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2017年05月28日(日)
木ノ下歌舞伎『東海道四谷怪談 通し上演』

木ノ下歌舞伎『東海道四谷怪談 通し上演』@あうるすぽっと

2013年の初演から四年、いやーいい再演でした。現時点での集大成、決定版。ドラマとしての『四谷怪談』を見せるという狙い。ケレンや仕掛け抜きでも、この作品がどれだけの凄みをもっているかがよくわかる。時代に翻弄された者たちの群像劇だ。

2013年に上演されたものとは言葉づかいの割り振りがより柔軟になり、家柄や立場に縛られている登場人物たちの揺らぎが見えてくる。対峙する相手によって変化する言葉がその心情を浮かび上がらせる。これは大きかった。顔貌が変わったお岩へ伊右衛門と宅悦が投げつける言葉の数々が、初演にもまして酷く響く。これ、あまりにも「おまえみたいに顔が醜い女なんか〜!」というのでなんでそんな、いくらなんでも……と思っていたんだけど、当時は顔が醜いと心が醜い→邪心が顔に顕れるという考え方があったからだとアフタートーク(後述)で知りああ…などと思いました。一度そうなったらもとには戻らない、よって離縁もあたりまえと忌み嫌われる。何故病気になるのか、何故身体が壊れていくのか。その時代では原因もわからず、理解出来ないものは恐怖となり、闇へ葬り去られるばかり。

「わからない」世界を前にひとはもがく。お梅の父からお岩へ薬を渡したと聞かされた伊右衛門の愕然とした顔、蚊帳を持ち出そうとお岩に暴力をふるう際の伊右衛門の苦悶の顔。もう戻れない、こうするしかない。ふるまいと裏腹に滲み出る情愛。心が引き裂かれていくさまが露わになる。初演の「登場人物の出自によって言葉遣いを分ける」という手法は、成程とは思ったものの理屈が先にたった印象もあった。今回は割り切れない人間というものを強く感じられるものになった。

そして初演の感想にも書いてるが、まず型を完コピするという木ノ下歌舞伎の基本に唸る瞬間もたびたび。身体のとめ、はね、はらい。美しい文字を見ているかのよう。伊右衛門、直助、与茂七のだんまりのキマること。そこでエレファントホーン鳴らすとこ最高な……。この音を! 使うか! 伊右衛門:亀島一徳、与茂七:田中佑弥は初演と変わらず。今回直助を演じた箱田暁史の体温の高さといおうか、書体が太いといおうか。情の厚さも強く心に残った。

し〜か〜し〜、そういった古典への徹底した検証やホンの読み込みもすごいとこなのだが、私が杉原邦生演出で何が好きかってあの空間づかいなのだ。これでもかという八百屋舞台(あの傾斜!)の存在感には入場した瞬間アガったし、第二幕、「元の伊右衛門浪宅の場」から「十万坪隠亡堀の場」の転換がも〜、杉原演出の真骨頂! と心のなかでガッツポーズしましたよね。阿鼻叫喚の修羅場のあと、地獄のような堀を舞台ど真ん中に出現させる。左右の移動じゃなくて上下の移動、しかも上昇ではなく下降。地位も野心も足元から崩れていく。登場人物の転落をも表現する、この立体感がたまらない。音楽とあいまって、どスペクタクルな転換でした。最高か。しかも堀の底は客席から見えない。不安に起因する恐怖が増幅する。

あと「小塩田隠れ家の場」「夢の場」の素晴らしさな……。幕見に代表される歌舞伎での上演は「見どころ」がだいじでもある。そこで零れおちてしまうドラマは、通し上演の意義となる。

そういえば、終盤ひとりの役者さんが思い切り転んだのって、ハプニングですよね…ビッターンて感じだったので隣のひとが「ひゃっ」とちいさな悲鳴あげてました……。カーテンコールで見たらおでこにたんこぶというか赤く腫れ上がっていた。しかしあそこで芝居がとまらず、転倒したまま流れるように台詞がでてきたとこがすごかったなあ。初日前にひとり怪我で降板したようですし、皆さんご無事でと思いました。

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おまけ、アフタートークで面白かったことおぼえがき。記憶で起こしているのでそのままではありません。

・現代語訳、楽屋落ちあれこれ
木ノ下:僕がまず原作を編集、補綴して、邦生さんが上演台本をつくるというかたち
杉原:当時の楽屋落ちを現代で上演する際いかに有効にするかってところに結構やりがいを感じてる
木ノ下:今回邦生さんが書いた上演台本を読んで感心したのはお梅の「じじいぜってえばちあたんぞ!」。ウケてたけど、実際それくらい強い語調なんです、当時の言葉でも。あれはどれだけのことをお梅がいったかというのがよく伝わると思う

・時代とともに消えていく慣習など
木ノ下:たとえばなぜあんなに顔が醜いことを忌み嫌うか。当時は顔が醜い=心が醜い→邪心が顔に顕れるという考え方があったから。こんな顔の=心が汚れた女は離縁されて当然、ということになる。こういう、今そのままやると「?」な部分をいかに残して後世に伝えていくかは考え乍ら上演台本を起こしている

・「夢の場」の重要性
杉原:とてもだいじな場、なぜ上演されない! してもただ踊って終わりとかわけのわからない演出になってたりする。ホンを読めばどれだけ重要なことが書いてあるかわかるのに、踊るだけとか……そういうのはちゃんとホンを読んでないんですよ(以下思いがあふれたのか延々続く。確かにここがちゃんと上演されることで、伊右衛門とお岩の関係性についての印象ががらりと変わります)
木ノ下:お岩が「民家の生まれ」と話すところはとても重要。武家の娘ではなくなったことで、お岩と伊右衛門が向き合える。ちゃんと原作に書いてあることなんです

・ジェットとヘリのSEを入れる意図
杉原:俯瞰を表現している。ヘリの音に関してはどろ太鼓が入る箇所と同じにしてある
木ノ下:京都で上演したときはマスコミの方がたくさんいらしたんだけど、「ヘリの音は戦争のメタファーでしょう」と随分いわれた。そのつもりはなかったけど、これから討ち入りだという高揚感みたいなものとして感じられるのかも

・今後やってみたい演目
杉原:『浮世風呂』やってみたい、大駱駝艦で
木ノ下:なめくじが風呂場で踊りまくる舞踊演目です。大駱駝艦のメンバーがうねうねおどって、麿さんが上からうらあ〜って塩をまく。想像つきますよね〜(ウケたウケた)
木ノ下:実は『仮名手本忠臣蔵』と『東海道四谷怪談』の通しをやってみたい。記録を見たら鶴屋南北の時代でも一度きりなんです、だから一度やれば南北とタイ(笑)。通しは規模が大きいので自分たちの力だけでは出来ない、気長に待っていただければ。演出も手分けすることになるかな、邦生さんには九段目をやってもらおうと思ってる
杉原:ええっ、僕四段目がやりたい

・物販のおしらせ
木ノ下:パーカーってご存知ですか? あのーパーカーって僕、どういうときに着るかよくわかってなかったんですけどあれですね、あれは現代のはんてんですね(木ノ下さんの年齢ときどきわからなくなるわ……)



2017年05月27日(土)
『天の敵』『クヒオ大佐の妻』

池袋三昧。未だにどちらがイーストでどちらがウエストかおぼえられてない。

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イキウメ『天の敵』@東京芸術劇場 シアターイースト

「人生という、死に至る病に効果あり。」平易な言葉で哲学を語る。どの人物の言葉に心が寄るか、鑑賞者への信頼を感じる。信じるか、信じないか、可能性を追求するか、受け容れるか。厳しく、そして優しい作品。「あまり時間がない」ライターと、「時間がありあまっている」料理家の対話。彼らをとりまく人物たちのクロニクル、人間の欲望の物語。

まず122歳という年齢設定が絶妙で、なくはないかも、と思わせられる。浜田信也の透徹、達観、諦念をまとった姿に説得力。『太陽』でもそうだったが(そして今作はある意味その後の『太陽』でもある)、このひとは不思議と善性を感じさせる空気がある。大石継太にも同様なものがあると個人的には思っている。もともとの資質なのかどうなのか……その読めなさも大きな魅力。そんな人物がとある欲求から、聞き手のライター曰く「アウトでしょう」なことがらに手を染めていく。

老いを手放すということは、その時間との接点を持てなくなるということだ。その時間に生きる他者との関係を築けなくなる。必然的に孤独になる。土岐研一の美術が秀逸。イキウメの作品性をよく表す言葉である図書館のような空間に、標本のようなオブジェに埋め尽くされた壁面。舞台は照明とのコンビネーションにより料理家のアトリエになり、彼が医師だったときの研究室になる。最も感銘を受けたのは、とあるシーンで一度カーテンに遮られたその壁面が再び姿を現した瞬間。青と白のコントラストは、夜のマンションの部屋に灯る明かりのように見えた。それぞれの家でそれぞれ生きるひとたちのくらしを、彼は日々こう見ていたのかもしれない、と思う。

浜田さんは100年という時間を生きたたったひとりの人物ゆえ出ずっぱり。身体はそのままでも、記憶の層は積み重なる一方。しかもひとつひとつをことこまかく、鮮明に憶えている。援助してくれた医師、短いあいだ友達になったヤクザもの。そして失った妻。その苦痛がときどき顔を出す。イキウメの近作では立て板に水な台詞まわしで理路整然と罵詈雑言を繰り広げる安井純平が聞き手に徹する。今か、ここかというタイミングで炸裂する「アウトでしょ」「ぜいたく〜」といったツッコミの間、安井さんの真骨頂。このふたりの丁々発止、とても観たかったものだった。

現在女優が不在のイキウメ、岩本幸子に代わる声を持つ人材は得られるのだろうかと思ってもいた。客演の村岡希美はその声と、芝居の巧さでシーンを色付ける。ある意味贅沢な起用。小野ゆり子はさまざまな年代の女性を演じわけて見せてくれた。壮年〜老年の女性の声色といいまわし。欲望に屈服する女性、スピリチュアルに傾きがちな危うさを孕んだ女性。料理家と生きる、現代の彼女はこれからどうなるのだろう? どんな選択をするのだろう? と思わずにはいられない。興味と、気がかりを残してくれる役者さん。

そして前川知大作品の好きなところ、森下創が演じるような役まわりを配置してくれるところ。唯一料理家と向きあえているともいえる人物、いや、既にヒトではないのかもしれない。「おまえもはやくこっちにこいよ」、料理家とは違う方法を選び、実践し、もうひとつの人間のゆくすえを見せてくれる。可能性ともいえる。理詰めで解明出来ないことは必ずあり、それを否定しない。彼らはいつでも傍にいるし、いつでも会うことが出来る。松尾スズキがよく言っている「頭のなかに墓をつくる」ことにも通じる。それにしても、どこ迄が生で、どこからが死なんだろう? 肉体の死こそが人間の死だと定義されていることに、ふと疑問を覚える瞬間があった。

それでも、太田緑ロランスが演じたライターの妻の涙には揺れる。肉体の死へ向かっている夫を案ずる涙。簡単に納得出来ることではないのだ。それほど人間は身体にしばられている。

生きることに飽き、生きることを憂い、作品はメランコリアに覆われていく。病的に健康、それってなんだ? 食物連鎖から脱し、それでも生きていく方法は? 生きるとは何を指しているのか。『カラフルメリィでオハヨ』の劇中歌を思い出した。♪ぼくたちは100年後にはもういない/いたとしてもかなりヤバい/いつか死ぬ/きっと死ぬ/人間の死亡率100パーセント♪

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おまけ。劇中に出てきた料理のレシピ。『ダークマスター』もそうだし『1993・待つ』の「ねじまき鳥クロニクル」もそうだったけど、芝居で匂いの記憶が残るのって結構楽しい。てか『1993・待つ』って24年も前なのに未だに思い出せるってどんだけ。




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『クヒオ大佐の妻』@東京芸術劇場 シアターウエスト

こちらの美術(伊藤雅子)もよかった。映画監督である吉田大八が、一場の舞台を作り込む。

終盤のあるシーンで客席エリアも使う仕掛けがあって、それは後ろから全景を観たかった……何故だの最前ど真ん中の席だったので。なんでこんないい席とれたんだ。その分接近戦には効果絶大、宮沢りえの美貌と、マシーンのような生態(ここぞというタイミングで涙が零れるあの瞳!)にやられっぱなしでした。あと宮沢さんと岩井秀人の絡みが間近で見られて楽しかったですね(笑)。

観ていくうちに舞台の時代設定が2003年だとわかる。いろいろと解釈が出来そうなメタファーがある。待つ女。実在するのかすらあやしくなっていく男。その男にだまされる女、嫉妬する男。清水邦夫や唐十郎、岩松了の作品を思い出す。アングラの香り。古田新太の「宮沢りえは日本最後のアングラ女優」という言葉の裏付けを見る思い。思えば宮沢さんは唐さんの『緑の果て』に出ていたんだった。何気に素地があったなあ。このドラマ、とても好きだった。

水澤紳悟という役者さん怪演だなあ、何者…と思っていたらあの立兄ィの『ぼっちゃん』のひとだった! うへー気づかなかった。ハイバイの女傑? 川面千晶も格好よかったです。このひとのツッコミ大好き。

個人的にはパールジャムの思い出と関連づけられるところがあって図らずもしんみりした。

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とまあ、こういうふうにどんよりとした考えが出てくるのはクリス・コーネルの訃報があったからです。自分の音楽体験に深く関わる人物であり、思いがけない急死とその死因にまだ納得出来ていない。「もう大丈夫」なんてものはなくて、「今は大丈夫」の更新の繰り返しなのだと思い知らされている。いちリスナーですら受け入れられないのだから、近しいひとたちの悲しみとやりきれなさはいかばかりか。エディ・ヴェダーは何もコメントを発表せずツアーに出た。初日の模様を伝える記事を読んだ。彼はいずれ何か語るかもしれない。今後も一切言葉では語らないかもしれない。どちらにしろ時間がかかる。



2017年05月21日(日)
『アンタッチャブル』

『アンタッチャブル』@TOHOシネマズ新宿 スクリーン12

『午前10時の映画祭』にて鑑賞。もうシーズン8なんですね。スクリーンで観るのは初めて、有難い。

カナダのくだりをまるっと忘れていた自分の記憶力に愕然。今観るとよりクラシックな香り高く、スタイリッシュな映像と演出に魅了される。アップが多い、カメラが近い。それに堪えうる美しい相貌と、表情で物語る役者が揃っている。この作品におけるケヴィン・コスナーの美貌は映画の財産だと思います。そしてこの映画で一躍名を挙げたアンディ・ガルシアの美しさも特筆もの。眼福です。

同時に、今のハリウッドならこうは撮らないだろうなという思いもわく。たとえば終盤、『戦艦ポチョムキン』からの引用である乳母車の名シーン。ものすごく長い。その後銃撃戦になった際、ネスが乳母車を守ろうとした母親にとった行動。そしてクライマックス、ネスが殺し屋ニッティにとった行動。長いといえば、マローンの最期も長いですね。これは公開当時から「何せマローンは007だから」なんていわれてましたね(笑)。ようがんばったよおじいちゃん……(涙)。

手段は選ばない。「法に触れない範囲で」といっていた主人公が変貌していく。法にまかせておけるか。仇はこの場で討つ。友はかえらない。そういったシーンの数々に、時折胸がすく思い。後ろめたい。そういう意味ではノワールな側面もあったんだなと気づく。これは当時はわからなかったことだなあ。名作はこうして時代を映す。今のハリウッド、今のアメリカ。高い理想。

あと偏見なんですが、おじいちゃんというとちっちゃいイメージを抱いてしまうので、ショーン・コネリーが全身映る度「あっ、このひと長身だった!」といちいち思い出してビックリするという。ケヴィン・コスナーよりおっきいよね……お素敵でした。また愛嬌があってねえ。うう。



2017年05月17日(水)
『トンネル 闇に鎖された男』

『トンネル 闇に鎖された男』@シネマート新宿 スクリーン1

2016年、キム・ソンフン監督作品。原題『터널(トンネル)』、英題『The Tunnel』。

全方位に目配りを利かせた秀逸な脚本、その展開は常に予想の斜め上をいく。予期せぬ出来事に直面した登場人物たちの「選択」が、観る側にぐいぐいと迫ってくる。「あなたならどうする?」と。国をとりまく問題はシンプルだが、そうなる迄の経緯は複雑だ。不運にも巻き込まれた市民を社会はどう守るのか、あるいはうちすてるのか。しかしこの作品は常にユーモアを忘れない。脚本も手掛けたキム・ソンフン監督のタフなしたたかさに感服。以下ネタバレあります。

トンネルが崩落し、ひとりの男が閉じ込められる。車内にあるのはバッテリー残量78%のスマートフォン、ペットボトル入りの水、そして娘への誕生日ケーキ。ここで観る側が思うのは、スマホで外と連絡をとり乍ら水とケーキでなんとか命を繋ぐのだな、どのくらいもつかな。ということ。ところがことはそう簡単に運ばず、水もケーキも想定外の出来事からはやくなくなり、救助活動も「そんな馬鹿な」といった展開で遅れに遅れる。

しかし「そんな馬鹿な」展開は、ちっともありえないことではない。社会に生きるひとびとのちょっとした怠慢により生じること、この瑣末の積み重ねに登場人物たちは翻弄され続ける。そもそも手元にあるペットボトルは、主人公がトンネルに入る前に立ち寄ったガソリンスタンドでおまけに渡されたものだが、これは耳の遠い年配の従業員が作業に手間どったことのお詫びとしてプレゼントされたようなものだ。ここで時間をくわなければ主人公は崩落前にトンネルを抜けたことが出来たかもしれない。しかしこうなった今、この水をもらったおかげで助かっている。ケーキはとあることでなくなるが、その原因となったとある出演者(?)は、長期間閉じ込められている主人公のよき友となる。

そこからどうする? トンネルの内と外、あらゆる局面で登場人物たちは選択を迫られる。主人公と救援隊長のやりとり、救援部隊とマスコミの鍔迫り合い、どうなっても他人事な政府。皮肉のたっぷり効いたこれらの描写に苦笑していると、「65%(63か、68だったかも。どちらにしろ絶妙な数字だと思う)」で切っ先を喉元に向けられる。「あなたならどうする?」。常に自問し乍ら127分を過ごす。パンフレットでも言及されていたが、遭難から救助迄を描いたものであれば90分ですむのだが、今作は120分以上の上演時間を必要とするものになっている。いーやー面白かったなあ!

主人公を演じたハ・ジョンウ、流石。『テロ, ライブ』を思い出させるひとり芝居で映画をひっぱる。このホンの大きな要素であるユーモアを体現する。彼の演技が「遭難者」という代名詞ではくくれない、「イ・ジョンス」というひとりの人物に血を通わせる。彼と電話でやりとりを続ける救援隊長も、オ・ダルスが演じたことで人間味が増す。工事再開の決定を、混乱の極みで夫に伝えるペ・ドゥナも見事でした。あのラジオのシーンには引き込まれた。そして想定外の出演者。なんだおまえ…おまえみたいなやつが出てくるってしらなかったよ! すっかり虜になりました。本編では描かれないけれど、娘は誕生日にあるものを希望していた。それはいずれ叶うかも、と思わせられました。

音響もよかったというか…閉じ込められてからいろんな方向から聴こえるパラパラ…とかミシッ、とか、映画だってわかってるのにヒヤヒヤした。

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・輝国山人の韓国映画 トンネル
パンフレットに載っていない配役やクレジット、有難い!