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2022年08月06日(土) ■ |
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NODA・MAP『Q:A Night at the Kabuki』 |
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NODA・MAP『Q:A Night at the Kabuki』@東京芸術劇場 プレイハウス
初演を観たからいいやと思ってるひとほど観た方がいいように思う。私もそうで、再演なら他に観たいのあるなあ、なんて思っていた。普遍的な作品というものは、現在を摑まえる要素をも持ち合わせているのだと思い知らされた。初演の感想を基に、現在の視点から気づいたことを中心に書く。
初演は2019年。大ヒットした映画『ボヘミアン・ラプソディ』の記憶がまだ新しい時期、そして前述したように日本ではラグビーワールドカップが開催中だった。ニュージーランドチーム(オールブラックス)が試合前に披露するハカは、TVやWebで頻繁に流れていた。平家が出陣前におどる舞は、そのハカの「カ・マテ」を引用したものだった。「カ・マテ、カ・マテ」という歌詞も引用されていた。「カ・マテ」は「死」を意味する言葉だ。
初演時は時事ネタ的なところもあり、結構ウケていたと記憶している。初演時の感想にも書いているが、なんて絶妙なタイミングで上演されたんだと思った。しかし再演でも「カ・マテ」は採用された。この踊りが何を意味するか、今ではラグビーに興味がないひとにもある程度知られている。ポピュラリティを獲得しているものならではの効果だ。心底怖いし、出陣することがどういうことか、ということがひしと伝わる。
対して源氏は名乗らず奇襲をかけてくる。こちらは現在放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が記憶に新しい。義経が持ち込んだ戦術は優れたアイディアではあれど、美化も出来ないという解釈で描かれていた。今作のベースである『ロミオとジュリエット』の名前を捨ててという台詞と、名前を拾う(探す)戦後という歴史のレイヤーがより鮮明になった。あと『鎌倉殿〜』観てると、清盛も頼朝もこんなにひと殺(すように指示)しといて自分たちは自然死(諸説ありますが)かよ〜! という思いもメラメラ湧き上がりますね(…)。
そして2月からのウクライナ侵攻。殺人は終戦の瞬間罪に問われる(つまり、戦中は罪に問われない)こと、一度戦争を始めてしまうと「終わっても終わらない」ことがより現実的なものとして胸に迫る。多数の無名戦士、多数の抑留者。そして多数の行方不明者。なんて酷いこと、なんて理不尽なこと、なんて不条理なこと。そのことを忘れないように心掛けているが、やはり人間は忘れてしまう生き物だ。NODA・MAPを始めてからの野田さんが、繰り返し戦争をモチーフにした作品を書いていることの意味を思う。8月は「終戦」の月ではあるが、その後何年も辺境の地に留め置かれ、命を落としていった者たちにとって終戦などない。だから繰り返し伝える。忘れてはいけない、なかったことにしてはならないと。
再演からは、作品は過去から学ぶだけではなく、現在を見つめるものでもあるという視点をより強く感じた。竹中直人は「まっすぐ歩ける!」ネタを封じ、よりシリアスに役に徹した。東京公演のあとにはロンドン、台北での公演が控えている。ロミオがティボルトを殺す場面で「ボヘミアン・ラプソディ」が流れるという演出が、イギリスでどう受け止められるか。シベリア抑留を台湾の観客はどう見るか。源平合戦や『俊寛(平家女護島)』は海外のひとたちにどう理解されるか、興味がある。そうそう、俊寛で思い出した。これは初演時もいわれていたと思うけど、死者の声を聞くという意味合いが濃く、やっぱり歌舞伎というより能だなあと感じた。Queenの楽曲を使うという前提があるので、ここはカブキとしたいのだろうが。
国が崩壊すると通貨がゴミクズになることも『モガディシュ』を観たばかりだったのでより切実に感じたな……。優れた演劇は、個々の観客の記憶にリーチすることが出来るのだと改めて思う。
21世紀を「憂え」、「信じてみる」とした野田さん。戦争は続く。疫病は収束しない。それでも「信じてみる」。信じてみよう、いつか戦争がなくなる時代がくることを。あの言葉を、これからずっと松たか子の声で思い浮かべることが出来ることを幸せに思う。初演で感じたことは、これからも胸に残る。
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コロナの影響で初日からの4公演が中止になりました。海外公演含め残り全ての公演が無事終えられるよう、強く願います。
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