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2018年06月22日(金) ■ |
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HEADZ Presents『スワン666』 |
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HEADZ Presents『スワン666』@BUoY 北千住アートセンター
(自分用メモとして、まるっと内容を書いています。読んで頂ける場合、観劇後がおすすめです)
作・演出は「飴屋法水たち」。飴屋さんたちの作品は会場に着く迄の道のりと、家に着く迄の帰り道、その日まるごとを作品として認識している。記録ではなく記憶に依るものが大きい。移動と、それに伴う時間というものの影響も大きい。だから欠かさず観ていきたいし、逃したくない。つまり、上記のフライヤーを手にしたときには既に上演が始まっている。いや、もっといえば公演のチケットを予約したとき、公演の情報を知ったときからそうなのかもしれない。ちなみにこのフライヤーは、草枕以外で目にすることはなかった。
北千住には初めて行った。道に迷って随分遠いところ迄行ってしまい、駅に戻って交番で道を訊いた。おまわりさんはとても親切に順路を教えてくれた。とてもこの先に劇場があるとは思えない細い路地を通る。古い家屋が続いている。同じところへ行くらしい、同じく不安そうに辺りを見まわし乍ら歩くひとたちについていく。ようやくそれらしき建物が見えてきて、笑顔でスタッフさんが迎えてくれる。辿り着く迄の道のりといい、街の雰囲気といい、建物の様子といい、90年代初頭に大森にあったレントゲン藝術研究所を思い出す。かつて飴屋さんがTECHNOCRAT名義で『Dutch Life vol.4 COMING OUT』を発表した場所だ。BUoYは面白い空間だった。かつては1Fがボウリング場、地下が銭湯だったとのこと。その1Fで受付をすませる。再入場チェック用として手の甲にスタンプを押される。スワンを模した2、あるいは2に見えるスワンのスタンプだった。地下へ降りると、出演者である山縣太一ににこやかに出迎えられ面喰らう。従来の劇場とは違う空間のため、席に着く迄の諸注意を知らせてくれる。
辺りを見まわす。コンクリート打ちっ放しのひんやりとしたスペース。大きな浴槽がふたつ。排水用らしきマンホール。これらはもともとこの建物にあったものだ。コの字に客席配置。残りの一辺にあたる位置に、中原昌也の機材一式。音楽はリアルタイムで演奏するようだ。フロアでまず目が向いたのは縦長の大きな水槽。『4.48サイコシス』に出てきた水槽だろうか、いや、あれはプールだった? 電話ボックスだった? 水を溜めている最中だ。ホースから出る水の音が、ジョボジョボ、というトーンからやがてドボドボ、と低くなっていく。そうか、フロアに入ったときにまず聴こえてきたのはこの音か。このままだと水が溢れてくるな、床に荷物を置かないようにしよう。いや、この距離なら水が溢れだしてから対処しても大丈夫か。それにしてもこの感じ。観劇? 作品鑑賞? に来たのに自分の身を守る術を探しておきたくなる感じ。飴屋さんの作品に向き合うときいつも感じることだ。他の観劇では滅多にない。
いくつもの女性のマネキン、あちこちに飾られているコラージュ作品。中原さんは今回美術も担当している。装置群は渋谷清道と飴屋さん。BOSEのスピーカーがあちこちに配置され、中原さんの音も演者がマイクから発する音もクリアに伝わる。出演者が出てきてストレッチを始める。加藤麻季(MARK)の赤いブラウスがかわいい。山縣さんはサッカーのレプリカユニと派手な柄のレギンス、小田さんはバレエのタイツ、飴屋さんは普段もよく着ている黒いコート。衣裳のクレジットはなかった(しかしこのチームなら、コロスケさんは関わっているように思う)ので、演者が自分で選んだのだろうか。くるみちゃん(あたりまえだが見る度成長している。背も随分伸びた)やコロスケさんが現れ、飴屋さんとひとことふたこと話す。小田尚稔は準備運動をし乍ら観客が飲み終わったドリンクカップを回収したり、入場してきたひとを空席に案内している。そんな地続きのまま幕は開く。
原作はロベルト・ボラーニョの『2666』。880頁、\7,560というボリューム(しかも本文は二段組である)に怯んで未だ手が出せないでいる(この価格を知ったとき「絶版になってプレミアがついているのか」と思ったが、正規の価格です)。ビビりついでにウィキペディアの紹介頁を読む。『スワン666』の「スワン」は「2」にあたるというわけだ。原作のことは観劇後に知った。途中迄「いつもの飴屋さんたちのトーンだが、何かが違う」と思っていた。飴屋さんが、メキシコシティで女の子を買ったと語りだす辺りでようやく外国文学の翻案らしいと気付く。佐々木敦が出したお題というのはこれか。しかし騎士道という喫茶店(新宿通りにある)や大久保通りといった自分に馴染みのある場所も登場するので、一歩ひいて観ることが難しい。鳥貴族の場所も、周囲の様子もわかる。丸亀製麺の天ぷらは確かにとてもおいしい。
そうこうするうち、走れなくなって自ら頸動脈を切ったマラソンランナー(円谷幸吉)やメキシコシティで快楽と衝動のために殺されていく娼婦たち、人間のために選別されて働き、殺されていく鳥(ひよこからにわとりへ)といった「奉仕する道具にされる命」に焦点が合ってくる。食欲と性欲、暴力衝動が経済に繋がる。直接的な言葉も頻発し、恐怖感が募る。排卵日を尋ね、女性への暴力衝動を「それは女性のせいではなく自分自身の問題だ」と何度も呟き地を這う男。「誰か僕とおセックスしませんか」と叫び走りまわる男。金属バットで枕を滅多打ちにする男。飴屋さんはハンドマイクを水槽に投げ込む。マイクはノイズと衝撃音を発して水底に沈む。あっ、と思う間もなく水槽に頭から飛び込む。あまりに身軽、あまりにまっすぐ飛び込んだので、深い水槽の底に頭をぶつける。ゴツ、という鈍い音がする。
一方、女は出産の予定もないのに毎月卵をつくり続ける自分の身体のことを考えている。他者に食べられることもなく毎月捨てられていく卵たち。自分の肉体にしてもそうだ、何かの連鎖に加わるわけでもない。「生きていてもいいですか?」と女はつぶやく。この「生きていてもいいですか」というつぶやきで幕は降りる。山縣さんの「終わりでーす」という挨拶に我にかえる。終わりも地続きだ。
短絡的だとは思うが、このスペースがあるのは足立区だ。コンクリート、ドラム缶。暴力の捌け口となり殺された女の子のことを考える。ひとどおりの少ない暗い夜道(前述したようにとても劇場があるとは思えない、寂しい通りが続くのだ)で、駅前の繁華街に出る迄結構怖かった。大踏切をぼんやりと眺める。
セックスを交尾といい、生殖行為に過ぎないと常々話している飴屋さんに、どういう狙いで佐々木さんはこの物語の舞台化を依頼したのだろう。飴屋さんたちの手により焦点が絞られた(と思える)のは、女性を襲うかもしれない、女性を殺してしまうかもしれない衝動に苛まれる男たちの姿だ。それは同時に自身を恐れ、自身を嫌悪する衝動でもある。動物の本能について飴屋さんは考え続けているが、この破壊衝動は本能なのだろうか。ではそんなものを備えている動物は、どんな社会を形成していけばいいのだろう? 「生きていてもいいですか」などと問うのは人間だけだ。つきつめれば、人間は害悪でしかない。生まれてきたことに意味などない。だから懸命に生きるしかない。ただただ、死ぬ迄生きる。
中原さんには、以前の職場の昼休みによく遭遇してた。おひるごはんやおやつのエリアが被っていた。ライヴのキャンセルや原稿の休載が続いていた頃だ。この日見た中原さんはゆでたまごのようにつるっとさっぱりした顔で、快活に話し(上演前後。上演中彼はひとことも発しない)、身体つきもだいぶ違ってた。勝手にホッとしたりもしたが、今日聴いた音はやっぱり中原さんの音だったし、コラージュ作品も中原さんのそれだった。中原さんと加藤さんの「ムーンリバー」を聴けた。心が澄みわたるような時間だった。中原さんと山縣さん、小田さんのリズム感。ライム、ラップ。ダンスが生まれる。
ハラカミくんが亡くなったときの、中原さんの言葉は今でもよく憶えている。確かにそうだな、と自分が思ったことも覚えている。多面性、連続性とひとは切り離せない。どれもそのひとのある期間の姿にすぎないということを覚えておかなければ、と思う。そして、制作の背景や作者の人間性を知っているか知らないか、の前に作品は作品なのだということも。そしてそれでも、作品というものはそのひとにしか生み出せないものだ。ただひとつの、たったひとつのもの。
しかしいつものことだが飴屋さんってなんでああ空間に身を任せられるのだろう。落ちたりぶつけたら痛いとかって身体が憶えてて、多少なりとも受け身の姿勢になったりするものじゃないのか? 千秋楽迄皆さんご無事で。
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