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2019年07月20日(土) ■ |
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さいたまネクスト・シアター『朝のライラック』 |
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さいたまネクスト・シアター 世界最前線の演劇3[ヨルダン/パレスチナ]『朝のライラック』@彩の国さいたま芸術劇場 NINAGAWA STUDIO
風に揺れるレースのカーテンを境界に光と影が、過去と現在が交差する(照明:金英秀)。蜷川幸雄の演出にも見られたこれはオマージュなのだろうか。あの向こう側へ行くことが出来れば。しかしそれは叶わない。少なくとも、自分が生きている限りそこへは行けない。そこにいるひとに会うことも叶わない。Apple製品は世界のどこ迄行き渡っているのだろう、なんてことを考える。登場人物のひとりが持つスマートフォンから流れる聴きなれたメロディ。遠い国がグッと身近に感じられたシーン。演出は俳優座の眞鍋卓嗣、翻訳は渡辺真帆。美術は伊藤雅子、音楽は時々自動の鈴木光介。
移り住んだ町がダーイシュ(ISIL)支配下となったドゥハー(「朝」の意)とライラク。その美しさゆえ、軍司令官と町の長老に狙われる妻、妻を守ろうとするも逃げ場を失って行く夫。両親も恋人も失い、「洗脳」されたようにふるまう夫の教え子。信仰を悪用する宗教というものがあり、それを利用する集団がいる。銃や暴力を用い思想を強要する武装集団と、それらに演劇と音楽という芸術で対抗する教師。その狭間にいる教え子の心情を思うと胸がつまる。芸術により伝えられた教養を持っているからこそ、教え子の苦しみは深い。
疑問は多々ある。何故戒律的な土地に移ってきたのに肌を見せるような服なんだ(「女は誘惑などしていない、それを利用する男たちが問題なんだ」という理屈とは別の話だ。彼女は土地の風習や礼儀を踏みにじっているように見える)、何故そこで歌を唄っちゃうんだ、大きな音たてちゃうんだ、切るのは手首じゃないだろう(頸動脈だろう)、教え子の言葉を聞き入れようともせずなじり続け、誤解が解けたあと謝ろうともしないなんて酷い。そして最後、教え子にあそこ迄いっておいて、あの選択。あんまりだ。芝居として見せるため、描写を極端にしているのだろう。現実がどれ程残酷なものなのか、観客は想像しなければならない。それは恐らく容易なことだ。と同時に、解決策を想像することはとても難しい。アフタートークで作者のガンナーム・ガンナーム氏は「長老の性的欲望はライラクという女性だけでなく、武装組織の少年たちにも向けられている」と話した。戦争の歴史上ずっとそうだったのだろうが、レイプがはっきりと戦略といわれるようになったのは比較的最近のことだ。「結婚」という言葉にすりかえられるそれは、今も世界のあらゆる場所で起こっている。
ネクストが取り組んでいるこのシリーズを通して、彼らの基礎がとてもしっかりしていることに改めて感心する。翻訳もの独特の台詞まわしに違和感がない。複数の人間が同じ台詞を語るとき、まったくズレがない。さまざまな国籍、年齢の人物を演じることの出来る役者が揃っている。「役者」としてあたりまえのことだが、それが出来るひとはそう多くない。ガンナーム氏は「俳優が役を裏切ること程罪なことはないが、今回の出演者たちは役を裏切らなかった」とも話していた。ネクストの面々と客演の占部房子、素晴らしかったです。松田慎也と占部さんの体格差が美しかった。夫が妻の腰を抱くと、妻の身体は羽根のようにふわりと宙に浮く。夫は包み込むように妻を守る。ダンスのよう。リーディング公演でドゥハーを演じた竪山隼太は、今回教え子フムードの役。彼は抑えた演技でこそ輝くように思う。彼の演じるフムードは、生まれた場所と時代が違いさえすれば、芸術を愛する心優しい大人になっていただろうと思わせてくれた。とてもよかった。ライラクの母ハンニとフムードの恋人であるファーティマを演じた茂手木桜子は、娘を思う母親と、母親はじめ家族からも恋人からも引き離されてしまった娘という女性たちをはかなく演じて見事だった。
アフタートークでの話をもうひとつ。現在のシリアやパレスチナの演劇界はどうなっているのか? 劇場の前で関係者が殺される事件も起きているが、闘っている演劇人は沢山いる。だがコメディの公演は減ったとのこと。コメディが上演出来ない状況と、コメディを作っている場合ではないという空気に支配されている社会と……。重い言葉だった。
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