫び走りまわる男。金属バットで枕を滅多打ちにする男。飴屋さんはハンドマイクを水槽に投げ込む。マイクはノイズと衝撃音を発して水底に沈む。あっ、と思う間もなく水槽に頭から飛び込む。あまりに身軽、あまりにまっすぐ飛び込んだので、深い水槽の底に頭をぶつける。ゴツ、という鈍い音がする。

一方、女は出産の予定もないのに毎月卵をつくり続ける自分の身体のことを考えている。他者に食べられることもなく毎月捨てられていく卵たち。自分の肉体にしてもそうだ、何かの連鎖に加わるわけでもない。「生きていてもいいですか?」と女はつぶやく。この「生きていてもいいですか」というつぶやきで幕は降りる。山縣さんの「終わりでーす」という挨拶に我にかえる。終わりも地続きだ。

短絡的だとは思うが、このスペースがあるのは足立区だ。コンクリート、ドラム缶。暴力の捌け口となり殺された女の子のことを考える。ひとどおりの少ない暗い夜道(前述したようにとても劇場があるとは思えない、寂しい通りが続くのだ)で、駅前の繁華街に出る迄結構怖かった。大踏切をぼんやりと眺める。

セックスを交尾といい、生殖行為に過ぎないと常々話している飴屋さんに、どういう狙いで佐々木さんはこの物語の舞台化を依頼したのだろう。飴屋さんたちの手により焦点が絞られた(と思える)のは、女性を襲うかもしれない、女性を殺してしまうかもしれない衝動に苛まれる男たちの姿だ。それは同時に自身を恐れ、自身を嫌悪する衝動でもある。動物の本能について飴屋さんは考え続けているが、この破壊衝動は本能なのだろうか。ではそんなものを備えている動物は、どんな社会を形成していけばいいのだろう? 「生きていてもいいですか」などと問うのは人間だけだ。つきつめれば、人間は害悪でしかない。生まれてきたことに意味などない。だから懸命に生きるしかない。ただただ、死ぬ迄生きる。

中原さんには、以前の職場の昼休みによく遭遇してた。おひるごはんやおやつのエリアが被っていた。ライヴのキャンセルや原稿の休載が続いていた頃だ。この日見た中原さんはゆでたまごのようにつるっとさっぱりした顔で、快活に話し(上演前後。上演中彼はひとことも発しない)、身体つきもだいぶ違ってた。勝手にホッとしたりもしたが、今日聴いた音はやっぱり中原さんの音だったし、コラージュ作品も中原さんのそれだった。中原さんと加藤さんの「ムーンリバー」を聴けた。心が澄みわたるような時間だった。中原さんと山縣さん、小田さんのリズム感。ライム、ラップ。ダンスが生まれる。

ハラカミくんが亡くなったときの、中原さんの言葉は今でもよく憶えている。確かにそうだな、と自分が思ったことも覚えている。多面性、連続性とひとは切り離せない。どれもそのひとのある期間の姿にすぎないということを覚えておかなければ、と思う。そして、制作の背景や作者の人間性を知っているか知らないか、の前に作品は作品なのだということも。そしてそれでも、作品というものはそのひとにしか生み出せないものだ。ただひとつの、たったひとつのもの。

しかしいつものことだが飴屋さんってなんでああ空間に身を任せられるのだろう。落ちたりぶつけたら痛いとかって身体が憶えてて、多少なりとも受け身の姿勢になったりするものじゃないのか? 千秋楽迄皆さんご無事で。



2018年06月15日(金)
mouse on the keys tres Japan Tour 2018

mouse on the keys tres Japan Tour 2018@UNIT



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drs, syn:川昭
key:清田敦
key, syn, g:新留大介
tp, f.hr:佐々木大輔
s & t-sax:本澤賢士
g:飛田雅弘
vo:稲泉りん
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『tres』レコ発。長く聴いているとあたりまえみたいになってたが、実は(実はも何も)むちゃくちゃ難しい曲を演奏してるんだったと思い出させられた……緻密という意味でも。過去最大にスリリング、チャレンジングかつエキサイティングなライヴでした。

フロアに降りてまず目についたのはセッティング。上手清田、中央新留、下手川というここ数年固定されていた配置ではなく、新留さんと川さんの位置が入れ替わっている。正確には中央は飛田さんで、これ迄とそう変わらない下手側に川さん、最下手に新留さん。『tres』でいちばん驚かされたのは新留さんの楽曲が多かったことと、そのどれもが従来のmotkのイメージを覆すものであり乍ら今後のmotkを大いに期待させるものだったことだ。ライヴにおいてもそれは展開される筈で、それがこの配置換えに繋がったのかなと思う。

飛田さんの掌から鈴の音が静かに響く。一曲目はアルバム最終曲である「Shapeless Man」。オープニングの出音が飛田さんというのも新鮮。Jordan Dreyerのポエトリーリーディングはサンプリングで。テキストはスクリーンにVJで。瞬時にフロアはmotkカラーに染まるも、なかなかライヴ招聘が難しいゲストが多い今回のアルバムの楽曲をどう表現するのかなという興味も膨らむ。

初披露の曲も多く、いつにも増して緊張度が高い。二曲目の「spectres de mouse」 では清田さんが些細なミスタッチをきっかけにリズムから弾きとばされてしまった。なんとかもちなおすも中盤の「最後の晩餐」で同様のズレが生じ、清田さんがしばらくおいてけぼり状態になるというかなり危うい演奏になった。清田さんは(ちょ、待って)(どうしよう)といった表情であとのふたりを見やるが、川さんは鬼の形相、新留さんは目を閉じて演奏に没入しているので気が付いていない。気付いていたとしても走り出した曲をとめることはしない(笑)。……まあ、ほらこのひとら出身がハードコアだから。徹底した個人主義に拠るパンクですからして、各々が自力でなんとかするしかありませんね。いつもなら心地よくすらあるmotkのテンションに、こんなにヒヤヒヤしたことはなかったわ……。

一方川さんがシンセのパターンにドラムを合わせる導入の「Clarity」(音源にはない佐々木さんのソロが素晴らしかった)では頭出しが合わず、最初からやりなおす場面も。普段ならどうした的な歓声がとぶところだが、川さんがクスリともせずラップトップを操作しているので、とてもじゃないが誰も茶化せない。フロアは固唾を呑んで様子を見守っている。「Time」ではなんと新留さんがギターを演奏、フロアの視線が一気に下手側へ。音源ではCHONのMario Camarenaがフィーチャーされた楽曲です。そのマリオのギターを完コピ……いうのは簡単だが、フィーチャーされるようなギタリストのそれをそうやすやすと完コピ出来るわけないだろう! しかしちゃんと形になってたところは流石です。もともとドラマーのとこ鍵盤にコンバートして、今度はギターかよ。すげえな新留さん。終わったあと頭から湯気が出てそうな風貌になってました。「ギターうまいよー!」とヤジがとび、ここでフロアもステージ側もちょっとひと息つけた感じか。このときばかりはヤジに感謝したよ。

ちなみにLITE井澤さんのinstaによると、この日新留さんが使ったギターは楠本さんのものだったとのこと。ギター持ってないところから(いやまあバンドマンですから心得はあったかも知れないが)あそこ迄弾けるようになってたところに、新留さん本人の努力と川さんの特訓というかシゴ以下略の程が窺えます……いやはや。

新曲と既発曲が混在する内容に、フロアは聴き入ったり盛り上がったり。打てば響くような流れが生まれては消えの繰り返し。途中ケンジーくんが、その空気を打破しようとしてか何度か雄叫びをあげました。ステージの緊張感がフロアに伝播していたようにも感じ、ライヴとしてはかなり面白い空間と時間が続きました。これはライヴの出来が悪かったという意味ではないのです。リカバリは早く、ミスを引きずったりはしない。その分「今夜のライヴの展開」というものが見えなくて、聴き入っちゃうのよ、見入っちゃうのよ。プレイヤーの方はといえば、イヤモニをしていない楽曲の方がのびのび演奏出来ているようには感じました。

その苦闘…というと語弊があるな……楽曲と演奏力のとっくみあいが見られたのはある意味貴重だった。ライヴを体験すると多少印象が変わるが、スタイリッシュなアートワーク等から受けるクールなイメージから、このバンドは演奏すらもサラリとやっているという誤認識をしてしまいがちだ。そもそもは川さんが頭のなかに描いた楽曲と演奏を具体化するため、メンバーを特訓するところから始めたプロジェクトなので、手癖や自分の得意技に安住することはない。曲のための演奏はあるが、演奏のための曲はないともいえる。常に挑戦ですね……安藤忠雄展のタイトルも『挑戦』だったしな! スタイリッシュと破天荒は両立出来るのだというのを見せてくれる面白いバンドです。

さて、ライヴでどう披露するのかいちばん気になっていた、Dominique Fils-Aiméが唄った二曲。稲泉りんさんというヴォーカリストがゲストでいらっしゃいました。Massive Attack形式ですね。といえば「Stars Down」は、マッシヴの「Angel」のベースラインに通じるものがある。ブリストル/トリップホップ的、motkの新局面である楽曲を、稲泉さんのクリアな声が彩りました。男臭い(笑)motkのステージに女性が! という意味でも新局面。彼女がステージに現れた途端空気変わったもんなー。失礼乍ら存じあげなかったのですが、『ペルソナ5』の主題歌やサポート仕事などで広く知られている方とのこと(まとめ有難い)。川さんに「ここからエモタイムだから。エモーショナルにねっ」とふられて「ハードルあげないでください」なんておっしゃってましたがエモとクールを自在に操る最高っぷりでしたよ。また唄いにきてほしいなー。このエモタイムというMCがあってからは随分リラックスした感じになったかな。ギターと管の入ったエモい「Dark Light」は盛り上がった!

rokapenisHello1103によるVJも冴えてました。バックドロップだけでなくフロア壁面も使っていたのが格好よかった。楽曲にリリックがある、それはメッセージになる。オープニングでは「Shapeless Man」の“days of disappearance”、「Stars Down」のときには“Where the hell were you?”。言葉がスクリーンに現れる。おまえは何を考えてこの曲を聴いている? と問われたようでドキリとする。二列目にいたため映像の全景は観られなかったのですが、UNITの空間が美術作品になっていたのではと思います。こういうのはひきで観たいよね。motkのライヴは視点がふたつほしくなる(笑)。

川さんと新留さん、ふたりの作曲家の色がハッキリ出てきたことで楽曲の幅が拡がった。清田さんはそれを体現する演奏家。といいつつも、前回同様アルバムに一曲だけ提供される清田さんの楽曲はとても印象に残る。ふたりからスタートし、映像のチームも含めてmotkだといっていた時期もあった。「(川崎、清田、新留)この3人でmouse on the keysです」と名乗ったのは2009年のO-EAST。そこからここ迄きたのだなあと勝手にジーンとしてしまった。なんかmotkのライヴは毎回感慨深くなっている。父兄か。

オーラスはときどき恒例、Napalm Deathの「You Suffer」。ウケるー。帰っていく三人が三人とも上気して、髪の毛が膨らんでいたのが印象的でした。今夜のライヴはすごくよかった。でも、この三人にはまだいくらでものびしろありそうな気がします。それは楽曲も同様で、演奏によってきっと無限に可能性が拡がる。新譜の曲がもうちょっとライヴでこなれた頃にもう一度聴きたい。今夜のは今夜のでとても貴重なものを聴けてよかったけど! よかったんだよ!!!

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・mouse on the keys『tres』で見せた成熟の新たな美学│OTOTOY
「Clarity」のクワイアは、motkが新しいフェイズに入った!(そういえば今回のアルバムには「Phases」という曲が入っているではないか)という衝撃を与えるに充分なものだった。この声の主の正体、そして彼らがmotkとコラボするに至った経緯が知りたかった。彼ら以外のゲストについても、この記事で詳細を知ることが出来た。リリックとメロディは歌い手におまかせだったというのも驚き。
ギターもヴォーカルも「反則技」。本人たちもこれ迄のmotkとは違う楽曲の仕上がりに「吹いた」「爆笑した」そうだが、ここで笑えるところがたのもしい(笑)。「変プラス変がポップになる」、それを恐れず楽しめる。
webというツールをフルに使い、音楽制作における物理的距離と時間を短縮する。同時に過酷な移動距離とスケジュールの海外ツアーを積極的に行う。webでは見つけられないシーンの動きは現地で直接体感する。ものごとを実現するためフットワークの軽さと思いきり、これからの動きも楽しみです