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2017年03月03日(金)
『沈黙 −サイレンス−』

『沈黙 −サイレンス−』@新宿ピカデリー スクリーン6

神はいつでもそこにいる、すべてを見ている。でも、そこにいるだけ、見ているだけ。それを「沈黙」という言葉で表現した遠藤周作は、その筆によって神と人間のありようを照らし出した。では映画はどうか。人間にはやはり虐殺器官が備わっている、地獄も主=神もすべて自分の頭のなかにある、と再確認した次第。宗教が、信仰が、という物語の主題より、まず思い浮かべたのはこのことだった。

切支丹を「転ばせる」ためにあれやこれやと行われる拷問の数々。もはや笑えてしまう程、バラエティに富んでいる。拷問辞典かとツッコミを入れたくなるくらいで、人間ここ迄考えつくものか、と感心すらする。マーティン・スコセッシ監督はそれらの拷問手法を忠実に、丁寧に再現することに心をくだいているような印象を持った。それが人間の愚かさと滑稽さを浮き彫りにする。飢えの前に祈りを忘れる、方言を聞きとれなかったり、何度も同じ過ちを繰り返す信徒たちの告解を聞く行為がおざなりになる、といったパードレたちの行動も同様だ。彼らとキチジローに何の違いがある? ウェーブのかかった長髪に腰巻のみというキリストのような容姿をしたキチジローが、踏み絵の上でステップをふみ、いそいそを駆けていく様子はたちのわるい皮肉のように映る。しかし、これこそ人間なのだと思い知らされもする。

対してモキチは理想が形になったような最期を迎える。それはロドリゴの最期に繋がる。原作には書かれていないある要素が加わっている。敢えてそれを目に見える形にしたところ、監督の理想の具現化なのだろうが、個人的にはひっかかった。そこを! 加えるか! モキチを演じた塚本晋也、ロドリゴの妻を演じた黒沢あすかの役が対のようになっていたところは、『六月の蛇』好きにはジーンときたが……。

そしてイノウエさまを演じたイッセー尾形は本当に見事だったが、彼がかつて切支丹であったという背景が省略されていた(よね? 説明なかったよね)のが残念。彼を不気味なモンスターとしてしか認識しない観客がいるかもしれない。ロドリゴとイノウエさまの対話をあそこ迄しっかり撮っていたのだから、ここはもう一歩踏み込んでほしかった。

宗教と信仰については、自分にはなかなかハードコアな家族がいたので過去考えたことは多く、自分のなかでは決着がついている。それはまさに『沈黙』の原作に書かれていたことではあるが、この映画は「土壌が違えば育たない、いくら沼に種をまいても根付かない」ところに焦点を合わせてくれた。生活習慣や環境が違う場所で異文化はどう受け入れられるか、ということだ。伝道は使命感を煽る。この素晴らしい考えをひとに伝えなければ、知らせなければという思いは、(無知な子羊たちである)彼らを救わなければ、(知らない愚かな)彼らに教えてあげなければという思いにすりかえられる。よかれと思っての行為はときに暴力になる。この映画はその一面も描いている。そう考えるとラストに加えられたあの要素にも合点がいく。「察する」はアジア独特の美徳なのだろう。欧米ではそれは「発言しない」「主張がない」ことになる。この映画はアメリカ主体でつくられたものだ、と改めて思い出す。

この映画はそれらの融和も描く。信徒たちは誰もが死後に何かがあると思っている。生きていること自体には何の幸福もない、死ねば安息を迎えられると信じているから殉教を恐れない。そうすると、登場人物中もっとも信仰を必要としているのはまさにキチジローのような人物だ、ということが見えてくる。そんな彼の存在が、ロドリゴをパードレとして成長させた。それが棄教後であっても。

残虐な性質を抱える人間が、頭のなかにあるものを通してここ迄変わることが出来る、と示されたことに感銘を受けた。

観ている間はすっかり時間を忘れていた。終わってから162分もあったのか、と思った。あっ、このひとがこの役で出てる! と日本人キャストが出てくる度にわっとなる楽しみもありました(笑)。窪塚洋介の瞳が物語ること。塚本晋也の献身には頭がさがる。SABU監督が意外なとこで出てたわ……そして青木崇高と加瀬亮のやりとりがアドリブに思えてならない。あれってアメリカでは字幕出たんだろうか。

ところであの、ねこサービスみたいなシーンは何だったんだろう。集落が壊滅した跡地がねこだらけ、という。入り込んで観てたとこ我にかえったよ……。