白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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2006年11月01日(水) 学校の必要性

最近、いじめが原因で自殺…なんてニュースが続いていて、なんだかとっても、やりきれない。

ニュースキャスターやコメンテーターが「学校や親や社会の責任」について語っていたり「子供たちに生命の尊さを教えていく必要性」について論じていたりするのをを聞いると、なるほど正論が多いのだけど机上の空論のような気がしてならない。たとえば……「子供たちに生命の尊さを教える」と言ってもそう簡単に到底出来ないと思うだけに。ペットの死を看取ったとしても、生命の尊さを謳った映画や小説に触れさせたとしても、死にたくなったら死んじゃうのが人間だろうしね…と思うだけに。

生まれてから1度も本気で自殺を考えたことのない大人なんていないと思う。もし、存在したとするならば余程恵まれた人か、あるいは感性の鈍い人だろう。

しかし、ちょっと不思議なのは「死にたくなるほど辛いなら学校行くの辞めちゃうのもアリなんじゃない?」って意見をあまり聞かないことだ。私とて成長過程において「学校で学ぶ」ことの大切さは理解しているが、死ぬほど嫌なら「行かない」って選択肢もアリだと思う。確かに学校は成長過程で必要な場所ではあるけれど、大人になれずに死んでしまうくらいなら、別の道を探したら良いのに……と思うのだ。

確かに規定の教育を受けないとなると社会へ出る時に困難はついて回るけれど「地域の学校に通う」ことだけが教育を受ける手段ではない。現実問題として通信制の学校や大検を利用して大学に行く人も多いご時世である。それなりの苦労は覚悟しなければならないけれど「正規のルートを通らずに大人になった」人ってのは案外多い。

しかしながら、子供の頃は「学校」という狭い社会がが世界の全てで、そこで躓いたら絶望的になってしまったりするものだ。しかも大人達が「学校に行く事」にコダワリを持っていたら尚更である。そりゃぁ、行かないより行った方が良いとは思う。だが、誰もが同じルートを歩けるとは限らないのだ。横道からひょいひょうと公道に紛れ込む歩き方もアリだと私は思う。

学校でも会社でも「死ぬほど辛い」なら行かなくて良いと思うのだ。「行かない」という選択肢を選ぶのも大変だけど世の中、どうとでも渡っていける。だけど、そりれは、とりあえず生きていれば……の話。

ちなみに私は「いじめ」については、どんな理由があったとしても問答無用で否定する。「いじめ」を無くすことは重要だし、それに対処する方法も考える必要はあろうと思うが、ちょいと逃げ道を提案するのも良いんじゃないかと思ったりするのだ。躓いたり、横道にそれるのは、ちっとも恥ずかしいことじゃないのだから。ジタバタしてこそ人間だしね……って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2005年11月01日(火) 単純なこと
2003年11月01日(土) 幸せアイテムを2つばかり
2002年11月01日(金) いい日旅立ち。
2001年11月01日(木) 欝で逝った祖母の話。

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