今日から11月。今年もあと2ヶ月で終わってしまうのかと思うと少し感慨深い。今年は妊娠、出産と娘に関する事で過ぎてしまったなぁ……と言う印象。その結果、私の生活パターンは根こそぎ変わってしまった。日々の生活は娘を中心にしてまわっていく。太陽を追いかける向日葵の心境……とでも言おうか。それは楽しい追いかけっこだ。
乙女な母は孫の顔を見に毎日家へやってくる。病院帰りに我が家に寄って数時間、娘の相手をするのは乙女な母にとって良い気分転換になっているらしい。娘が産まれてから乙女な母は心身共に元気になった気がする。孫パワー恐るべし。
そんな乙女な母に娘の変化を報告するのは定例行事になっていて、昨日は「娘にウンチをかけられた話」を報告した。お襁褓を変えて、お尻を拭いている時に娘がウンチをして、私の着ていたパジャマからベビー布団のシーツからウンチまみれになり、夫と大笑いした……という話。乙女な母はその話を聞いてポツリと言った。
赤ちゃんのお襁褓は汚しても何をしても親は笑って始末するのに、同じお襁褓でも、老人のだとそうはいかないのが不思議だね。
確かに私は娘のお襁褓の始末を不快だとは思わない。が、亡父がお襁褓をしている時は、そんな風には思っていなかった。母乳だけを飲んでいる赤ん坊の排泄物と、色々な食べ物を口にする大人の排泄物とでは、量も匂いも違うので無理からぬ事ではあるけれど、それ以上に「可愛いくてたまらない」と感じる赤ん坊のそれと、そうでない大人のそれとを同じように感じることは出来ないのだと思う。乙女な母はこうも言った。
人間はお襁褓にはじまって、お襁褓で終わるのかも知れないねぇ。
確かにその通りかも知れない。ポックリと病みつかずに亡くなる人もいるけれど、お襁褓の世話になって亡くなっていく人は多い。赤ん坊はニコニコ笑って世話をしてもらえるのに、同じ作業でも老人となるとそうはいかない……という事実は、やるせなく、そして切ない。
「切ない」と感じるくせに、今後、老人のお襁褓の世話をする機会があったとしても、私はきっと娘のお襁褓の世話をするように、ニコニコと世話をする事は出来ないだろうと思う。せいぜい、嫌な顔を前面に出さないでいるのが関の山だろう。人間って残酷な生き物だとつくづく思う。
生まれたばかりの娘の世話をしながら、やるせない事を考えてしまった。「人間はお襁褓にはじまって、お襁褓で終わる」ってのは、なかなか興味深い事実だ。遠い将来、私もお襁褓の世話をしてもらう日が来るってことを心のどこかで覚えておかねばならないなぁ……なんて思いつつ、今日の日記はこれにてオシマイ。