たんの吸引措置が必要なことを理由に保育園への入園を拒否された子供の両親が越した入園拒否訴訟で原告の言い分が通った……とのニュースを聞いて「良かった」と思うと同時に「どうして、こんなことが裁判になるのか?」と不思議に思った。
私が通っていた公立小学校には色々なタイプの障害を持った生徒が通っていた。「養護学級」に在籍している生徒もいれば重い心臓疾患のため養護教諭が専任で付いている生徒もいた。障害の程度にもよるとは思うのだけど、身体的な障害のために介助の人が付いている生徒もいた。なので、ハンディキャップを持った生徒がサポートを受けるのは「当たり前」の事だと思っていたので、今回のことに限らず就学問題での訴訟が起きるたびに、いつも違和感を覚えていた。
夫にその話をしたら、夫の通っていた市の小学校では養護学級こそあったが、介助の人がついていた生徒はいなかった……という。その辺のガイドラインは市の方針によって変わってくるのだろうか。今回の訴訟で市側は「看護師が付きっきりで看護できる態勢にない」と主張していたそうだが、体勢なんて物はその都度作っていけば良いことだと思う。
学生の頃……かれこれ14年前にもなるけれど、ボランティアをしていた施設の勉強会で「弱者が1人で活動できる環境を造る事も大切だが、それ以上に、弱者が出来ないことを誰かに頼ることが出来る体制と意識付けが大切」というような事を学んだ。たとえば……日本では障害者が「1人で何でも出来る」ことに重点が置かれて、ハード面(バリアフリー的なこと)の改善には熱心だが「出来ないことは、出来る人が助ければ良い」というような意識が育っていない…って話。
たとえば……目の見えない人が白杖を持って歩く訓練を受けて1人で出歩けることは素晴らしい。だが「1人で歩くのは恐いから、そんな時にちょっと手を引いてくれる」ような友人関係や公的な体勢が整っていれば「頑張ることを強いなくても良いじゃないか」っって考えらしい。
14年前、この考えを聞いて目から鱗が落ちる思いだった。もっとも、この考も両手を挙げて「素晴らしい」とは言えない部分もあるけれど、社会的に弱い立場の人のための施設を作るばかりではなく、そういった意識的な改善も必要なんじゃないかと思う。人生がスタートしたばかりの子供には等しく生きる喜びを享受して欲しいと思う。そのためにサポートが必要ならサポートすれば良いじゃないか。
なんとなく普通っぽく生きていると、ややもすればこういう問題に対して「自分には関係ない」と思いがちだが、自分や自分の周囲にいる人が死ぬまで健康でいられる保障なんてどこにも無いのだ。こういう事は真面目に考えて取り組んでいかなきゃいけないよなぁ……と自分自身に言い聞かせつつ今日の日記はこれにてオシマイ。