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2017年08月12日(土) ■ |
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『プレイヤー』 |
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『プレイヤー』@シアターコクーン
前川知大作品を長塚圭史演出で。オカルト、ホラー、スピリチュアル。ギリギリな線を綱渡り。再生装置としてのプレイヤー、役者をさす言葉としてのプレイヤー。演劇のしくみ、役者の利用例として観ることもでき、非常に気持ちわるく面白い仕上がり。
長塚くんの資質が顕著だったように思う。前川さんや、前日書いたように岩井秀人が演出したらどうなるかなーと思う。同時に戯曲の多様性、読み解きについても考える。そして所謂「感じやすく」「見える」資質を持つ観客がこれを観たらどう思うかなと思う。
高橋努演じる人物を、目に見える事実で屈服させたといってもいい流れになっていたところに、もうひと声ほしかった。「感じやすく」「見える」ひとたちだけの了解になってしまうようで惜しい。この作品のもととなったイキウメヴァージョンは観ていないが、前川さんが演出した場合、もう少し展開があったのではないかという思いが拭えない。未完成の戯曲を現場で組み立てていくという設定も、演者、観客に解釈を委ねるのではなく責任を転嫁しているように感じてしまうのも惜しい。演出家が想像力を盾にしているようにすら感じてしまう。
自分は「感じやすくなく」「見えない」が、勘がいいという意味では鼻が利く。だからこそ宗教とスピにはとても手厳しい姿勢をとる。自分の「欲」を「徳」という言葉に置き換えるひとに対しても同様だ。物語のなかで明かされるひとつの計画については、彼らの行為は顕示欲にすぎないというスタンスでいる。そんな自分は登場人物たちが「何を信じようとしているか」「信じ込もうとすることでいかに無私の状態になるか」に興味が向く。舞台上の情景は、演出家の影響下にある演者たち、という図式として映った。面白くもあり、気持ちわるくもあるということはその部分。カンパニーはひとつの共同体なのだ。
妄想はふくらみ、阿佐ヶ谷スパイダースの未来についてもいろいろ考えた。信じているものが信仰となり、それが個人の枠を超えてコミュニティになる。そのとき何が起こるか。言霊を信じているので具体的なことは書かない。楽しみでもあり、怖くもある。
藤原竜也の声色含むものいいが、緊迫した舞台のよい緩衝材となっていた。仲村トオルはすっかりイキウメの世界の住人。前川作品の独特な言葉の運びを流暢に話し、聴き手に理解を促す声。イキウメン安井順平が演出助手という役まわりだったことには助けられた。台詞にも出てきた「スイッチ」を操作する役まわりともいえる。彼のおかげで我にかえる場面も多かった。ほぼ裸舞台に移動可能ないくつかの装置、パイプ椅子という簡素なセットをシアターコクーンの広さで通したところにも演出家の主張が見えた。結果、コクーンで上演された長塚作品ではいちばんひっかかりを覚えず観られた。
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