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2017年08月05日(土)
『鳥の名前』

『鳥の名前』@ザ・スズナリ

名前も知らない鳥たちが、ちいさな木にとまって報告会をしている。今日こんなことがあった、こんなひとに会った、こんな目に遭った。彼らは危険を知らせるカナリヤか、それとも。

ダイアローグをモノローグとして見せる手法、その言葉のつらなりの美しさ。上下の移動で示す場面と時間の経過。赤堀雅秋の作劇と演出が、少しずつ変化している。進化とも感じる。経験したものごとを吸収し、反映させる。その変化によって、作家の描きたいことはより鋭く、澄み、瑞々しく見えてくる。流されていくひと、うしろめたさを抱えるひとの傍にいる。「しょうがない人」たちのつなわたり、どこ迄行けるか。ちいさな光をひろい集める。注意深く灰汁を残し、えぐみの旨さとして差し出す。

言葉の端々に潜む不穏な空気。家賃収入で呑気に暮らしているらしい彼は、何故カード破産しているのか。元力士の彼は、本当のところどうして廃業したのか。地下アイドルの本意はどこにあったのか。そんななか、ずるずる八年同棲を続けている相手に女が語る将来には確信にも似た強さがあり、呆けた父親と暮らす男には実直な優しさがある。人生の岐路でつい流されてしまうひとや、やわらかな気質ゆえについ黙ってしまうひとたちを、正しいひとたちは甘えだといったり、弱さだといったりして責めるのだろう。その正しさに日々晒される苦しさを、赤堀さんはひたすら見つめる。そして書く。社会のあたりまえや正義に溺れそうになり、壊れてしまうギリギリの線はどこなのか。それでも踏みとどまる人間の在り方は、弱さなのか、強さなのか。

ついかけてしまう優しい言葉が仇になる。いい返せない逡巡が罪になる。糾弾されたらひとたまりもない、その一瞬前を描く。パンク修理をする彼とできあがりを待つ彼女のやりとりは、互いへの思いやりに満ちている。飲食、カラオケ、缶コーヒー。一触即発の場で投げ込まれる脱力シーンに、過酷な現実との接点を置く。

このホンの繊細なニュアンスを表現することは容易ではない。映像を主な活動の場とする役者たちはその表現に長けていて、スズナリの距離感はそんな芝居に向いている。あてがきであろう役を、演者が楽しんで演じているようにも見える。作家から自分はこう見られているのか、じゃあ自分に潜在的にあるのだろうその資質を引き出して拡大してみよう。新井浩文のひとたらしっぷりと、修羅場における凪いだ身がまえ。皮膚一枚下に潜むすごみ。実は連想したのは菊地成孔。村岡希美の声によるものがたりは、現実を侵食する催眠効果がある。こちらも連想したのが菊地成孔、こええなおい。井端珠里がとても印象に残った。甲斐性のない男を責める図式になりがちなやりとりを、声のトーンと間合いで多層的なものにする。ふたりが過ごした長い時間を観客に想像させる。

鳥に名前はない。人間が名前をつけるのだ。ものに名前がつくとひとは安心する。同時に息苦しさを抱え込む。窒息しそうな世界に生きるひとびとを活写する劇作家は、名前にかわる言葉を探し続ける。

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・そうそう、赤堀さんは不器用にあたふたするおっちゃんおばちゃんの恋心を描かせると絶品なので(『葡萄』とか好きで好きで)、今回それを観られてうれしかったです。かわいいいやらしさ

・選曲からイメージされたのかもしれないけど、ところどころジム・ジャームッシュ作品を思い出すようなシーンがあった。喫煙シーンの沈黙とか。そういえばジャームッシュには『パーマネント・バケーション』という映画がある。六畳間のジャームッシュ