遅ればせながら昨年度の芥川賞を受賞した『乳と卵』を読みはじめた。大阪弁で書かれた作品で、受賞当時はけっこう話題になっていたように思う。
私は物心ついた頃からずっと大阪で暮らしている。3歳まで奈良県にいたので「大阪生まれの大阪育ち」ではないけれど、コテコテの大阪人と言っても過言ではないだろう。大阪の言葉と言うのはテレビや映画でよく登場するけれど、派手にデフォルメされていて「今どき、そんな大阪弁使う人はいないって…」とガッカリさせられることが多々ある。面白い大阪の素人(特にオバチャン)が出ている時など、特にそう思う。もっとも、テレビに出てくるコテコテの大阪弁を自由自在に操る人がいるのも事実だけれど、そうでないの方が断然多い。
小説の中に登場する大阪弁についても、まぁ大抵はしっくりこない。大御所と呼ばれる作家さん(宮本輝とか)の作品だと、設定にしても言葉の感覚にしても現在の大阪とはそぐわないように思う。しかし、今読んでいる『乳と卵』は若い作家さんが書いた作品なので、自然な大阪弁が書かれているだろうと期待していたのだけど……やはりだめだった。
大阪弁に限らず日常会話とか、日常で使っている方言って、そこで生活していない限り自然に使うことは出来ないのかも知れないなぁ……なんて事を思った。
言葉と言うもの複雑で「○○弁」と言ったところで、地域によってイントネーションが違っていたり、至極狭い地域でしか使わない言い回しがあったりする。大阪で言うなら、北と真ん中と南の言葉は全くい言って良いほど違っている。私は大阪しか知らないので他の地域の事はよく分からないけれど、他の地域でも案外そうなのかなぁ……などと思ったりする。
石川啄木の有名な短歌に『ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく』と言うのがあるけれど、自分が使っている言葉というのは、照れくさくも愛しいものだ。そしてその言葉を愛しく思うのは、そこに住む人に多かれ少なかれ愛着を持っているからだと思う。
日常生活で誰かと交わす「おしゃべり」は、あまりにも自然で当たり前のことになっているけれど、本当はもっと大切にしなきゃいけない事なのだろうなぁ……なんて事を漠然と思った。『乳と卵』はまだ読みはじめたばかり。これを書いたら続きを読もう…って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。